真実の愛に目覚めた男に捨てられた少女が、助けてくれた年下の男の子に力いっぱい好きだと言ってみた結果

万丸うさこ

真実の愛に目覚めた男に捨てられた少女が、助けてくれた年下の男の子に力いっぱい好きだと言ってみた結果


 まるで洞窟の中にいるかのように、「すまない、メアリー……」と謝る声が響いている。


 すまないメアリー……すまない……メアリー……すまない……――。


 やめて、謝らないで。と、メアリーは強く思った。謝られたら許さなくてはならなくなる。

 メアリーは彼を許せないし、許したくないのだ。


 「すまない、メアリー……」


 わんわんと木霊のように響いていた声が、今度ははっきりと耳に届いた。

 メアリーはその謝罪に続く言葉をすでに知っている。今から六年前の十四歳の秋、うっすらと汗ばむ陽気だったあの日のことを、まだ鮮明に覚えているからだ。


 言葉の続きを聞きたくなくて、メアリーは耳を塞ぐ。

 だけどそんな行為は声を遮るのには全く無意味だった。それで気づく。六年前に聞いた声が今耳元で生々しく響くのは、自分が夢の中にいるからだと。


 「すまない、メアリー……」


 耳を塞いだ指の隙間から、低い声が縫うように届いた。

 声の調子は重々しく、痛みをこらえるように苦しげだった。けれど謝っているにもかかわらず、隠しきれない喜びと華やかな未来への希望が混じっていた。


 メアリーは夢の中で首を振る。

 言わないで。それ以上言わないで……聞きたくない。


 だけど夢というのは残酷で、夢の主であるメアリーの言うことをひとつも聞いてくれず、六年前の秋の再現を容赦なく進めていく。


 「すまない、メアリー……」と、ひときわ大きく謝る声が響いた。

 そしてまた、わんわんと洞窟の中を駆け巡るように声が頭の中を埋め尽くしていく。


 ――たんだ……

  ――覚めたんだ……

   ――すまな……メア……リー……

    ――目覚めた……すまない……んだ……

 真実の……

  ――愛……

   目覚めたんだ……すまない……

    ……んな、真実の……に……目覚め……

  

 ――真実の愛に……メアリー……

   ……真実の愛に……目覚めたんだ……愛に……すまない、メアリー……



 「父さんな、真実の愛に目覚めたんだ」



 よりによって、それ、娘に言う⁈

 ――と、当時言えなかった言葉を叫び、メアリーは飛び起きた。


 汗びっちょりだった。



 ・



 悪夢を見て飛び起きたメアリーは、結局そのあとベッドの中で明け方までまんじりともせず過ごした。

 腹の中は父親への思い出し怒りが溜まってしまっていて食欲もなく、朝食も食べずに目の下にくまを作って出勤の準備をする。


 毎年このくらいの時期……夏が終わって秋になった直後、まだ少し太陽の光が夏の名残で暑く感じるこのくらいの時期には、父親が「真実の愛に目覚めた」と言ってメアリーを捨てていった時の夢を見る。

 もうそろそろ慣れてもよさそうなのに、夢を見るたびにあの時の気持ちがよみがえってしまって全く慣れない。


 真実の愛に目覚めた父親が家を出て行ってからは大変だった。


 なにせ父親はメアリーが昼間に出かけている間に家の中の物をほとんど全て売り払っていて、水を飲むカップすらなかったのだ。

 夢の中で父親の声が洞窟の中にいるようにわんわん響くのは、あのがらんどうの家に独り取り残されたことが影響しているのではないかと思う。


 さらにはその何もない家を、父親は売りに出していた。

 父はメアリーにとっては祖父にあたる準男爵だった父親から、王都の下町に家とそれなりの金額を受け継いでいた小金持ちだった。


 父が出て行く十四歳まで、メアリーはお嬢様とはいかなくとも近所ではメアリーお嬢さんと呼ばれる存在で、男爵家からお嫁にきたという祖母の容姿を濃く受け継ぎ金髪碧眼という貴族的な容姿をしている。

 そのため近所の子供たちからは浮いていて、引っ込み思案のメアリーには友達もおらず、頼る大人が一人もいなかった。


 祖父に親戚はいなかったし、祖母はほとんど駆け落ち同然で祖父と一緒になった。

 母は隣国の生まれな上に親類縁者の話はしなかったから、たぶん天涯孤独の身の上だったのだと思う。

 そして父に兄弟姉妹はなく、だからメアリーに頼れる親戚は皆無だった。


 何もない、誰もいない家に取り残されただけでも恐怖でどうにかなりそうだったのに、次の日には剣を腰に下げた男たちが家を封鎖し、部屋の隅で震えていたメアリーは追い出されてしまった。

 あの時のことを思い出すと、今もまだ心の中が混乱する。


 そして許せないと思うのだ。

 母親はすでに他界しており父子家庭だったというのにメアリーを捨てて出て行った父親を。

 母の形見まで売り払ってしまったなんて。


 家を追い出されたあと、未成年で〝お嬢さん〟だったメアリーは何もできなかった。

 保護を求めて教会に行くことすら思いつかず、呆然と街をさ迷ったあげくに裏路地でごろつきに捕まってしまった。


 もしかしたらそのまま、ごろつきに人生を台無しにされていたかもしれない。

 だけどすんでのところで助けてくれた人がいたから、メアリーは今生きている。


 アパートの一室を出て、ドアに鍵をかけた。


 あれからメアリーは多くの人に助けられて、手に職をつけ、貴族御用達のドレスメーカーでお針子として働いている。

 今では三人も部下がいて、お給料もそのぶんだけいい。お店の寮を出て自分でアパートを借りることができるようになった。


 遠くで朝七時を告げる教会の鐘の音を聞きながら、少し霞んだような秋の空を見上げて目を細めた。

 ほとんど徹夜をした目に、日差しが刺さって痛い。


 職場に向かって歩いていたら、警邏隊の制服を着た顔なじみを見つけた。

 相手もこちらを見つけたらしい。こちらを向いて軽く手を上げている。


 「おはようジャック」


 メアリーは立ち止まって待っていてくれたジャックの元へ小走りに駆け寄って、背の高い彼の顔を見上げながら挨拶をした。


 「おはよう」


 穏やかに返してくれたジャックは、六年前にメアリーがごろつきに捕まった時に助けてくれた人だ。

 その時彼はメアリーよりもひとつ年下の十三歳で、メアリーよりも背が低かった。だけど誰より頼もしかった。


 メアリーがお針子として働くことができるようになったのも、店で働く彼の親戚に相談してくれたからだ。

 彼はメアリーを助けてくれてからずっと気にかけてくれている。


 聞けば警邏隊に入隊することを決めたのは、メアリーをごろつきから助けたことがきっかけだったという。

 ジャックがメアリーに親切なのは、そのせいかもしれない。


 メアリーも初めて自分一人で売り物の刺繍をさせてもらったハンカチは今でも図柄や糸の光沢まで覚えているし、買ってくれた人の顔も鮮明に思い出せるから。


 「途中まで一緒に行ってもいい?」


 歩き出したジャックに声をかけると、「もちろん」と返してくれた。


 彼が夜勤や事件で朝に一緒にならない日以外、メアリーはいつも彼の隣を一緒に歩くことをねだっている。

 そしてどうせなら、人生を一緒に歩いてほしいとも思っている。


 人は彼のことを平凡だと評する。

 平凡な茶色の髪、髪と同じような茶色の瞳。

 そばかすの散った顔は特別醜いわけではないが、目の覚めるような美形でもない。


 すれ違っても印象に残らない顔だと、よく彼の職場の仲間たちにからかわれているのを耳にする。


 昔はメアリーよりも低かった背は見上げるほどに高くなり、警邏隊の隊員らしく体の厚みもあるけれど、それ以外はどこにいても風景に馴染んで見分けられなくなるような人だとみんなが言う。


 だけどそんなことはないとメアリーは思う。

 メアリーはいつもどこでもジャックの姿を見つけることができる。


 平凡だと言われる髪も、目も、顔も、メアリーにはいつも光り輝いて見えるからだ。


 枯草のような秋の朝の匂いを嗅ぎながら、そんなことを思って歩く。


 「そうだ、メアリー。手を出してくれる?」


 すれ違う人たちに丁寧にあいさつをしていたジャックが、右の道へ行けばメアリーの職場、左の道を行けばジャックの職場へと別れる三叉路で足を止めた。

 道の端に寄り、まだ青々とした葉を揺らす大きな木の下で、ジャックの言葉にメアリーは素直に手を差し出した。


 布と針の摩擦によって指先がかさつき、皮膚が固くなったメアリーの手のひらの上にジャックが何かを置いた。

 手のひらに収まる大きさの物が何かを確かめる前に、メアリーの手を取ってそっとそれを置いたジャックの優しい手つきに気を取られ、最初は彼が何をくれたのかわからなかった。


 「お母さんの物だといいんだけど……」


 ジャックの茶色の眉尻が不安そうに下がって、それでようやくメアリーは手のひらに置かれたものを見た。


 「こ、これ……っ」


 それは古いカメオブローチだった。

 とろけるような質感の桃色の珊瑚に浮かび上がるのは、精緻に彫刻された巻き毛の天使だ。薄桃色のハートを抱きしめて小首を傾げ、左右に柔らかな羽を広げて幸せそうな笑みを浮かべている。


 「お、お母さんの……っ、形見の、天使……!」


 六年前までメアリーのジュエリーボックスにしまってあった。

 怖いことや悲しいことがあれば取り出して、母によく似た優しい笑みを浮かべる天使を眺めては心を慰めていた、メアリーの一番大事なもの。


 それなのに真実の愛を見つけた父親に売り飛ばされてしまって、行方がわからなくなってしまっていたものだ。

 メアリーが見間違えるはずがなかった。


 「どうして、これを……」


 「メアリーを助けてからしばらくして、お母さんの形見の物を何点か紙に描いて教えてくれただろう?」


 確かに、ジャックに助けてもらってから一時的に教会に保護されていた時に、様子を見に来てくれたジャックに母の形見のことを話したことがあった。


 母の結婚指輪や、メアリーが生まれた時に親子三人の誕生石をあしらったペンダント、母の祖母から譲り受けたという櫛、両親の肖像画が入ったロケットペンダント――全部を紙に描いて、こういうものを見なかったかと聞いた覚えがある。

 その中には、今メアリーの手の上にあるコーラルカメオのもあった。


 もちろんジャックが母の形見の行方を知るわけがないことは、理性ではわかっていた。だけど聞かずにはいられなかったのだ。


 父に置いていかれたあと、空っぽになった家の中をせめて母の形見くらいは残してくれていないかと思ってくまなく探したけれど見つからなかったし、お金を作ろうと思ったら、貴金属は真っ先に売られただろう。

 なによりジャックはその時、未成年だった。まだ子供だったのだ、メアリーの母の形見の行方など知っているわけがない。


 だというのに。


 「ずっと、……あれからずっと、探してくれていたの……?」


 両手ですくうようにカメオを持って、あふれそうになる涙をこらえて聞く。


 ジャックはうなずいて、けれど申し訳なさそうな表情で懐から数枚の紙を取り出した。

 シミや折り皺のついた紙の束の中から彼が一枚引き抜いた紙に書かれていたのは、あの時にメアリーが描いたカメオの絵だ。


 「これ以外は見つからなかったんだけど、また探すから。待ってて」


 「あ、ありがとう……っ、もう、絶対に見つからないって思ってあきらめてたの。だから……っ」


 嬉しい。


 母の形見が見つかったことへの安堵と、久しぶりに見るカメオへのなつかしさ、メアリーが九歳の頃に亡くなった母との思い出や思慕。そういう感情を上回ってメアリーの心の中を占めるのは、メアリーの大切なものをずっと探してくれていたジャックへの感謝の気持ちだった。


 幼い頃、母が亡くなってからずっと眺めていたカメオ。

 握りしめたら天使の巻き毛が欠けてしまいそうで、いつもこうやって両手ですくうように持って見ていた。九歳から十四歳まで、このコーラルカメオの天使がメアリーの心の支えだった。


 「じゃ、ジャック……っ」


 感極まって名前を呼べば、ジャックの茶色い瞳がきゅっと笑みの形に細くなった。彼らしい穏やかな表情だった。

 だけどいざ暴漢を前にすると、この垂れ目がちの優しい目がナイフのように鋭く相手を射抜くことを、メアリーは知っている。


 彼も自分のことを平凡だというけれど、警邏隊になりたての新人の頃から剣の腕前は抜きんでていた。

 そのもっと前から、勇気は誰よりもあった。見ず知らずの女の子を助けるために暴漢に立ち向かうほどに。


 だからメアリーは今、五体満足でここにいるのだ。


 十四歳で真実の愛に目覚めた父に捨てられてから二十歳の今まで、カメオの天使に代わってメアリーの心を支えてくれたのはいつもジャックだった。だから、


 「もう、もう! あなたって人は! どうしてそんなに優しいの! 本当にっ……大好きよ! 大好き!」


 うわあんと子供みたいに声を上げて泣いて、単純だけどメアリーの心の中にある一番強い気持ちを叫んでいた。


 「結婚してください……!」


 すくうように両手でカメオを持ったまま、びっくりしたように茶色の目を見開くジャックの制服の袖を引く。


 「え!」


 「だってジャック、優しいし、かっこいいし、素敵だから……! ちゃんとお願いしないと誰かのところへ行っちゃう……! ジャックもカメオみたいに急にどっか消えたらやだ……っ」


 二十歳の女が言うことではないと頭の隅で大慌てで諫めるけれど、今朝見た悪夢が涙腺と理性の息の根を止めてくる。


 それに――もういいじゃない、今日は。と、メアリーは思った。


 嫌な夢も見たし、母のカメオは戻ってきたし、それを取り戻してくれたジャックは優しいし、よく晴れたいい天気だし。

 今日はいい。もういいじゃない。


 振り返らずに出て行った父。母の思い出ごと家を売り飛ばした父。 

 もう二度と嗅ぎたくない、がらんどうの家の埃の臭い。


 今日はそういうのを忘れて、大好きな人に大好きって言っていい日にしてもいいじゃないのと、メアリーはすんと朝の空気を吸った。


 「待って待って! 全然だめじゃないよ! むしろ俺でいいのかなって……」


 メアリーは気づいてなかったかもしれないけど、近所の野郎どもの間で昔から不可侵協定ができるくらい〝メアリーお嬢さん〟は俺たちの高根の花で……と、うつむきながらジャックがもじょもじょ呟いた。


 「どうして……わたし、結婚するならジャックじゃないと嫌よ……。好きなのはずっと、ジャックがわたしを助けてくれた時からジャックだけ! 愛してるのはジャックだけよ! だから結婚……っ」


 メアリーの言葉を遮って大慌てで手を振ろうとしたジャックは、袖口をメアリーに掴まれていることを思い出したようで、手のひらだけを控えめに振った。


 「ちょっと待って! それは俺が言いたかった言葉! 俺と結婚してください!」


 「あっ、ありがとう! わたし、幸せに! する!」


 ずびーっと鼻をすすったメアリーをジャックがそっと抱き寄せて、メアリーの返事に笑顔をくれた。


 通りすがりの顔見知りが陽気な口笛を吹いて祝福してくれて、ジャックとメアリーとの間ではコーラルカメオの天使が柔らかく微笑んでいて。

 メアリーは父に捨てられてから初めて、この季節に幸せを感じたのだった。



 ・・

 


 幸せって、長続きしないものなのかしら……。

 と、メアリーは目の前にいる〝不幸の象徴〟のような男を見て深いため息を吐いた。


 朝の幸せな時を名残惜しみながらジャックと別れ勤務先へ着くと、明らかに泣いたとわかるメアリーの目を見て同僚たちが心配してくれた――と同時に、カメオをみせてジャックとの話をしたら、温かいような生温いような笑顔を贈られた。

 さらにはお昼にご飯をおごってくれたり、休憩中にお菓子を多めにくれたり、帰りにジャックと待ち合わせをしていると知ったらさりげなく仕事を分担してくれたりと、職場の仲間はみんな温かくメアリーとジャックを祝ってくれたのだった。


 彼女たちの気遣いや祝福をありがたく受け取りながら、残業もなく帰り支度を始めたメアリーは、自分の職場でジャックを待つのではなく少し早めにここを出てあの三叉路で待とうと思いついて従業員出入り口のドアを開けた。

 そして出入り口に立ちふさがる人にぶつかったのだ。


 ぶつけた鼻をさすりながら見上げると、真実の愛に目覚めてあのがらんどうの家にメアリーを置いていった父がいて、「やあ」と、片手を上げた。


 父はまるで今朝別れたばかりだと錯覚するほど、軽やかな笑みを浮かべていた。


 記憶にある父より老けてはいたけれど、記憶と同じ青い目をメアリーに向けてくる。

 口角を上げて目尻を下げて、温かみのある低い声で「久しぶりだね、メアリー」と父は言った。


 「探したんだよ……元気そうでよかった」


 裏路地の側溝にへばりつく黒い泥みたいな怒りが込み上げて、メアリーは左手で口を押えた。


 斜め掛けのカバンのストラップを右手で握りしめる。

 そうしなければ口は際限なく父への罵倒を吐き続けただろうし、右手は父の頬を打っていただろう。


 そんなメアリーの自制心の表れをどう思ったのか、父は肩の力をふっと抜いて穏やかに語りかけてきた。


 「今、父さんはとあるお方と大きな仕事を一緒にさせていただいていてな……。ああ、名前は言えない。だが、すごい人だ」


 真っすぐにメアリーを見て言う父の青い目は潤んでいた。けれどそれは〝大きな仕事〟へのやりがいや期待に対する興奮からというよりも、恐れや委縮のように見えた。

 〝とあるお方〟へか、その〝大きな仕事〟に対するものかはわからないが。


 最初からそんな気は全くなかったけれど、父のこの怯えた目を見て、メアリーはますます父との再会を喜ぶ気が起きなくなった。

 最初に出入り口をふさいでいた父に鼻をぶつけた時から湧いていたイライラが、ふさいだ手の隙間を縫って刺々しく口を出た。

 

 「帰って」


 「……」


 父とてさすがに自分と会った瞬間にメアリーが歓迎の涙を流してハグしてくれると思っていたわけではないだろうが、メアリーのあまりにそっけない対応に、彼は少し鼻白んだような顔をした。

 その瞬間だけは〝とあるお方との大きな仕事〟を忘れたようで、濃い黄みがかった茶色の眉毛が不機嫌そうに寄る。


 「あなたは……」と、メアリーは父と対面して、彼を〝お父さん〟とは呼べなくなっていることに気がついた。

 それを寂しいとは思わなかった。当然だと思った。


 だからメアリーはもう一度、父へ向かって「あなたは」と、強めの口調で言って見上げた。


 「何をしに来たの? 仕事の自慢? それとも娘の顔を久しぶりに見たかったとでもいうの?」


 「どうしたのメアリー?」


 大丈夫? と憤りに震えるメアリーの肩にそっと手を置いて声をかけてくれたのは仲の良い同僚だった。メアリーが店にきたのと同じ年にお針子になった彼女とは、プライベートで遊びに出かける友人でもある。


 彼女からしてみれば長年の想いが叶ってうっきうきで帰り支度をして、「お疲れ様でしたー」と明るい挨拶を残してとっくに帰ったはずのメアリーが、まだ従業員出入り口にいて、しかも知らない男と話していることに驚いたのだろう。不審者を見る目で父を睨んでいる。


 「誰だいあんた! うちの店の子に何か⁈」


 と、同僚の後ろから中年に差し掛かった先輩が顔をのぞかせ、後輩二人が――そのうちのメアリーが酷い顔色で男と対峙しているのを見て、怖い顔で「警邏を呼ぶよ!」と宣言した。

 そもそも女しかいない職場だから、見知らぬ男が出入り口をふさいでいれば警戒されるのは当たり前だった。


 「ねえちょっと、誰か! メアリーが知らんおっさんに絡まれてるってジャック呼んできて!」


 友人が振り返って怒鳴ると、工房から「あたしが行く!」という返事とともに表のドアが開いた音がした。


 「あ、いや……私はこの子の父親で……」


 「父親ァ⁈ あの⁈ 真実の愛に目覚めたつって家売って娘を捨てたクソオヤジ⁈」


 メアリーの生い立ちは、同僚たち全員が知っている。

 特にこの友人は店の寮で同室だったから、最初の頃は毎晩、時を経てからはこの季節になると悪夢を見るということも、それが父親のせいだということもよく知っていた。


 自分のことのように嫌悪感を隠しもせずに吐き捨てた友人と、工房からこちらを見て何かあれば飛び出そうと身構えてくれていた先輩をはじめ同僚たちの冷たい視線にさらされて、父が視線を泳がせて顎を引いた。


 「今さらメアリーになんの用だい?」


 ずいっと一歩前に出て言った先輩が、おもむろに出入り口に立てかけてあった竹箒を取り上げた。振り抜く気満々で箒を逆さにして穂と柄の境目を握りしめたのを見て、メアリーははっと我に返った。


 「せ、先輩、それ貸してください!」


 メアリーは友人経由で箒を受け取り、さっきの先輩と同じように穂と柄の境目を握りしめて箒を構えた。


 ここで働くお針子たちは大なり小なり事情を抱えた女性ばかりで、だからこそ、幸せを得難いものだと知っている。

 今朝、彼女たちがメアリーに訪れた幸福を喜んでくれたのも、それが骨身に染みているからこそ、〝事情〟から逃げずに幸せを掴んだメアリーを祝福してくれたのだ。


 「帰って! どっかへ行って!」


 だからこそ、複雑な事情を抱えながらも人の幸せを祝ってくれる彼女たちを、メアリーの〝事情〟で嫌な目にあわせたくない。彼女たちの中には、男性そのものに対して脅威を覚える子だっているのだ。


 「そんな冷たいことを言うなよメアリー。親子じゃないか」


 青い目をわざとらしく見張った父は、六年前のあの時の同じように、「父さんな、」と、まるで手の中の黄金を見せびらかすかのような笑顔を浮かべて続けた。


「お前に縁談を持ってきたんだ。せっかくの綺麗な金髪もくすんでしまって、手も荒れて……これまで苦労をしたんだろう? だからこれからはその結婚相手に、特別に幸せなお嫁さんにしてもらうといい」


 友人の「はあ?」という声を聞きながら、メアリーはとっとっと……と歩を進め、娘が感激したと勘違いして両腕を広げた父のみぞおちに向かって、握りしめた竹箒を力いっぱい突き出した。



 ・ё・



 メアリーの手に箒の柄から確かな手応えが伝わったと同時に、父親の体が崩れ落ちる。

 みぞおちを突かれた父は地面に膝をついて腹に手を当て、胃を引き絞るような声を上げてえづいた。一気に青ざめた顔をメアリーに向け、鼻水を垂らして咳き込んでいる。


 隣にきた友人が唇を突き出して吹いたヒュゥッという口笛の音に重なるように、父親がヒューヒューと苦し気な呼吸をしながら口を開いた。


 「な、……なにを……」


 「何を? 何をするんだって?」


 メアリーはもう一度箒の柄を槍のように構え直して父を見下ろした。


 「それはあなたがいなくなってからずーっとわたしの言いたかったことだわ! 何をするんだって! 何してるんだって!」


 怒りとともに血が沸騰するくらいぐわっと体が熱くなったけれど、涙は出なかった。

 その代わり口の中が苦い。何か苦いものが口の中に滲み出て、吐き出さなければ倒れてしまいそうだった。


 「いいわよべつに真実の愛に目覚めたって! お母さんも早くに亡くなって、独り身なんだから、恋愛くらい! わたしも十四歳だったんだもの、父親がお母さん以外の誰かに恋することには納得できたし、止めたりなんかしなかったわ」


 じゃあ母との関係は〝真実〟ではなかったのかとか、〝真実の愛〟ではない関係で生まれた自分はなんなんだ、とか。

 そのあたりも言いたいことではあったけれど、それでもきちんとメアリーにその〝真実の愛〟の相手を紹介してくれれば、その相手を新しいお母さんだと思って接するのは無理だとしても、〝父親の恋人〟としては接することができたかもしれない。


 「だけど十四歳だったのよ⁈ これまで苦労したんだろうって? 誰のせいなの⁈ 父親も、お母さんの形見も、衣食住も全部なくして、路地に放り出されて平気な年齢じゃないわ!」


 未成年の娘に対する必要最低限の生活さえ保障してくれない父親が、今さらのこのこ現れて「縁談を持ってきた」だなんて。そんな男の用意した結婚相手などろくでもないに違いない。

 もしも奇跡的に聖人のように心根清らかで温厚篤実な人柄だったとしても、〝父親〟という薄いベールで包まれ差し出された時点で愛せない。友人……いや、知人としても顔を合わせるのすら感情的に難しい。


 「娘に対してそんなことが平気でできる男は父親じゃないし、それを咎めもしないで一緒になった〝真実の愛〟の相手だってまともじゃない」


 「ああ、真実の愛な……それは、父さんの間違いだったんだ……彼女のためにいろいろ頑張ったんだけど、父さん騙されちゃったんだよ。お金が無くなったらいなくなっちゃって……真実の愛じゃなかったみたいだ」


 夕日もほとんど沈んで濃い紫色になった空に星が見えた。

 まだ夜ほどは暗くない天空に星は弱々しく瞬いていて、そのか細い輝きが、今にも死にそうな顔をして地面に手をつきメアリーを見上げる父の哀れさに重なる。


 彼女のために頑張った。


 ああ、そのの中にメアリーを捨てたことも入っていて、娘を捨て、亡き妻を捨て、父親という立場を捨て、家族としての思い出の全てを捨てたことを「頑張った」と言い切るその異常さに、この人は気づいてもいないのだ。


 だからこれ以上、関わりたくなかった。

 警戒して隣にいてくれる友人や、ハラハラしながら後ろで見守っている同僚たちや……それから、遠くの方からものすごい勢いで走ってきてくれるジャックと、これ以上この男と関わらせたくなかった。


 「メアリー!」


 ブーツを鳴らして滑り込んできたジャックがメアリーの目の前に立ちはだかった。


 安全なところまで下がれと言う彼の手は、メアリーだけでなくメアリーを心配して横にいてくれていた友人も一緒に押していた。

 彼の第一声はメアリーの名前だったのに、職務に忠実なところと、メアリーが大事にしているものもちゃんと大切に扱ってくれる彼の背中にほっとする。


 「ま、待ってくれ! 私は怪しい者じゃない、メアリーは私の娘なんだ!」


 すぐにでも抜刀しそうなくらい緊迫した空気で対峙するジャック警邏隊隊員に、地面に跪いたままの父が片手を上げて拝むように言った。


 「父親?」


 呟いたジャックの背中がピクリと震える。

 ジャックのその震えはメアリーの父親が何をしたのかを知っているせいだとメアリーは思ったけれど、父はそれを〝親子間の些細な行き違いなのに周りが大げさに騒いでいる〟ことが伝わった証だと思ったようだ。


 ほっとした顔をして立ち上がり、まだ箒の柄を槍のように構えて立つメアリーに向かって父が口を開いた。


 「いやはや。年頃の女の子は気難しいね。親が持ってきた縁談と聞いただけで拒絶反応を示すとは……。まあ男親ってのは年頃の娘には嫌われるものではあるけれど」


 男親の哀愁を漂わせて肩を落とし、「というわけで警邏さん、この子は私の娘で、縁談を嫌がって駄々をこねているだけですから……」と苦笑いをしてみせた父がメアリーに手を差し出しつつ続けた。


 「女ばっかりのこんなところで働いているから、集団心理かなんかで気が強くなってますが、この子は本当は親の言うことをよく聞く良い子なんですよ。帰ってよく言って聞かせれば一週間後にはかわいい花嫁さんになって私は男泣きって寸法で……警邏さんのお手を煩わせようなものでは……」


 みぞおちをさすりつつ言う父の、まるで今でも一緒に住んでいる親子のような言い様にメアリーが呆気に取られていると、ジャックが背中をぴんと張った。


 「縁談なんて馬鹿なこと言ってもらっちゃ困る。メアリーは俺の大事な婚約者だ」


 隣で友人が音のならない口笛を吹いた。

 普段の穏やかなジャックからは想像もつかないような重低音で言うと、目を見開く父へわずかに首を傾げてみせる。


 「……あんたが本当に彼女の父親なら、保護責任者遺棄罪と窃盗、盗品等関与罪で事情を聴かなきゃならない。その縁談相手とやらにも」


 「いや、いやいや待ってくれ! い、遺棄罪? 私はその子の父親で、だから娘の幸せを願って縁談を持ってきたのに、とんでもないよ! 縁談相手は真っ当な方だ、迷惑かけないでくれ! それに盗みだなんて、何かの間違いだよ!」


 大慌てで両手と頭を振って否定する父を横目に、ジャックが取り出した警笛を思いっきり吹いた。

 すっかり暗くなった空に鋭い笛の音が響き渡り、道行く人たちが何事かと首を伸ばしてこちらの様子をうかがってくる。


 「家ごと家財道具一切売り払って、十四歳の娘を捨てて女に走っといてなに言ってんだ。あんたが盗んだメアリーのお母さんの形見のカメオがタチの悪い故買屋で見つかった時点で、あんたは事情聴取の対象だ」


 「そんな人聞きの悪い……それに親子の間に盗みも何も……」


 しゅんと肩を落とす父は、「お前からもなんとか言ってくれ」と、よりにもよってメアリーにとりなしを頼んできた。

 メアリーが信じられない思いで父を見つめると、その青い目がすがるようにこちらを見返してくる。


 「カメオと一緒に売ったっていう宝飾品も盗品だったと調べがついてる」


 遠くから聞こえてきた笛の音を受け取って、ジャックがもう一度警笛を鳴らす。

 お互いの位置を知らせ合いながら狩りをする猛獣のようなやり取りに、獲物となった父が震えて辺りを見回した。


 「メアリー……父さんだって彼女に騙された被害者なんだ。だから、一緒に父さんときピーッめいしてくれるよね? だって、本当にピーッピッ! んだよピーッお前の縁ピッピッピッピーッ! 族のピッね、本当ならピ――ッのまたゆピッピ! ど、お前がおばあさんの血ピッ髪へピッピピんだっ……ピ――ッ!」


 「? じゃ、ジャック?」


 父が何かメアリーに語りかけるたびにジャックが警笛を鳴らすので、何を言っているのかさっぱりわからない。


 父の悲壮な顔色と漏れ聞こえてくる絶望感あふれる声音の合間に「ピッピピッピ」と元気よく吹き鳴らされる警笛のせいで、隣で聞いていた友人はもちろん、周りで様子を見ていたやじ馬たちからクスクスと笑い声が聞こえてくる。


 「メピーッおピーッしんピッピッピッピッピ! だといピピピピ! のおんピ! ぱかっピ――!!」


 もうほとんどピー。


 絶叫に近い様子で父が吠えているけれど、それをしのぐ肺活量でジャックが笛を吹いている。

 どんなジャックも愛しているけれど、突然のピーの嵐にさすがにびっくりしてジャックを見れば、彼は疲れ果てた父が両膝に手を当ててぐったりしたのを見届けてからちょっとばつが悪そうな顔で振り返った。


 「いやあの、なんかメアリーには絶対聞かせたくないこと言ってるから」


 疑問を含んだメアリーの視線に、笛をくわえたままジャックがぼそっと答えた。

 ぷひゅぅとヒヨコの寝息のような音が笛から漏れる。


 「そういえば読唇術が使えるんだったわね……」


 警邏隊でもわりと特殊な技術を身に着けていた彼は、父がメアリーにとって良くないことを言っているのに気付いてピーで届かないようにしてくれたのだ。


 父の真実の愛はどれも紛い物だった。

 妻への愛も、真実の愛も、親としての愛も。

 嘘まみれの愛ばかり。


 それに比べてこうやってメアリーを慮って、思いやりのピーを吹き鳴らしてくれるジャックがやっぱり好きだ。


 「好きよ」


 ジャックの同僚が吹く笛のピーがだんだん近づいてくる。

 仲間の笛への返答としてのピーに紛れるほどの小さな声で言ったのに、笛をくわえたジャックの頬は赤くなっていた。


 ああやっぱり好きだなあとメアリーは思った。



 (・ё・)



 その後、駆けつけた警邏隊の同僚はジャックに警笛の乱用を注意しつつ、父を窃盗罪などの容疑者として警邏隊の本部へと連行した。


 そして父は窃盗や詐欺などの罪で逮捕されたのだった。

 彼が言っていた〝とあるお方〟とやらも逮捕され、余罪もたくさんあるらしい。


 父は身元引受人をメアリーに頼んできたが、メアリーはそれを当然ながら拒否した。


 なぜわたしが? という思いももちろんあったが、それよりもメアリーは今とても忙しかったからだ。

 メアリーから家や物や思い出や愛情の全てを奪っていった父のことになど、かまっている暇がなどないほどに。


 なにせ結婚式の準備と、それから何よりもジャックに「大好き」を伝えるのでとても忙しかったので。



end.

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