第27話 昔、この場所で

 

 細い路地を抜け、広めの車道に出る。

 そこから駅のある方向へ進んでいく途中で、目的の建物はついに姿を現した。


 氷張市立氷張中学校。


 校門前の坂は急で、その先に見える校舎の景色がひどく懐かしい。


「氷張中学……。そうだ。ぼくはここに通ってた。自転車で。あの山の上の町から、S字の坂を下りて……」


 頭に浮かんだ映像を口にすればするほど、記憶が鮮明になっていく。


 自転車で山を下りる時の、肌を撫でる風。

 太陽に温められた緑と土のにおい。

 氷張川の途中に見える沈み橋。

 そして、この校門前の坂に差し掛かる頃にはいつも、


 ——おはよう、


 誰かが、ぼくにそう挨拶していた。


 みなみ。


 そう、みなみだ。


 苗字か、下の名前かはわからない。

 けれど、生前のぼくがもしも男だったとしたら、『みなみ』は苗字かもしれない。


「何か思い出したか?」


 不意に、隣から井澤さんの声が聞こえた。

 ハッとしてそちらを見ると、彼はどこか不安げにこちらを見つめていた。


 まつ毛の長い、妖艶な瞳。

 その左目の下にある泣きボクロ。


 その顔が、ぼくの記憶の中にある人物と重なる。


 十年前に、この校門前で毎日挨拶を交わしていた男の子。


 ——おはよう、みなみ。


 ——うん。おはよう、なぎ


 凪、と。記憶の中のぼくが、その男の子を呼ぶ。

 紺色の学ランに身を包んだ、綺麗な目をした男子中学生。


 そうだ。

 どうして今まで忘れていたんだろう。


 井澤さんの年齢は、おそらく二十代の前半から半ばほど。

 十年前はきっと中学生だったはずだ。


「……あなたは、凪。ぼくの友達だった、凪なんだね?」


 井澤凪。

 彼のフルネームを思い出して、ぼくは合点がいった。


 対する井澤さんも、こちらの顔を見ながら、ふっと肩の力を抜くようにして微笑んだ。


「そうだ。俺はキミの友達だった。学年も同じ。十年前、キミと同じこの中学に通っていた井澤凪だ」


 十年前にこの場所で、毎日彼と顔を合わせていた。

 当時の光景が、確かな色を持って頭の中に蘇る。


「あのー、もしもし? なんか二人きりで盛り上がってるとこ悪いけど、あたしたちの存在を忘れてません?」


 と、横から沙耶が割って入る。

 彼女は何が何だかわからないといった様子で、ぼくと井澤さんの顔を交互に見ていた。


「ごめん、沙耶。ぼくもまだわからないことがいっぱいなんだけど……もう少しで思い出せそうなんだ」


 井澤さん——もとい、凪のことは今、やっと思い出した。

 彼はぼくの小学校の頃からの友達で、お互いによく会話をしていた覚えがある。


 ただ、会話の内容まではまだ思い出せない。

 彼と何か、大事な話をよくしていたような気がするのだけれど。


「俺のことは少しずつ思い出してきたようだな。それで、キミ自身のことについては、何か思い出したか?」


 凪が聞いて、ぼくは再び彼の方へ視線を戻す。


ぼくは、『みなみ』という名前で呼ばれていたと思う。でもフルネームはまだ思い出せない。それに顔も……」


 記憶の中で、自分の目で見たもの、周囲の環境なんかは少しずつ思い出せている。

 けれど、肝心な自分自身のことはまだ見えてこない。


 ぼくはどんな人物だったのか。


 そして、なぜ十年前に死んでしまったのか。


「もう一度、桜ヶ丘の方まで戻ってみるか?」


 凪が言って、ぼくは頷く。


 あの山の上にある町はきっと、十年前にぼくが住んでいた場所だ。

 あそこに戻れば、もっと具体的なことを思い出せるかもしれない。


「ごめんね、沙耶。桃ちゃんも。ぼくのワガママで連れ回しちゃって」


「ぜーんぜん! もともとあたしらは勝手についてきたわけだしね。それに、今のあんたの記憶の謎を解明しないことには、も戻ってこられないかもしれないし」


 そんな沙耶の発言に、ぼくは急に背中から水を浴びせられたような感じがした。


 比良坂すずの意識。


 そういえば、彼女の記憶は今どこにあるのだろう?


「さて。それじゃあ車の方まで戻るか。祭り会場の駐車場だったな」


 凪が言って、みんなが歩き出す。


 一拍遅れて、ぼくもその後を追う。


 言い知れぬ不安に駆られたぼくのことを、やけに無口になった桃ちゃんだけが見つめていた。

 

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