第6話

 図書館の閉館時間を告げる、静かに流れるクラシック音楽に耳を傾けながら、健一は荷物をまとめ、入り口へ向かった。冷たい夜風が吹く中、図書館のドアを開けて外に出た瞬間、まるで時空が歪んだような奇妙な感覚に襲われた。


 目の前に広がっているのは、見慣れた街並みではなかった。健一が立っているのは江戸時代のような町の入り口で、行き交う人々は時代錯誤な着物姿だった。そして、遠くにいる壮年の男が目を見張るような身なりで、こちらに向かって歩いてきた。光を反射する鎧に身を包み、肩には"陸軍大将"と書かれた札を下げている。どう見ても時代も状況も合わないその人物は、健一に不敵な笑みを浮かべた。


「お前があの奇跡の作家か?私は天草四郎時貞に代わり、この世界の真実をお前に見せる者だ」と名乗りながら、彼は手のひらに小さなサイコロを転がしてみせた。そのダイスは静かに回転しながら、健一の前で不思議な光を放っていた。


「静岡まで寿司を届ける途中だったのだが、お前には重要な役目がある。私と共に迂回し、未知の世界を共に見届けるのだ」と、その"大将"は無理やり健一の腕を引いた。健一は訳がわからないままに連れられていき、目を開けると今度は静岡の広々とした山道に出ていた。夜の静寂に包まれる山道を歩きながら、大将は語った。


「この地にはかつて、天草四郎が隠した秘密がある。そして、その秘密を解く鍵はここにあるサイコロだ。寿司を静岡まで届けるのもこの試練の一環。さあ、ダイスを振って運命を見届けよ」


 健一は半信半疑ながらも、ダイスを手に取り、思い切って振ってみた。ダイスが草むらの上で転がり、止まった先の目を見た途端、突如として巨大なカマキリのような生物が音を立てて姿を現した。


「寿司を見せよ!」そのカマキリは人の言葉を話し、鋭い目で健一を見つめている。動揺しながらも健一は持っていたカバンから図書館でもらった寿司を差し出した。カマキリは寿司をじっと見つめたあと、満足そうにうなずいた。


「お前の勇気は確かめられた。天草四郎の遺志を継ぐ者として、その道を開く資格を授けよう。さあ、これを握りしめて旅立つがよい」


 その言葉とともに、カマキリは健一に小さな巻物を手渡した。巻物には天草四郎の手による秘密の詩が書かれていた。健一は胸の高鳴りを感じながら巻物を握りしめ、これが自分の新たな物語の始まりであることを感じ取った。


 10月5日、健一は秋の涼しい風を感じながら街を歩いていた。夕暮れが近づき、街のあちこちからラジオやテレビで流れるニュースが彼の耳に入ってきた。


 その日は特別な日だった。日本中が山口百恵の引退コンサートを心待ちにしていたのだ。百恵が日本武道館で行う最後のステージに、ファンは期待と名残惜しさを胸に集まっていた。「歌姫」とも称された彼女のステージは伝説の一夜となり、多くの人々が彼女に別れを告げるために、武道館周辺はまるで祭りのような賑わいだった。健一もそのニュースを聞きながら、彼女のこれまでの功績や、彼女が数々の名曲で描いてきた愛や別れを思い出し、心に染み入るような感慨を覚えていた。


 そんな中、もう一つのニュースが流れてきた。『笑点』の大喜利メンバーであった4代目三遊亭小圓遊が43歳の若さで亡くなったという報せだった。日本の笑いを長年支え、多くのファンに愛された小圓遊の急逝は、多くの人にとって大きな喪失だった。彼の個性的な話術と独特のユーモアがもう聞けないと思うと、健一の胸には寂しさがこみ上げてきた。


 街の本屋に入った健一は、百恵の引退を記念した雑誌や、落語家小圓遊の追悼特集が並んでいるのを目にした。彼は一冊の雑誌を手に取り、百恵のこれまでの歩みを追う記事を読みふけった。彼女の真摯な姿勢や芯の強さが伝わる言葉の数々が心に響き、健一は思わず本を閉じ、少し目を閉じた。


「自分もまた、何かを残せるような人生を歩んでいるだろうか」と、ふと健一は自問する。彼がひょんなきっかけで書いた本が世に出てベストセラー作家となったことを思い返し、自分の道がこれからも続くのか、それともまた違った運命に引き寄せられるのかを考えた。


 その夜、健一は百恵と小圓遊が残してくれた日本の文化や芸術に対する敬意を胸に、静かに筆をとった。




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The潜入 1万 鷹山トシキ @1982

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