第3話【堕天の夢】

 アンジェとルシェは告げ口する間者ユダがいるかもしれない自室には戻らず、海上に停泊したシャハル弐号機にいる。主操縦席にあたる前席にルシェ、後席の副操縦席にアンジェが陣取り、穏やかな波の揺れに身を任せていた。


 アンジェは一人になりたい時、よく此処に来る。そして、それを知ったルシェもいつしか此処を訪れるようになっていた。飛行艇の座席は狭く、波が荒いと揺れがダイレクトに伝わる。体が落ち着かず、酷い時には酔うこともあるので、海上の飛行艇で一晩過ごせる奇特な輩は二人の他にはいないようだ。


 しかし、今日の海は凪いでいる。濃紺の夜空には無数の星が瞬き、心穏やかであれば、美しい夜に浸っていられたのかもしれない。しかし、残念なことに二人の胸中は穏やかではなかった。


「俺はあの美しい森と湖を守りたい」


 飛行中の如く、前に座す背中から聞こえるルシェの声に相槌を打つ。


「そうだな」


 周囲を囲む深い森の緑。鏡のような湖面に夕日が差すと、湖は茜色に輝き、辺りは黄金色に染まる。それは、何とも表せない幻想的な光景だった。この世のものとは思えない程に神々しく美しかった。しばしの沈黙の後、「君、空しか見ないんじゃなかったっけ?」と、ルシェにツッコむ。すると、「見たいものは見える」と、彼らしい言葉が返ってきた後、思いがけず唐突な質問に変わった。


「なぁ、神様っていないのか?」


「さぁ? いないのかもしれないな」


 いて欲しい、とは思う。しかし、虐げられ、搾取されるばかりの酷すぎる現実。生まれたことが苦しい。どう足掻いても報われない。「信じる者は救われる」という言葉を本当に信じていいものか…


「俺さ。初めて人を殺したいと思った。あいつら、みんな死ねばいいと思った」


 激しい憤りに満ちたルシェの声が続く。

 そういえば…ふと思い出す。ソドム共和国がまだ天の国シャマイムの一部であった頃から伝わっている【神の十戒】の中に「殺してはならない」という掟があったな。


「でも、ルシェは爆撃王だろ。今までに何人も撃ち落としてるじゃないか」


「それは…あっちが撃ってくるから」


 驚いたことに、ルシェは殺そうと思って撃ったことは一度もないらしい。空であっても戦場に逃げ場はなく、「撃たなければ撃たれるから撃ってるだけだ」と言った。


「死ななければいいなって思ってた。助かってくださいって祈ってた。いつも」


 …こんな子供に人殺しの大罪を背負わせているのか。


 ぽつりぽつりと繋ぐルシェの声にアンジェは耳を傾ける。彼の独白セリフは酷く切なく、胸が詰まりそうだった。


「本当は空を飛びたいだけだ。何でもいいから空にいたい。自由だから、空は」


 ルシェは普段、自分の思っていることを口にしない。初めて聞いた爆撃王と称される天才飛行兵の思いは、あまりにも無垢で子供じみていた。


「なぁ、アンジェ。神様がいないなら天国もないのか…?」


「さぁな。どのみち、僕は天国には行けない」


「なぜ?」


「僕はソドムの罪を犯してる。殺意のない正当防衛だった君とは違う」


 …だって、そうしなければ生きられなかったから。


 姦淫を犯した肉と穢れた魂を神は受け入れてくれないだろう。たとえ、望んでいなかった行為だったとしても。だが、進んで差し出したことを否定出来ない。生きるために。


 不意にルシェは振り向いた。軽蔑されても仕方ないと思っていたが、ルシェの表情は存外に明るかった。くっきりしたアーモンドアイが月光を映して金色に輝いている。


「アンジェがいない天国に用はない」


「ルシェ…?」


「俺と行かないか、アンジェ」


「どこへ?」


「汚い奴らも、こんなクソみたいな国も、全部焼き払って、シャハル弐号機明けの明星で飛んで行こう」


「で、行き先は? どこまで行くの? もう、何度も言ってるけどさ、僕たちは鳥じゃないから燃料が切れたら墜落するよ」


「どこまで行く? 最深層の氷地獄コーキュートス…?」


「あはは。それ、いいね」


 アンジェは笑いながらルシェに応じる。

 ああ、悪くない。ルシェと二人なら、何処だって住めば都さ。一緒に堕ちて。何処までも行く。永遠に。


 …でもね、ルシフェル。


 僕はそれを望まないんだ。

 君を天から堕とす殺人させるのは本意じゃない。



 ―――――神よ。


 もし、願いごとが叶うならば。


 白い翼をつけてください。

 悲しみのない自由な空へ。

 飛んで行ける翼を。



 ―――――彼に。

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Wings to Fly… 瑞崎はる @zuizui5963

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