第28話 故郷

 

          ◯



 再び車に乗り込んで山の方を目指していると、目に飛び込んでくるもの全てが懐かしさで溢れていた。


 あの頃から何も変わらない氷張川。

 ぼくが生まれる前からあったショッピングモール。

 沈み橋。

 S字坂の途中に見える、低木で形作られた『さくらがおか』の文字。


 やがて坂を上り切ると、町の中心を通る主要道路の脇にはいくつもの店が並ぶ。


「凪。そこの信号、右に曲がってくれる?」


「ああ」


 ぼくがお願いすると、凪はハンドルを切る。

 この方角は、ぼくが通り慣れた道——おそらくは自宅への帰り道だ。


 十年前に住んでいた家が、この先にある。

 母校である小学校の脇を通り過ぎ、小さい頃に友達とかくれんぼをしたバスターミナルの手前を左へ曲がる。

 そして、


「そこの交差点を右に曲がって、すぐ左に入って。それから……」


 細かい道順が、自転車の感覚と共に蘇る。

 住宅街の細い道をジグザグに曲がっていく。


 そうだ。

 この先に、ぼくの帰る家がある。


「凪、停まって!」


 ぼくの一声で、車は停止した。


 進行方向の、右手側。

 舗装された坂道に沿って並ぶ家々の中に、その場所はあった。

 けれど、


「あれ……?」


 十年前にぼくの住んでいた家があったはずのその場所は、すでに空き地になっていた。

 雑草が生え放題になっていて、おそらくここ数年はこのままの状態だったのだろうと思われる。


「あれー? 空き地じゃん。ここに昔何かあったの?」


 後部座席から沙耶の声が飛んでくる。

 ぼくはまるで狐につままれたような心持ちで、目の前の何もない空間を見つめていた。


「そんな。どうして……。ここにぼくの家があったはずなのに」


「キミの家族なら、キミが亡くなった後にここを引っ越していったよ」


 凪が言って、思わずぼくは彼を見る。


「そうなの? 今はどこに」


「さすがにそこまでは調べてないな。捜そうと思えば手がないわけじゃないが、キミは会いたいのか?」


「……いや」


 今さら会ったところで、どうなるというのだろう。


 今のぼくは記憶を取り戻しつつあるとはいえ、体は比良坂すずのものなのだ。

 こんな状態で会いにいったところで、きっと相手を困らせてしまうだけだろう。


 それに、


(なんだか、会うのが怖い……ような)


 できることなら、両親とは顔を合わせたくない——そんな気がしてくる。


「ふーん。ここにあんたの住んでた家があったってこと? せめて家だけでも残ってたら、何か思い出せたかもしれないのにね」


 沙耶の声を耳にしながら、ぼくはなんとか記憶を掘り起こす。


 この場所に建てられていた、二階建ての一軒家。

 壁は白く、屋根は黒っぽい灰色。

 そして、門柱に掲げられていた表札は、


「……『愛崎あいざき』」


 その名を口にした瞬間、ハンドルを握っていた凪の指がぴくりと反応した。


「あいざき? 何それ。もしかして、あんたの苗字?」


 沙耶に聞かれて、ぼくは曖昧に首を傾げる。


 記憶の中にある家の表札には、確かに『愛崎』という文字がある。


 けれど、十年前の凪はぼくのことを『みなみ』と呼んでいたはずだ。


(どういうことだ?)


 何かが引っ掛かる。

 違和感とともに何か、不安のような、嫌な予感のようなものが胸に広がる。


「みなみ」


 隣から、凪が実際にこちらの名を呼ぶ。

 記憶の中の声よりもずっと低い、大人になった彼の声。


「もう一度聞くが……キミは全てを思い出したら後悔するかもしれない。それでも真実を知りたいのか?」

 

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