カモシカ
@okanekudasai
記録
この記憶は夢だったのか、それとも本当にあったことなのか、もしくは夢以外の、何か病的な妄想だったのか。少なくとも今の僕に判断することはできない。時が経てば判断がつくようになるかもしれないと期待して、ここにその記憶をまとめておくことにする。
事を厄介にしているのはその日の前日に僕がアルコールを取り込んだという事だ。旧知の友を家に呼んで近くのスーパーで買い漁った酒とつまみでちょっとした宴会を楽しんだ。僕も友人達もひどく酔って狭いアパートの一室で雑魚寝だった。翌朝、みんなは最低限の身なりを整えて僕の部屋を後にした。その日は休日だった。みんなを見送ったら僕は服を脱いでもう一度眠りについた。怪しいのはこの後からだ。僕は正午頃に一度目を覚ました。そして、この時点でなにかしらの確信があった。つまり、この後にどんなことが起こるのか概ね知っている気がしていた。それに備えるのなら、部屋の中に散乱した食べ残したつまみやら空き缶やらを片付けるべきだったはずだけど、何故かそれはしなかった。そして僕はまた目を閉じた。
次に目を覚ましたのは午後18時前だった。僕は焦った。多分もうまもなくだと思った。僕は慌てて飛び起き、ゴミ箱を抱えて部屋のゴミを片っ端から片付け始めた。本当ならもっと分別しておくべきだが、そんな事を考えている余裕はなかったし、そんな事をしている暇もなかった。ひとまず床の上の空き缶やらをどうにかできたか、という時。
ピーンポーン…
部屋のインターホンが鳴った。僕は部屋の真ん中の散らかったローテーブルのことは忘れてインターホンの対応をすることにした。玄関へと向かい、扉の覗き穴を覗いてみたが汚れて曇ったレンズのせいで何も見えなかった。
ピーンポーン…
もう一度インターホンが鳴った。僕は仕方なく玄関の扉を開けた。するとそこには灰色の毛を生やし、2本のツノを持つ獣がいた。カモシカのように見えた。僕は開いた扉の方へと身体を寄せ、獣を部屋の中へと招いた。この悪目立ちする獣がこの住宅街の中をどのように移動し、そしてどうやって僕の部屋のインターホンを鳴らしたのだろう?
獣は僕より先に部屋をどんどん進み、散らかったローテーブルを見て、しばしじっとしていた。その後、すこし周りを見回すとテーブルの方へと寄り、脚を見事に折り曲げてテーブルのそばの座布団に座り込んだ。このような事態になることは数時間前から知っていたはずだが、僕は全く呆気に取られているだけだった。獣はボーっとする僕の方を向き目を合わせた。あぁ…と思わず口から声が溢れた。僕はなんとなくこの獣をもてなさなくてはいけない気がした。しかし何をすればいいのか分からなかった。
「…お茶でも淹れましょうか?」
とりあえず客人には茶を出すべきだと思った。獣は僕の言葉をしっかりと咀嚼して飲み込むようにした後、大きく頭を上下させた。頷いたのだろうか。僕は台所で湯を沸かし、安い茶葉で薄汚れた急須に茶を淹れ、茶渋だらけの湯呑みに茶を注いだ。獣の前にその湯呑みを置く。
「熱いですよ。」
そう言うと、やはり獣はこちらに目を合わせてじっくりと言葉を飲み込む。それから、獣は湯呑みの縁の部分を咥え、頭をそらして一気に茶を煽った。そして元のように湯呑みを机の上に戻した。
「火傷してませんか?」
獣は首を横に大きく振った。
「おかわり淹れましょうか?」
獣は再び首を横に振った。
すると、また僕と目を合わせ、じっと見つめてくる。
「…何か召し上がりますか?」
思わず言ってしまったが、今この部屋にある食料は昨日あまったつまみだけだった。しかし獣は首を縦に振った。僕は少し考えた。今残っている食料の中からこの獣をもてなせるものを選べるのだろうか?
最終的に、僕は冷蔵庫の奥の方にあった瓶のメンマを出すことにした。流石に瓶のまま出すのは良くないだろうと思い、申し訳程度に皿に盛り付けて獣に出した。獣は黒い鼻を近づけて熱心に匂いを嗅いだのちにメンマを口に入れた。ひとつ食べて気に入ったのか、獣は皿に口をつけてメンマを貪った。人間用の食事をこんな獣が口にして良いものなのかは知らないけど、まあ食べてるんだから大丈夫なんだろうと思った。獣はメンマを一通り食べると、頭で僕に座るよう促した。(これがどんな頭の動きだったのか全く覚えていない。)僕はその指示通りに獣と机を挟んで相対するように座った。獣は口の中でメンマを咀嚼しながらこちらをじっと見つめた。
「美味しかったですか。」
見つめ合う沈黙に耐えられず、僕はそう尋ねた。獣は首を縦に振った。しかし視線の先がブレることはない。いつの間にか皿の上からも獣の口からもメンマは無くなっていた。
「あなたは何者なんですか?」
僕は尋ねた。獣は、それまでより長くその言葉を吟味しているようだったが、最終的にはフンと鼻を鳴らすだけだった。首を振ることはしないし、言葉を喋り出すこともなかった。
「どこから、どうやってここまで来たんですか?」
僕はまた尋ねた。今度はほとんど間をおかずに鼻を鳴らした。
「なぜ僕の部屋に来たんですか?」
獣の反応は同じだった。僕はいっそのことアキネイターゲームのようにこの会話を楽しもうと思った。
「あなたはこの街に住んでるんですか?」
獣は首を横に振った。
「あなたは言葉が分かるんですか?」
獣は首を縦に振った。
「あなたは話せないんですか?」
獣は首を縦に振った。
「あなたは…」
僕がそう言いかけたところで、獣が唐突に立ち上がった。質問しすぎただろうか。獣はそのまま玄関へと歩いて行った。僕はその後を追いかけたが、一瞬死角に入ったのを最後にその獣の姿は見えなくなった。獣がさっきまで座っていた座布団は臭くなっていた。時計の方に目をやると、9時ちょうどを指していた。
その翌日は仕事があった。まだ一昨日の宴会の跡が残っていたが朝にはそれを片付ける余裕なんかない。シャワーを浴びて脳を覚まし、適当なものを胃に流し込む。昨日のことをなんとなく思い出してみるが、現実味がなくてよくわからない。とにかくその時は仕事のことに集中していた。そして出勤して、退勤して、また出勤して…と繰り返していたら再び休みの日がやってきた。ゆっくり寝て、ゆっくり起きてみたら先週のことがまた気になってきた。先週のアレはなんだったのか?あの獣は何者だったのか?あの獣の顔とか仕草とか臭いとか、そういうものが一気に感じられるようだった。あれは本当だったのだろうか。と思っていたところ、先週のようになんの前触れもなく部屋のインターホンが鳴った。また獣が来たのかと思い、扉の覗き穴を覗いてみる。やはり何も映らない。扉を開けてみたが、獣はいなかった。その代わりに小さめの茶色い段ボールの箱が置かれていた。段ボールは茶色のガムテープで梱包されていて送り状らしきものも貼られていた。ひとまずその荷物を部屋の中に持ち込んだ。
送り状『らしき』と書いたのはそのフォーマットが異常なほどシンプルでほとんどなんの情報も無かったからだ。僕の名前と住所だけが記載されていて送り主とか配送日時とか運送業者名とかそんなものが全く書かれていなかったのだ。様々な疑問やそれに伴う恐怖が脳内を錯綜した。そしてあの獣がここにいたら僕の様子を見てきっと鼻を鳴らすのだろうとも思った。
しばらく逡巡した末、箱を開けてみることにした。決心した時には、僕の中のあの獣が大きく頷いた気がした。箱の中にはたくさんの丸めた新聞紙があり、何だか妙な匂いがたちこめた。新聞紙をどけていくとそこには立派なタケノコが入っていた。念の為両親や近しい人にそれとなく何か送ってきたかと尋ねてみたが皆違うという。やはりあの獣からだろうか。いかにも山の幸らしい品だし、獣に振る舞ったメンマのお礼と考えれば色々と合点がいった。僕は自然のままのタケノコというのを調理したことがなかったので困惑したが、どうもアク抜きという工程を挟むらしい。ネットで調べてその通りにタケノコを茹でることにした。30分以上かかるようだったので、僕はその間に段ボールと新聞を捨てようとした。それで初めてその新聞の下にある別の品に気がついた。それは何か細かく刻まれた葉っぱで、いくつかのプラスチックの袋に詰められていた。タケノコがメンマのお返しであるなら、茶のお返しとしての茶葉が何かだろうと思った。袋を開くと先ほどからしている妙な匂いが強くなった。言葉にするなら『青臭い』という風になるのだが、それ以上に何か独特なものがあった。僕は嫌な予感がしてその袋を閉じ、新聞紙の奥底に埋めた。色々と考えることはあったが、ひとまず下処理が終わったタケノコをどうしようかという問題に目を向けてその葉っぱのことを忘れることにした。
タケノコは、近くのスーパーで買った牛肉と合わせて炊き込みご飯として消費することにした。結果として、これは大成功だった。米も肉も調味料も普段と全く同じようにしたはずだが、これが驚くべき美味さになっていた。炊けたものを味見として一口食べた時点で明らかに異常だった。僕は急いで大きな丼を用意して釜の半分をよそった。しかし10分後には丼は空になっていた。次は釜に残ったものを全てよそったが、むしろ今度はちょうどよく冷めていて、自分でも驚くべき速度でその食事を食べ込んだ。大きなタケノコを1本丸ごとだったから2、3日に分けて食べるつもりだったのだが、一度で食べ切ってしまった。その後は満腹で水一滴も入らないというような状態だったが、それでもできることならあの炊き込みご飯を口に入れたいと思っていた。
その後は、気絶するように眠った。数時間の眠りから覚めると、昼寝特有のあの気だるさがなく、むしろ頭が冴えて身体も動きたくてしょうがないような感じだった。今ならどんな難しい問題も解決できるし、どんな重いものでも持ち上げられる気がした。そして、即座に今解決すべき問題について思い出した。押入れの奥の方にさっき送られてきた段ボールを仕舞ったはずで、それを開けてもう一度確認すれば全てを解決できる作戦を思いつくことができると考えていた。しかし、ついぞその箱は見つけられなかった。
これが数週間前にあった出来事だ。今になって獣が部屋にやってきた痕跡を探そうとしても見つからないし、獣からの贈り物の形跡も無くなっている。強いて残っている証拠は僕の記憶と感覚だけだ。あれからスーパーなんかでタケノコを見るとどうしてもあの炊き込みご飯を期待して購入してしまい、完成品を口に入れては肩を落とすことになる。また、今もあの草の匂いは鼻の奥にこびりついているような気がする。そして、そういうことを考えていると、頭の中にあの獣が現れてその黒い鼻をフンと鳴らすのだった。
カモシカ @okanekudasai
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