二、ササ



 青々と生い茂った竹林の奥に、その邸はひっそりと佇んでいる。すべてに隔たれているように、光は射さない。長く長く伸びた竹の先と笹の葉に閉ざされている。


 ────ねえ。


 文机に頬杖をついて、離れた場所で控えている少年に声をかける。


 彼女の「ねえ」には意味が無い。

 彼女は少年の主人で、少年はただそこにいるだけの存在だった。


 ただそこにいるだけの、名前のない少年。


 はらり。

 花びらが零れる。

 少女が唇を綻ばせたから。


 少年は怪訝そうに少女の横顔を窺う。

 なにかとても嫌な予感がした。


「あなた、いつまでも名前がないと、とても不便でしょ?」


「別に」


「ああ、そう。つまらないわ。つまらないわね、とても」


 はあああああ。


 霧でも生まれるかのような。深い深いため息。少女は少年よりずっと年上だが、見た目は十五歳ほどである。あれからふた月ほど経っていた。少年が少女に拾われたのは春。今はもう気だるい夏。夏、なのに、ここはずっと涼しい。


「····あなたがくれるなら、もらってやってもいいですが、」


 しようがない。

 少年は大きな右の眼を細めて、かさかさの腫れた唇を動かした。


 少女は「その言い方、好きよ」とくつくつと喉で笑って、さらりと頬に流れる黒髪を耳にかけた。


「ねえ、格子を上げて頂戴」


 自分のすぐ傍にある格子を指差して、少女は少年に命令する。少年はのろのろと柱に手を付いて立ち上がり、ひょこひょこと不自由な右足を引きずりながら格子まで辿り着くと、上の部分をぱたりと上げて、射し込むことのない光をさがす。


 ああ、今日も薄暗い。陰鬱な。まるで雲でもかかっているかのように。


「どうして今更、名前など?」


 少年には名前がない。生まれた時から、ない。捨てられたのは春、十歳になったばかりの頃。


 親は醜い少年を疎み、元々明日食べるものもないに等しかったことも重なり、少年を捨てた。


 少年の顔は右側だけ焼け爛れたように赤くかさかさしている。唇は腫れていて乾いている。右の眼が左の眼より大きく、右の足はいうことを聞いてくれない。髪の毛は少女に遊ばれて部分的に短く切られたせいで、長い部分と短い部分が揃っていない。

 

 だが少年は自分の外見などもはやどうでも良かった。元々醜い。すべては母親のせい。


 この眼も顔も唇も足も。

 全部。母親のせい。


 拾われなかったらそのまま死んでいられたのに。

 少年は少女が憎く、疎ましく、そして殺したいくらい愛おしかった。


 そんな少女が名前をくれる。名前のない少年はどうでもよいことだと思う。それで生きる意味を見出せるわけもない。さっさと終われば良いといつも思う。いつもいつも思う。


 誰かのせいにするのにも厭きたし、悲観するのにも疲れた。でもそうしてしまうのは、自分が弱くて醜い人間だからだろうか。


「あら、塵にだって塵って名前があるわ。指は五本あって全部に名前が付いているでしょ。あなた、塵以下になりたいの? それともさっさと死んでしまいたいのかしら? ああ、それもいいわね。そうしたら、私が食べてあげる。でもせっかくの話し相手だもの。餌の調達も。それはだめね。私は男は好きじゃないもの。とっても不味いもの。ああ、でも、あなたが取ってくる女もとても不味いけれどね」


 じゃあご自分で行かれては? 少年は喉まで出かかった言葉をこくりと飲み込む。


 足が不自由で醜い顔の自分が、どれだけ苦労して少女の「餌」を獲ってきているのかを、少女は知らない。知らないし知ったところで、あら、そう、それはご苦労様、と肩を竦めるのだと少年は思う。


 実際そうだろう。少年はいつも思う。自分の前に狩りをしていたひとたちはどうなったのだろう、と。死んだのだろうか。それとも少女に喰われたのだろうか。


 女たちは少年の顔を見た途端、腰を抜かすか罵るか、鬼だといって恐れるかのどれかだった。ああ、この顔も役に立つんだな、と少年はそのまま棒を振り落とす。そうやって狩った都の女をずるずると引きずって、夕刻から夜を越えて朝陽がのぼる頃に、少女の待つ竹林の邸に帰って来る。


 週に一度の少年の仕事。


「なにか良い名前はある?」


「はあ····なよ竹様がつけてくださるんじゃないんですか?」


「名前なんてどうだっていいじゃない。ひとに頼らないで、自分で考えれば良いわ」


「別にいりません(面倒だし····)」


 厭きたんですね。


 元々どうでも良いことで、少女の「ねえ」から始まったこの展開。こうなることは大概に予測していたが、自分で決めろ、とは何事だろうか。


 少女は文机に頬杖を付いたまま、縁側の奥に聳える竹たちを眺める。ぼんやりと。うっとりと。青々とした竹は風でさわさわと揺らめき鳴く。


「ねえ、じゃあササにしなさい。ササ、に。それでいいわ。あなたにぴったりね。ああ、でもすごく呼びづらいわ」


「ササって、適当にもほどがあります」


「ないよりはましでしょう? ねえ、そう思わない、ササ」


 ササ、と少女が呼ぶと、笹がさわさわと答える。


 少年はそれならないほうがましなんですけど、とぼやきながらも。少女が口ずさむ自分の名を、綺麗だなと思った。少女の声も。血のようにあかい瞳も。唇も。すべてが。美しい。


 少女は美しい鬼姫。

 人を喰らう化け物。


 少年が生まれた日。

 夏の日の昼下がり。

 五年前の、あの夏の日に。




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