科挙と点心
水野文華
第1話
物心ついてから三十年あまり、
そうして積み重ねた勉学の全ては、科挙のためだ。
祐賢の国・
それは、科挙がとんでもない難関だということだった。
幼い頃から学問に励んで五十で及第すれば早い方。髪の毛も髭も白くなっても、まだ及第できない翁などざらにいる。自分は死ぬまで及第できないままなのではないか――そんな不安を祐賢が引きずるようになって、もう長い。
勉学に打ち込めば、不安を忘れられる。けれど最近は学問ばかりの日々に疲れ果ててしまって、それが難しくなっていた。
集中できずに、祐賢はふっと書物から目を上げて、机の向こうの壁を見つめた。壁にはいくつも染みがついていて、祐賢には時たま模様のようにみえることがある。今日のそれは、祐賢の目には、人のように見えた。それも、ひどく苦しんでいる。
――駄目だ。
直感だった。駄目だ。今考えてはいけない。これは、まずい。染みをもう見まいとして目をつむった途端、不安の沼の中に引きずり込まれる。
――いつになったら、科挙に及第する?いつになったらこの苦しい日々は終わる?いついついついついつ……もしかしたら私は本当に、このまま……。
思考の奔流に耐えられず、衝動的に祐賢は立ち上がった。不安から逃げることしか考えられず、家を飛び出し、走りだす。そうすれば、逃げ切れるような気がした。縦横に交わる道をぐちゃぐちゃに曲がり、無我夢中で走った。机に向かってばかりだったから、少し走っただけで、息が苦しくなってくる。それでも、祐賢は走った。
いよいよ胸がつぶれそうになって、崩れるように立ち止まった。民家が立ち並ぶ道の端に寄って、肩で荒い息をする。喉は血の味がして、頭は
疲れ切った祐賢を遠巻きにしながら、通りを人々が通り過ぎていく。最近、ろくに髭を剃っていないうえ、走ったせいで髪が乱れ、だいぶ怪しげに見えているだろう。遠巻きにされるのも当然だった。
ぼんやりと見ていると、たいして数はいないその人々の多くが、左に行き過ぎていった。
家に帰る気は全くしない。第一、いつの間にか見知らぬところに来てしまっていて、どちらの方向に行けばどこにたどり着くのか皆目見当もつかなかった。しばし落ち着いて呼吸を整えたのち、祐賢はとりあえず人々の行く方へ着いていってみることにした。
しばらく行くと、路肩に布を広げ、髪飾りや磁器を並べる商人を見かけるようになった。進むにつれ、人がどんどんと増え、静かだった通りがだんだんと賑やかになっていく。
大きな門と塀が遠くに見えるようになってやっと、祐賢は気づいた。ここは
伝統的な
つまるところ東華門街とは、雑多な人と文化が交わる場所なのだ。
祐賢も何度かここを訪れたことがある。それは科挙の勉強のために書物を買うという目的だったので、周囲の店に注意をひかれることなど無かった。だが、改めて見ると東華門街はいかにも面白いところだった。
行き来する人々が笑いさざめき露店の店主が声を張り上げる――その賑やかで明るい光景は、ずっと暗い家の中にいた祐賢には眩しすぎるほど鮮やかだった。それでも祐賢は、この場所が好きだと初めて思えた。
「ちょっとあなた! どういうつもり! 」
立ち並ぶ店に心を奪われていた祐賢の耳に、いきなり女の怒った声が飛び込んできた。
「あなたよ、あなた! さっきからずっと着いてきて、私に何をするつもりって言ってるの! 」
目の前の若い娘が振り向いて、
「……何のことだ? 私は何もしていないが」
「とぼけないで! ずっと跡をつけてきたくせに。何度振り返っても、どこを見てるかわかんないような目をして後ろに着いてきて、怖いったらなかったわよ! 」
――「どこを見ているかわからないような目で、ずっと後ろにいた」?
頭の中でその言葉を噛み砕いた途端、祐賢は娘が何を言っているか理解した。先ほど祐賢は、人々についてこの東華門街までやってきた。ろくに見ていなかったが、祐賢はこの娘についてきていたのではないか。
見知らぬ男にずっと着いてこられて、娘は相当怖かっただろう。娘の怒りも当然だった。
「これは失礼した! だが、誓って
「悪人は皆そうやって言うのよ! 」
「本当に違うんだ。気持ちはわかるが一度冷静になって、私の言うことに耳を傾けてほしい」
「ずっとついてきたくせに。私がおかしいとでも言いたいの!? 」
「お姉さん、落ち着きなよ。多分そのおじさんは本当に、変なことなんて考えてなかったと思うよ」
堂々巡りの二人に思わぬ救いの手を差し伸べたのは、道端にいた少年だった。十かそこらだろう。ひどく貧しいのか、まとった衣は汚れ、ところどころ破れている。
「何であんたにそんなことがわかるの! 」
娘は少年にかみついた。けれど、少年はどこ吹く風だ。
「落ち着きなって。お姉さんは、そのおじさんがどこを見ているかわからない目をして着いてきたって言ってたよね? 」
「そうよ」
怪訝な顔で、娘は答える。
「お姉さんに何かしようと企んでたとしたら、そんな目をするかな? もっとぎらついた気持ちの悪い目で見てくる筈だよ。それに、おじさんはそれは違うと言った後、すぐに謝ったよね。もし本当に悪いことを考えていたら、とぼけたり、怒り出したりするはずだよ。素直に自分の非を認めるなんてことは、絶対にしない」
祐賢も思わずごくりと息をのむほど、年に似合わぬ理路整然とした説明だ。
「俺を信じなよ、お姉さん。俺、悪人には詳しいんだ」
その一言が、駄目押しだった。その台詞は、子どもが格好をつけて言っているというようなものでは絶対にない、重みのあるものだったから。
「本当に助かった。ありがとう」
娘とお互いに謝罪をした後、娘が去ってから、祐賢はかばってくれた少年に礼を言った。この少年がいなかったなら、祐賢は役人に引き渡されていたかもしれない。祐賢の礼に対し、少年は笑顔で行った。
「
「は?」
「俺、とっても腹が減ってるんだ」
さきほどの印象とは全く違った、拍子抜けするほど明るい笑顔である。そして、こういうとき何故か懐に財布が入っているのが、高祐賢という男だった。
「いやーっ、ありがとうおじさん! 二つも買ってもらっちゃって悪いねっ!! 」
元気よく礼を言うなり、少年は両手に一つずつ持った大きな包子の片方に勢いよくかぶりついた。
「んー、絶品絶品!あっ、おじさんも食べなよ、とっても美味いから」
祐賢の手にも包子が一つ握られているのは、少年が勝手に「包子三つ」と注文したからだ。いろいろと釈然としないものがあるが、うまそうな匂いである。思い切って一口食べてみると、目を見開くほどうまかった。
ほかほかと温かくて甘みのある、柔らかい生地。その中にあるのは、味の沁みたひき肉と細かく刻まれた野菜。一口噛むと溢れる肉汁は予想だにしない熱さだったが、それも含めてまさに絶品だった。
「ね、美味いだろ。俺がこれと出会ったのは忘れもしない五年前の冬の日で……」
少年の話はとめどなく続く。おしゃべりな
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科挙と点心 水野文華 @fly_high
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