その2

■一カ月前/美術室アトリエにて



 私はむかし、森のなかに住んでいた。


 カントリー調の家は母の趣味だったそうだ。煙突がある赤い屋根の家は童話の世界そのままで、私のかわいい小人ちゃん、と母はよく私のことをそう呼んだ。白雪姫にでてくる小人が住んでいた家に似ていたからだろう。ヒロインの名で呼ばなかったのは、初版では白雪姫を殺すのは継母ではなく実母だからだと思われる。


 家には星見台があった。二階の廊下から木の梯子を伝ってゆくと空を斜めに切りとる窓硝子に出迎えられ、床に寝そべって満天の星を堪能することができた。じりじりと焦がれるように瞬く星の瞬きを見ているうちに眠ってしまうのはしょっちゅうで、朝目覚めるといつも私の体にはブランケットか毛布がかけられていた。


 父はいつも母に流されていた。ほんとうは森のなかの小人のおうちで暮らすのもいやだったみたいだ。大きな蛾が家に入ってくるとひとりで叫んで逃げまわっていたし、街灯がない真っ暗な道を車で帰ってくるのが怖いと電話でだれかに零していたこともあった。


 優しいけれど気弱な父。活動的で自分のほしいものはなんでも手に入れるタイプの母にそれは歯がゆく映っただろう。きしきし、きしきし。私がよく星見台にいたのは、ふたりの間にあるなにかが軋む音──もうすこし大人だったら『家庭内不和』とはっきり表現できたが──が恐ろしかったのもあったかもしれない。


 私が白雪姫を見つけたのはそのバランスが崩れる寸前のことだった。


 幼稚園がなかったから土曜か日曜だったのだろう。よく晴れた日、だったと思う。のろのろと遅い朝食を食べる父と、てきぱきお皿を棚に片づけていくように父に説教をする母と一緒の家にいるのが怖くて私は家の外にでた。そして、玄関前のポーチに座っているその子を見つけた。


 ──なにしてるの?


 長い髪の女の子は大きなスケッチブックを膝の上に載せていた。私は彼女の横にしゃがみこみ、なに描いてるの、と聞きなおした。そして横から覗きこむ。


 描いてあったのはリアルな芋虫の絵。


 どうやら階段のそばに生えている雑草にくっついている芋虫を描きうつしているようだった。細長い葉っぱもおなかのところに黒い斑点があるちいさな芋虫も本物のようだ。すごい、と私は漏らした。


 私の感動をよそに彼女は淡々とクーピーで色をつけていく。いもむしって、おおきくなるとちょうちょになるんだよ。そう云ったときだけ、手を止めて『そう』と云った。


 私は彼女の絵に釘付けになった。いまにも芋虫の背中が割れて(そのときは『さなぎ』という過程を知らなかった)、美しい羽をもつ蝶が誕生しそうだった。


 ちょうちょになったら、お星さまのところまで飛んでいける?


 不思議だった。紙にぱっと羽が生えたように見えた。それは私の心を一瞬でかるくした。

 最後に青色のクーピーで片隅に『A』とサインを入れると彼女は立ちあがった。あ、と私はあわてる。


 ──ちょっとまってて。


 私はそう云って家のなかに引きかえした。父親は自分の部屋に逃げこみ、母親はランドリールームに移動したようで洗濯機を操作する音が聞こえてきた。私はダイニングキッチンの棚から『おもちゃのカメラ』と呼んでいたポラロイドカメラを取りあげ、外にもどる。


 彼女はスケッチブックを手に持ったまま私を待っていた。


 ──ねえ、しゃしん、とろう。


 四歳の誕生日に両親が買ってくれたカメラだった。私は彼女を撮り、彼女に操作を教えて自分を撮らせ、自分が映った写真を彼女に渡した。ふたりで一緒に撮らなかったのは、そのときの私はカメラはだれかがレンズを覗いていないと写せないと思いこんでいたからだ。


 友達の証。そう云われた彼女はじっと写真を見つめ、『ありがとう』と受けとった。


 私はこくっとうなずく。そして、『そうだ、なまえ……』彼女の名前を聞こうとするまえに彼女は立ちさってしまった。


 あしたもくるかなと私は思ったけれど。


 その日を境に小人の家は崩れてしまった。石が坂を転がるように、あっという間に。


 両親は離婚した。私は母に引きとられた。母は生家にもどり、私を祖父母に任せて働きつづけた。時々、もう飽きてしまった犬をかまうように私をかまった。私が中学生のときに母が乗っていたバスが事故に遭って帰らぬひととなった。私は母から押しつけられていた高校の入学案内のパンフレットを処分した。


 ここから通うと、けっこうかかるねぇ。


 私が行きたい高校の話をすると祖母はそう云った。交通費のことかなと思ったけどそれは時間のことで、ルネちゃんが大変じゃなければいいよ、と祖母はなぜ行きたいかも聞かずにそう云ってくれた。祖父も同調してくれた。母がいなくなっても私はふたりにとって娘から預かっている犬でしかなかった。


 私がこの高校をえらんだのは、むかし住んでいた町にある高校に通えばあのとき一度会っただけの女の子にまた会えるかもしれないという愚かな理由だけだったのに。


 愚か。年齢を重ねるにつれ私は愚かになっていた。会いたい。あのときの女の子に。『A』というイニシャルしか知らない女の子に、もう色あせつつあるポラロイド写真しか残っていない子に私は時間が経てば経つほど固執していった。


 羽があればどこまでも飛んでいけると教えてくれた女の子。


 頭の半分は会えるわけがないと云っていた。いま高校生になっているかもわからなければ、おなじ町にいるかどうかもわからない。賭けにもならないような賭け。


 それでも会いたかった。

 ちいさな子供よりも愚かに。私は『A』のことだけを考えていた。


 ──入学した高校にはアトリエがあった。なんでも画家として大成したOGが建ててくれたらしい。学校の裏手、林のなかにちょこんと建つそれはむかし住んでいた家に雰囲気が似ていた。


 そこにふらふらと足が向いたのはかつての『A』が絵を描いていたからもあったが、その懐かしい雰囲気に引かれたのも理由だっただろう。


 私はアトリエ──美術部の部室の扉を開いて。そして。

 床に座ってスケッチブックになにかを描いている、長い髪の女の子を見つける。


 私が入ってきたことにも気づかずに彼女は一心不乱に鉛筆を動かしていた。私はどきどきしながら彼女に近づき、なに描いてるの、と震える声で尋ねた。彼女は顔をあげずに『箱の絵』。


 覗いてみるとそこには箱がいくつも描かれていた。階段のように段を作っているものもあれば箱のなかにある箱もある。不思議な絵だったが、その写実的なタッチに覚えがあると思った。


 ──『A』ちゃん?


 考えるより先に私は云っていた。ぴたっと鉛筆が止まる。

 彼女は顔を上げ、私の顔を見つめたあと、ふっと逸らすように目をスケッチブックにもどした。鉛筆が走る。


 ──ねえ、『A』ちゃんでしょ。小さいころ、私、この町に住んでたの。あなたはむかし私の家のまえで……


 ぱきっと鉛筆の芯が折れた。箱のふたに黒い亀裂が走る。


『悪いんだけど』とその亀裂を見つめたまま彼女は云った。


『そこからどいてくれないかな。きみがいると手元が影になってしまう』

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