【SF短編小説】星を繋ぐ調律師(約8,100字)

藍埜佑(あいのたすく)

【SF短編小説】星を繋ぐ調律師(約8,100字)


●第1章:調律師の少女


 青い光が空間を満たす。


 ガラス張りの広間に、繊細な音色が響き渡る。光の帯が宙を舞い、少女の指先で紡がれる音符のように踊っている。


「はい、深呼吸をして……」


 詩音は、目の前のクライアントの感情の周波数に意識を集中させた。モニターには波形が映し出され、その揺らぎは不安定な心を如実に表している。調律装置から放たれる青い光が、少しずつ温かみを帯びていく。


「あなたの心は、まるで嵐の中で迷子になった小鳥のよう。でも大丈夫、一緒に帰り道を探しましょう」


 詩音の声は、静かな湖面のように穏やかだった。十六歳とは思えない落ち着きと確かな技術で、彼女は業界でも指折りの調律師として名を馳せている。


 クライアントの波形が徐々に安定していく。不協和音を奏でていた周波数が、少しずつ調和の取れた響きへと変化していった。


「素晴らしい。この感覚を覚えていてくださいね」


 セッションを終えた後、詩音は深いため息をついた。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっている。


「お疲れ様、詩音さん。今日も素晴らしい調律でした」


 同僚の青山が、データパッドを手に声をかけてきた。三十代半ばの彼は、詩音の師匠的な存在だ。


「ありがとうございます。でも……」


 詩音は言葉を濁した。確かにクライアントの感情は安定したが、どこか物足りなさを感じていた。まるで演奏された音楽が、肝心な音符を欠いているような。


「また考え込んでいるの?」


「私の調律、本当に彼らの助けになっているんでしょうか?」


 青山は優しく微笑んだ。


「君の調律は間違いなく人々を救っているよ。ただ、完璧を求めすぎなんだ」


 詩音は黙ってうなずいた。しかし、胸の奥に潜む違和感は消えない。


「そうそう、新しいクライアントが来るって聞いたけど」


「ええ、明日の午後です。まだ詳しい情報は……」


 その時、詩音のデータパッドが小さな音を立てた。新規クライアントのデータが送られてきたのだ。画面に表示された情報に、詩音は息を呑む。


 名前:星奈(せいな)

 年齢:16歳

 特記事項:極度の感情の乱れ。通常の調律が効かない特異な周波数パターンを持つ。


 そして、その波形データ。


 詩音の手が僅かに震えた。見覚えのある周波数パターン。決して忘れられない、あの日の……。


「詩音さん? どうかした?」


「……いいえ、なんでもありません」


 詩音は慌てて平静を装った。しかし、胸の奥で音が鳴っている。十五年前に失われた音色が、再び響き始めたかのように。


 帰り道、詩音は普段より遠回りをして歩いた。街には、感情調律の広告が溢れている。「あなたの心を最適な周波数に」「感情の混乱にさようなら」。巨大なホログラム広告が、夜空を覆い隠すように瞬いている。


 アパートに戻った詩音は、引き出しから古い写真を取り出した。二人の幼い少女が写っている。瓜二つの顔、同じような笑顔。しかし、今ここにいるのは片方だけ。


 写真の隣には、壊れた調律器が置かれていた。十五年前の事故の名残。それは詩音の心に深く刻まれた傷跡であり、同時に彼女が調律師を志すきっかけとなったものだった。


 詩音は星奈のデータをもう一度確認する。異常な周波数パターン。通常の調律が効かない。そして、その波形の特徴。


「まさか……」


 部屋の静寂を破るように、詩音のデータパッドが鳴った。明日の予約確認の通知だ。時計は既に深夜を指している。


 詩音は横になったが、なかなか眠れなかった。記憶の中で、懐かしい調べが響いている。姉の奏でた最後の音色が、今も彼女の心の中で鳴り続けているように。


 窓の外では、人工の星が瞬いていた。その光は、どこか儚く、遠い昔の追憶のように見えた。詩音は目を閉じ、明日の調律に向けて心を落ち着かせようとする。しかし、星奈という少女の周波数が、彼女の心に強く響いていた。


(姉さん……あなたはどこにいるの?)


 問いかけは、夜の闇に溶けていった。


●第2章:負の周波数


 朝日が差し込む診察室に、不協和音が満ちていた。


 詩音は眉をひそめる。モニターに映る波形は、まるで怒り狂う大海のように荒々しく揺れ動いている。しかし、目の前に座る少女の表情は、まるで仮面のように無表情だった。


「星奈さん、もう一度深呼吸をしてみましょう」


 淡い色の髪を持つ少女は、黙ってうなずいた。調律装置から放たれる光が、星奈の周りで不自然な歪みを見せる。


「変わってるでしょう? 私の周波数」


 突然、星奈が口を開いた。その声は、どこか虚ろだった。


「普通の調律師じゃ手に負えないって、みんな言うんです。でも、あなたなら分かるはずです。だって……」


 詩音は息を呑む。星奈の瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめていた。


「私たち、似ているから」


 モニターの波形が大きく乱れる。通常ならばあり得ない、負の値を示す周波数。それは詩音の記憶の中の音色と、恐ろしいほど酷似していた。


「申し訳ありません。少し休憩を……」


 詩音は立ち上がろうとした。しかし、星奈の言葉が彼女を引き止めた。


「逃げないでください。私にはあなたしかいないんです」


 その瞬間、星奈の周波数が急激に変化した。モニターの警告音が鳴り響く。青い光が赤く変わり、部屋中の機器が異常な反応を示し始めた。


「星奈さん!」


 詩音は咄嗟に調律装置の出力を上げた。しかし、星奈の周波数は制御を拒絶するように暴れ続ける。まるで、心の奥底に潜む何かが、必死に声を上げているかのように。


「先輩!」


 青山が部屋に駆け込んできた。彼は素早く非常停止装置を作動させ、異常な周波数の発振を抑え込んだ。


 静寂が戻った診察室で、星奈はぐったりと椅子に崩れ落ちていた。


「大丈夫です……ただ、少し疲れただけ」


 星奈は弱々しく微笑んだ。しかし、その表情には何か意味ありげなものが潜んでいた。


 緊急処置の後、詩音は屋上で深いため息をついていた。都市の喧騒が、遥か下から聞こえてくる。


「前例のない周波数パターンね」


 後ろから声がした。振り向くと、研究主任の篠宮が立っていた。五十代の彼女は、調律技術の第一人者として知られている。


「はい……私の力不足で申し訳ありません」


「いいえ、あなたは良くやったわ。あの状況で制御を失わなかったのは見事だった」


 篠宮は詩音の横に立ち、遠くを見つめた。


「ところで、気付いたかしら?」


「はい……」


 詩音は静かにうなずいた。


「星奈さんの周波数、まるで……」


「そう、十五年前の事故の時と同じね」


 篠宮の言葉に、詩音は身震いした。あの日の記憶が、鮮明に蘇ってくる。


「でも、どうして……」


「それを調べるのが、あなたの仕事よ」


 篠宮は詩音の肩に手を置いた。


「ただし、無理は禁物。星奈さんの周波数には、私たちの知らない何かが隠されている。慎重に」


 詩音が研究室に戻ると、青山が心配そうな顔で待っていた。


「大丈夫?」


「はい。ただ……」


 詩音は星奈のデータを見つめた。


「青山さん、事故のデータ、見せていただけませんか?」


「事故? ああ、十五年前の……」


 青山は躊躇したが、詩音の真剣な表情に、しぶしぶうなずいた。


 古いファイルを開くと、そこには衝撃的な波形が記録されていた。負の周波数を示す異常なパターン。そして、その特徴は、紛れもなく星奈のものと一致していた。


「これは……」


 データパッドに新しい通知が入る。星奈からのメッセージだった。


『本当の調律を、始めましょう』


 詩音の心に、懐かしい音色が響いた。姉の最後の調べと、星奈の不思議な周波数が、静かに重なり合う。


 窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。まるで、十五年前のあの日のように。


●第3章:記憶の螺旋


 古い研究所の廃墟は、月明かりに照らされて不気味な影を落としていた。


 詩音は懐中電灯の光を壁に這わせる。十五年前、最初の調律装置が開発されたのは、この施設だった。そして、あの事故が起きた場所でもある。


「本当にここに?」


 後ろから星奈の声が聞こえる。詩音は振り向いた。


「ええ。事故の真相を知るには、ここしかないと思って」


 二人は廃墟の中を進んでいく。割れた窓から吹き込む風が、どこか悲しげな音を立てていた。


「私が来るって分かっていたんですね」


 星奈の言葉に、詩音は足を止めた。


「あなたこそ、私を待っていたんでしょう?」


 星奈は微かに笑った。その表情は、月明かりに照らされて幻のようだった。


「詩音さんは、私の周波数が特別だって気付いている。でも、その理由は分からない。そうでしょう?」


 詩音は黙ってうなずいた。


「実は私も、自分の中に何かが渦巻いているのは分かるんです。でも、それが何なのかは……」


 星奈の声が途切れた。その時、詩音のデータパッドが反応を示す。周囲の電磁場が急激に変化していた。


「この反応……まさか!」


 詩音は星奈の手を取り、廃墟の奥へと駆け出した。薄暗い通路を抜けると、そこには円形の大きな実験室が広がっていた。


「ここが……」


 部屋の中央には、巨大な調律装置の残骸が佇んでいる。事故当時のままの姿で。


「初期型の共鳴増幅器です。周波数を増幅させて、複数の人の感情を同時に調律しようとした装置」


 詩音は古い制御パネルに手を触れた。埃を払うと、かすかに光る表示が見える。


「でも、予想以上の共鳴が起きて、制御不能に……」


 その時、星奈が急に身を震わせた。


「あっ……」


 モニターが突如として明滅を始める。星奈の周波数が急激に変化していく。


「また始まる……私の中の、あの音が……!」


 実験室全体が振動し始めた。古い装置が次々と起動し、異様な光を放ち始める。


「星奈さん!」


 詩音は慌てて星奈に駆け寄った。しかし、その瞬間、予想外の出来事が起きる。


 二人の周波数が共鳴を始めたのだ。


「な……何が?」


 世界が歪んで見える。視界が霞み、記憶の中の風景が現実に重なっていく。


「お姉ちゃん!」


 詩音の意識の中で、幼い頃の自分の声が響いた。そして、目の前に一つの光景が浮かび上がる。


 十五年前。初期型の調律装置の事故。そして、姉の最期の瞬間。


(違う……あの時、姉さんは……)


 記憶の中の光景が、少しずつ鮮明になっていく。


 事故を起こした装置。異常な周波数の共鳴。そして、姉の身体が光に包まれていく様子。


(消えたんじゃない。姉さんは……転送された?)


 その時、星奈の悲鳴が響いた。


「誰かが……誰かの記憶が、私の中に……!」


 星奈の周りで、青い光が渦を巻いている。その光は、かつて詩音の姉を包み込んだものと同じ。


「やめて! 私は私なの! でも、どうして……こんな記憶が……」


 詩音は決意を固めた。彼女は自分の調律装置を最大出力に設定する。


「星奈さん、私の声が聞こえますか?」


 詩音は、静かに歌い始めた。姉と二人で歌った、あの頃の歌を。


 星奈の乱れた周波数が、少しずつ、しかし確実に変化していく。


「この歌……知ってる。でも、どうして?」


 二人の周波数が完全に同調した時、部屋中の装置が一斉に明滅した。そして、星奈の意識が遠のいていく。


「詩音……さん……」


 星奈が倒れるのを、詩音は必死に受け止めた。


 実験室は再び静寂に包まれた。しかし、詩音の心の中では、新たな音が鳴り響いていた。


 真実の音色が。


●第4章:魂の共鳴


 病院の一室に、静かな寝息が響いていた。


 詩音は眠る星奈の顔を見つめていた。モニターには安定した波形が表示されている。しかし、その周波数は通常とは明らかに異なっていた。


「意識の転送……か」


 青山が静かに呟いた。廃墟での出来事を聞いた彼は、長い間黙り込んでいた。


「十五年前の事故で、詩音さんのお姉さんは消えたんじゃない。あの装置によって、意識が転送されたんですね」


「でも、どうして星奈さんの中に……」


 その時、篠宮が部屋に入ってきた。


「おそらく、星奈さんは特別な器だったのよ」


 篠宮は古いデータパッドを取り出した。


「これは、星奈さんの出生時のデータ。十五年前、彼女は深刻な脳の障害で生まれた。普通なら助からなかったはず。でも、奇跡的に一命を取り留めた。その直後に……」


「事故が起きた」


 詩音は息を呑む。全てが繋がり始めていた。


「私の姉の意識が、生まれたばかりの星奈さんの中に……」


「ええ。空白だった彼女の意識の器に、お姉さんの意識が転送された。だから星奈さんは生き延びた。そして、あなたの姉の記憶も、深層意識として眠っていたのよ」


 静寂が部屋を満たす。


「でも、それじゃあ星奈さんは……」


 その時、ベッドから微かな声が聞こえた。


「私は……私」


 星奈がゆっくりと目を開ける。その瞳には、これまでにない意思の光が宿っていた。


「確かに、私の中には別の誰かの記憶がある。でも、それは私という存在を否定するものじゃない」


 星奈は起き上がろうとした。詩音が慌てて支えようとすると、星奈は静かに首を振った。


「大丈夫です。むしろ、今まで見えなかったものが、はっきり見えるようになった」


 モニターの波形が、穏やかな律動を刻んでいく。


「ずっと、私の中で混乱していた二つの意識が、やっと調和を見つけ始めたんです」


 星奈は詩音を見つめた。


「あなたのお姉さんは、私の中で生きています。でも、それは私という存在の一部として。決して、私を支配するものとしてではありません」


 詩音の目に、涙が浮かんだ。


「本当に……姉さんなの?」


 星奈は優しく微笑んだ。その表情は、確かに詩音の記憶の中の姉に似ていた。でも、それは完全な一致ではない。別の人格として、星奈という個性の中に溶け込んでいるのだ。


「一つ、確かめたいことがあります」


 星奈は立ち上がり、詩音の前に立った。


「私たちで、調律をしませんか?」


 篠宮が驚いた表情を見せる。


「危険よ。二人の周波数が干渉して……」


「大丈夫です」


 詩音が静かに答えた。


「私たちなら、できる」


 二人は向かい合って座った。調律装置が起動し、青い光が部屋を満たしていく。


 詩音と星奈の周波数が、ゆっくりと共鳴し始める。しかし今度は、廃墟での時のような混乱は起きない。


 二つの音色が、美しいハーモニーを奏で始めたのだ。


「まるで……」


 青山が呟く。


「双子の星が、互いを照らし合っているようね」


 篠宮の言葉に、詩音は静かにうなずいた。姉の記憶と星奈の意識が、完璧な調和を生み出している。


 それは悲しみや喪失を超えた、新しい絆の形だった。


 窓の外では、夜明けの光が差し始めていた。新しい日の始まりを告げるように。


●第5章:星々の調べ


 春の風が、街を優しく包み込んでいた。


 詩音は窓辺に立ち、満開の桜を眺めている。診察室のモニターには、穏やかな波形が映し出されていた。


「不思議ですね」


 隣で星奈が微笑む。


「私たちの調律を受けた人は、みんな安定した波形を示すようになる」


 それは確かだった。二人の周波数の共鳴は、他の調律師には真似できない効果を生み出していた。失われた記憶と新しい意識が織りなす音色は、人々の心に深く響くのだ。


「詩音さん、来ましたよ」


 青山が新しいクライアントを連れてきた。幼い少女だ。母親を事故で失い、深い悲しみに沈んでいるという。


「こんにちは」


 詩音が優しく声をかける。少女は怯えたように身を縮めた。


「大丈夫。怖くないわ」


 今度は星奈が話しかけた。その声には、不思議な温かみがあった。


「私たちと一緒に、あなたの心の音を聴いてみない?」


 調律が始まる。二人の周波数が溶け合い、幻想的な光が部屋を満たしていく。


 少女の波形が、ゆっくりと変化を始めた。混乱と悲しみに満ちた周波数が、少しずつ安定していく。


「お母さんのこと、思い出せる?」


 星奈の問いかけに、少女が小さくうなずいた。


「うん……お母さんの笑顔が……」


「その記憶は、永遠にあなたの中で生き続けるのよ」


 詩音が続ける。


「大切な人との絆は、形を変えても消えることはない。それは私たちが、一番よく知っているから」


 少女の目に、小さな涙が光った。しかし、それは悲しみの涙ではない。


 調律を終えた後、少女は不思議な表情を見せた。


「お二人、まるで星みたい」


「星?」


「うん。光って、煌めいて……でも一つじゃない。二つの星が、一緒に輝いているの」


 詩音と星奈は、思わず顔を見合わせた。


 その夜、二人は研究所の屋上にいた。満天の星空が、都会の喧騒を忘れさせてくれる。


「私たち、これからどうなっていくのかな」


 星奈が夜空を見上げながら言った。


「分からない」


 詩音は正直に答えた。


「でも、それでいいと思う。大切なのは、今この瞬間。私たちがここにいること」


 風が二人の髪を揺らす。


「ねえ、詩音さん」


「なに?」


「あの子が言っていた、二つの星の話」


 星奈は続けた。


「きっと私たちは、そうやって在り続けるのね。二つの意識を持つ私と、それを受け入れてくれたあなた。まるで、双子の星のように」


 詩音は静かにうなずいた。


「ええ。これは終わりじゃない。新しい調べの、始まりなんです」


 その時、不思議な音が聞こえた。まるで遠い宇宙から届いたような、清らかな響き。


 二人の周波数が、自然と共鳴を始める。しかし、それはもう不安定なものではなかった。


 失われた絆を嘆く音色でもない。


 新しい絆を祝福する、温かな調べ。


 それは、魂の奥底から湧き上がる、純粋な喜びの音だった。


「ねえ、歌いましょう」


 星奈が言った。


「あの頃の、私たちの歌を」


 詩音は微笑んで、目を閉じた。


 二人の歌声が、夜空に溶けていく。それは悲しみを超えた先にある、新しい希望の音色。


 星々は、静かにその調べを見守っていた。


 これは、魂の共鳴が紡ぎ出す、永遠の物語。


 終わることのない、心の調律の始まりだった。


●エピローグ:遠い星の囁き


 夏の終わりの夕暮れ時。


 詩音のアパートのベランダに、二つの椅子が並んでいた。西日が街並みを黄金色に染め、風鈴が優しい音を奏でている。


「この風鈴の音、覚えてる?」


 星奈が目を細める。その声は、いつもより少し深みがあった。詩音は、それが姉の記憶が表面に浮かび上がってきた時の声だと知っていた。


「ええ。庭先で鳴らしていた、あの夏の日」


 詩音は懐かしそうに微笑んだ。


「私たち、どっちが早く起きるか競争してたよね。風鈴の音を最初に聞いた方が勝ち、って」


「そう。でも、いつも同時に目が覚めちゃって」


 二人は静かに笑う。星奈の周波数が、穏やかな波を描いていた。


「ねえ、姉さん」


「うん?」


「本当は、時々思うの。このままでいいのかなって」


 詩音は夕焼けを見つめたまま、言葉を続けた。


「星奈さんの人生に、私たちの記憶が入り込んで……」


「違うの」


 星奈が静かに遮った。その瞳には、姉と星奈、二つの意識が混ざり合った深い光があった。


「これは誰かの記憶が誰かを支配しているんじゃない。私の中で、全てが溶け合って、新しい何かになったの」


 星奈は手を伸ばし、夕陽に透かすように見つめた。


「記憶って、不思議よね。それは過去の出来事であって、でも今を生きる私たちの一部になる。だから星奈の記憶も、あなたの姉の記憶も、今の私という存在を作っているの」


 風鈴が、また優しい音を立てた。


「でも、時々は……ただの姉妹として話したくなるの」


 星奈の言葉に、詩音は小さくうなずいた。


「だから、こうしてベランダに座って、昔のように」


「ありがとう、姉さん」


「詩音は、相変わらず泣き虫ね」


 姉らしい優しい声に、詩音は頬を緩めた。


「そうやって意地悪言うところも、変わってないよ」


 二人の周りで、夕暮れの光が揺れている。


「覚えてる? 私たちの秘密の歌」


「うん。今でも口ずさむことがある」


「歌ってみる? この空に向かって」


 詩音は深く息を吸い、静かに歌い始めた。懐かしい調べが、夕暮れの空気に溶けていく。

星奈も、自然とハーモニーを重ねた。


 二つの声が織りなす音色は、かつての双子の歌声とは少し違っていた。でも、それは決して間違いではない。時を経て、新しく生まれ変わった絆の証。


「ねえ、詩音」


「なに?」


「幸せ?」


 詩音は少し考えて、答えた。


「うん。今までとは違う形だけど、姉さんと一緒にいられる。それが、私の望んでいたこと」


「そう。私も、幸せよ」


 星奈の声には、姉の温もりと、星奈自身の優しさが溶け合っていた。


「これからも、一緒に歩いていこうね」


「ええ。永遠に」


 風鈴が、最後の音を鳴らした。


 夜空に、最初の星が瞬き始めている。それは遠い過去の光かもしれないし、未来への希望の光かもしれない。


 二人はただ、その瞬きを見つめていた。


 魂の奥で、静かな調べが響いていた。


(了)


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