第7話 国境の夜

第7話 国境の夜

夜の山頂は冷たく、乾いた風が岩肌を撫でていた。遥か眼下には、うっすらと灯りの線が蛇のように伸び、遠くの都市の存在を知らせていた。咲子は肩を寄せ、誠司の隣に座る。

「寒いですね……」

彼女の吐く息は白く、小刻みに震えていた。

「ああ、でももう少しだ。あの向こうに国境がある。越えれば、ひとまず安全圏だ」

誠司はそう言いながらも、気を抜くことはなかった。ヴィクトルの執念は常軌を逸していた。あの男なら、どこまでも追ってくる――そんな予感が、誠司の胸を重くしていた。

その隣で、イワンが地図を広げる。手書きの線が縦横に走り、彼の指がある一点をなぞった。

「この谷を越えた先に、国境検問所がある。だが、正面突破は不可能だ。代わりに、この旧地下道を通る」

「地下道……?」

咲子が目を丸くする。イワンは頷き、地図の一角を指で叩いた。

「昔、密輸業者が使っていたルートだ。今は使われていないが、俺が若い頃に何度か通った。危険だが、通れる」

誠司は深く息を吐き、顔を引き締めた。

「やるしかないってことか……」

その夜、三人は再び歩き出した。山の稜線をなぞるように進み、やがて谷を目指して滑るように下っていく。月は雲に隠れ、あたりは漆黒の闇に包まれていた。


谷底に着いた頃には、すでに夜半を回っていた。湿った空気が肌を刺すように冷たく、どこからか水の滴る音がしていた。

「ここだ」

イワンが立ち止まり、低木の茂みをかき分けた。そこには鉄柵で封じられた古いトンネルの入口が現れる。

「まるで遺跡だな……」

誠司が呟くと、イワンは苦笑した。

「俺にとっては“記憶”だ。だが今は、俺たちの最後の希望でもある」

イワンが工具で柵の錠を破壊すると、重い金属音が谷に響いた。三人は息を殺しながら、慎重に中へと足を踏み入れた。

地下道の中は湿っており、足元にはぬかるみが広がっている。天井から水がぽたぽたと滴り、どこかでネズミの鳴き声が聞こえた。

「イワン、どれくらいかかる?」

「早くて三時間。だが気をつけろ。この道は時に罠のように牙をむく」

その言葉の通りだった。


三人が半ばまで進んだ頃、突如として鈍い音と共に足元が崩れた。誠司が咄嗟に咲子を庇いながら、片足を泥に取られた。

「大丈夫か!?」

「なんとか……でも、これ以上は一歩も気を抜けないですね」

咲子の声にはかすかに震えが混じっていたが、その瞳は強い光を宿していた。

「この先を越えれば、自由がある」

イワンの言葉が、希望の火種を守っていた。

だが、運命は再び彼らに牙を剥く。

背後から、地下道の静寂を破って、金属の響きが迫る。

「足音……!」

誠司が反射的に振り返る。

「まさか……こんな場所まで……」

その時だった。闇の中から、確かに聞こえてきた。

「そこまでだ、斎藤誠司。お前は本当にしぶとい男だな」

その声を、二人は忘れることができなかった。

「ヴィクトル……!」

彼は息を切らしながらも、整然とした足取りで現れた。背後には二人の兵士が銃を構えて続く。

「ここが終着点だ」

ヴィクトルの銃口が、咲子に向けられた。

「やめろッ!」

誠司が叫んだその瞬間――

乾いた銃声が一発、地下道に響き渡った。


静寂の中で、しばし時間が止まったかのようだった。

倒れたのは、ヴィクトルの背後の兵士だった。

「何……!?」

ヴィクトルが振り返る。

さらにもう一発。今度は別の兵士が膝をつく。

「誰だッ!?」

その叫びに応えたのは、闇の奥から現れた黒衣の人物だった。

「すまんな、ヴィクトル。これ以上、こいつらを追わせるわけにはいかない」

姿を現したのは――かつて咲子と誠司が依頼主として顔を合わせた、貿易会社の幹部、ユーリだった。

「ユーリ……!まさか……!」

「お前たちには、まだ果たすべき使命がある」

ユーリは銃を手にヴィクトルににじり寄る。

「お前たち反体制派の亡霊が……!」

ヴィクトルが叫ぶが、その顔にはこれまでにない動揺が浮かんでいた。


混乱の隙を突き、イワンが咲子と誠司を導いて走り出す。

「今しかない!」

彼らは再び走った。トンネルの出口が、うっすらと光を放っていた。

「もうすぐ……出口……!」

やがて、外気が肌に触れ、彼らは土の匂いと共に、ついにトンネルを抜け出した。

そこには――国境のフェンスがあった。

「これを越えれば……!」

だが、ヴィクトルの怒声が背後から迫る。

「逃がすかァッ!!!」

その瞬間、咲子は振り返り、ブレスレットに手をかけた。

「誠司さん、これで……終わらせます!」

ブレスレットの隠された機能――通信と暗号解読機能。それを最大出力にし、秘密警察の無線を妨害する信号を放つ。

ヴィクトルの無線機が火花を散らし、兵士たちが混乱に陥る。

「今だ、行けぇぇっ!!!」

イワンの絶叫と共に、三人は国境フェンスを越えた。

背後で、ヴィクトルの怒号が木霊する。

だが、もう彼らに手は届かない。


夜が明け、朝日が三人の顔を照らした。

「……ついに、国を出られたんですね」

咲子は涙を浮かべながら笑った。誠司も、イワンも、満身創痍のまま頷いた。

「これが……新しい始まりだ」

彼らの逃走劇は、ようやく一つの節目を迎えた。だが、まだ終わりではない。

反体制派になったつもりもなかったので、咲子たちはこれからどうなっていくのか不安を抱えながら、旅を続けていくしかない。

この国から生きて変えることができるのか?

革命にでも巻き込まれたらたまったものではないと思いながらも、この国の現状に憤りを感じていた二人は、今後どうするかの選択肢に迫られているのを感じながら、とりあえず生き残ったことにホッとため息を付いた。



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