1955/06/23 I村 民家屋敷 , 2024/05/09 K市 某探偵事務所

 部屋には、襖のいたるところに張り付けられたお札を見つめながら泣きそうな顔で縮こまって座っている少年だった日の私。

 そして、そんな私の横で背中をさすってくれている女性の姿。


「そっかぁ。きみ、あの祠を壊しちゃったのかぁ」

「……わざとじゃ、無かったんだ。おれ、知らなくて」

「うんうん。大丈夫大丈夫。この美少女おねえさんが守ってあげるからね」


 私は当時、親の都合とやらで遠縁の親戚の家に放り込まれ、慣れない生活を送っていました。

 幸い、山合いのその村の人々は思っていたよりも排他的ではなく、年齢が近い子らはよく私と遊んでくれていて。


「うっ、ぐす……気が付いたら、トシ君もケイちゃんもいなくなってて……」

「また遊べるようになるから。大丈夫だよ。大丈夫」


 ただこの日。

 私は遊んでいる最中に村の神社の奥にある祠に不意にぶつかり、倒した拍子に壊してしまったのです。


 泣き喚いて散り散りに家に帰る子らと、事情を聞いて飛んできた村の大人たちの鬼気迫る形相に、私はどうしていいか分からず壊した祠の傍らで泣きじゃくっていました。


 私の世話を押し付けられていた遠縁の親戚は憎々しげな眼で私を罵りながらいずこかへと連絡し、私をその怪しげな一室に閉じ込めてしまいました。


「ここから、出ちゃダメだって。いいって言うまで絶対に出るなって……」

「そうだねー。今出たら、死んじゃうよ、きみ」

「うぅ……いつまで出られないの?」

「んー」


 彼女は人差し指で鼻の頭をとんとんと叩いて、そして言いました。


「3日くらいで、諦めてくれると思うよ。あの祠には、神様がいてね。遊んでくれる相手を探して、神様の世界に連れていっちゃうの」

「……連れていかれたら、どうなるの?」


 彼女は困った顔をします。


「それは、わかんないや」


 彼女がどこまで知っているのかは分かりませんでしたし、いまでも分からないままではありますが、神社の関係者であることと、彼女の名だけは聞いていました。


「……津根居おねえちゃん。おれ、死なないよね」

「まっかせなさい。死なせないからね」


 部屋の壁に貼られた札には、祠から神がこちらを認識できぬようにするまじないで、神が飽きて帰るまではこちらからは何もできないと彼女は教えてくれました。


 けれど、神なんてものはそもそもが、こちらの理を越えたもので。

 常識も、通例も、こちらの願いも何もかも踏み越えてくるものなのだと今ならばわかります。


 その時は、何事もなくただ時間が過ぎて、あるべき日常に戻れるものだと思っていました。


 けれど。

 部屋の隅から順に、貼ってある札が黒ずんでいくのが見えたとき、私は再び泣き出してしまいました。


「津根居おねえちゃん! お札が! お札が!!」

「……そんな、なんで!?」


 和室の部屋の襖が一斉に開く。廊下があるはずのその場所は、霧が深い見たこともないものになっていました。


【遊ぼ】

【遊ぼう】

【あそ】

【アソボウ】

【ああああそぼあそそそぼあそぼぼぼぼぼ】


 村で一緒に遊んでくれていたトシ君とケイちゃん。祠を壊してしまってから姿が見えなくなっていた二人の声が順番に霧の中からくぐもって響いてきて。


 ああ、こういうことかと理解できてしまって。

 自分もこうなるのだと。


「な……なにこれ……」


 彼女が窓の外を見れば、大きな目がぎょろりとこちらを覗き込んでいました。その大きさから察するに、ゆうに家の大きさを越えるほどはあったと思いますけれど、もしかしたら私の恐怖からくるただの思い違いかもしれません。


「おねえちゃん……!」


 私は彼女にしがみついて助けを乞いました。彼女も震えていたように思います。

 頭にぽん、と手を置いてくれて。


 それから彼女は部屋の柱に走り寄り、まだ黒ずんでいないお札をべりべりとはがして私に貼り付けました。


「ここは私に任せて、きみは逃げて」

「おねえちゃん、津根居おねえちゃんは!?」

「ふふーん。ちょっとだけ神様と遊んでから帰るね」


 それが強がりであることは明白で、少年時分の私もそれを感じ取っていました。

 何か言おうと思いましたが、何を言うべきか分からず、彼女に押されて部屋と襖の境界線を跨いだ私は、霧の中の空間ではなくいつも通りの廊下に立っていました。


 部屋を振り返ってみれば、そこはがらんどう。

 誰もおらず、何もなく、ただの空間があるのみでした。


 不思議なことに、家の中にも誰もおらず、また家を出て村の中を歩いてみても誰もおらず。

 私は走り始めました。声が聞こえたのです。無我夢中で走るうち、村のはずれへと来ていました。

 そこまで、誰とも会わず、隣には誰もいないはずなのに、頭の中には、遊ぼう、遊ぼうという声が繰り返し響いていました。


 山間の村でしたので、麓にある別の村まで行こうと走る間も、ずっと声は聞こえていました。彼女が体に貼ってくれたお札は、徐々に黒ずんでいきました。

 疲れと恐怖で、麓につく少し前に私は倒れてしまいました。次にある記憶は、麓の村からも離れた病院の一室でした。そばには、父と母がいました。起き上がった私を見て、不自由な所にやって悪かったと、泣いて詫びていました。私は、三日三晩眠り続けていたらしいのです。


 そのころには、もう声は聞こえませんでした。


 さらに日が経って、私はどうしても村の様子を確認したくなりました。父母に無理を言って連れていってもらいました。


 様子が、おかしかったのです。


 様子が。

 おかしかったのです。


 村の子どもたちは「また遊びにきたんか」と歓迎してくれました。トシ君とケイちゃんも、そこにはいました。大丈夫だったかと私が聞くと、二人とも何のことかと首を傾げました。


 意を決して、私が壊した祠のことを聞いてみますと、みな口を揃えて言うのです。


「祠なんぞ、村にありゃあせん」


 その言葉はとても衝撃的でした。

 私を預かってくれていた親類の家に行っても返答は同じでした。もちろん神社にも行きました。祠があったはずの場所には確かに何もありませんでした。


 宮司の方に、津根居という者がいるかと聞きました。


 返答の内容は、もうお判りでしょう。

 私も、内心では返答の内容が分かっていました。


「そんな人物はいない」


 まったく予想通りの宮司の言葉に、私は考えました。


 津根居おねえちゃんが、身代わりになってくれたのだと。

 彼女は、神様に連れていかれてしまったのだと。


 いつしか私は、彼女のことを助けられないかと考えるようになりました。何十年と経った今でも、いえ、時を重ねるにつれて、その思いは確かなものになっているとさえ思います。


 ――これが、私のお話できる彼女についての出来事です。


 〇 〇 〇


老男性の話を聞き終えると、琴科ことしな享祐きょうすけはソファに深く座りなおして頭を抱えた。


「くぁー。最悪だ……聞いちまった・・・・・・

「あの、それはどういう……」

「じいさん、あんたその話、俺以外にもしたか?」

「あのう、話がよく見えてこないのですが」

「うちに! 依頼に来る前に! 他所よそで誰かにしゃべったかって聞いてるんだよ!」

「え、ええ、それは、まあこれまでにも何度かは」


 琴科は両手を高々と挙げた。

 老男性がぎょっとするが構わず言葉を続ける。


「琴科霊能事務所、お手上げのポーズ。貧乏ゆえに誰も雇えず、それでも一人で慎ましくやってきたが、これ以上ないくらいの詰みだ」

「く、詳しくお話を……」

「おう、話す話す。結論から言おうか。あんた、死ぬわ。ついでに俺も死ぬ」


 老男性は何事かと身を前に乗り出す。通常の方法ではかなわない人探しをするために、長年にわたり、方々の伝手を頼ってようやくたどり着いたのがこの琴科霊能事務所だった。

 それなのに今、彼女の手がかりどころか、明確に死を予言されている事態に老男性は慌てていた。


「私は、私はただ、彼女を助ける手段を知りたくて……!」

「分かる。その気持ちはすげぇ分かる。なんなら美談寄りだしな。でもなあ。ダメなんだよ。そいつ・・・は。ええと、失礼。ご年齢は?」

「……1948年です」

「つまり、2024年の今現在は70代後半、と。ちなみに俺は今年で39。いやはや、短けぇ人生だったなぁ。独り身だったのがせめてもの救いかぁ。道連れが無くてイイや」


 琴科は立ち上がり、乱雑に並べてあるスクラップブックから何冊かを取り出して机に並べた。

 表紙には年号が入っており、1987年、2002年と記されている。


 それらを開き、いくつかの事件を並べて琴科は言った。


「1987年に起こった殺人事件の記事だ。大学生数名が泊まっていたY山のペンションに殺人鬼が乱入。大学生らは全員死亡。犯人も、同時に死亡が確認されて、合わせて死者4名。写真サークルの合宿だったんだそうだ」


 老男性の目が、記事にあった写真に釘付けになる。


「犯行の前に撮影されていたらしい写真でな。記念撮影ってとこだろう。俺には3人しか見えないが、あんたになら見えるんじゃないか? 4人・・写ってるのが」


 サークルメンバー3名と、そこにもう一人。

 老男性の記憶にあった姿と寸分の変わりもない、彼女の姿。


「これは――彼女だ……」

「やっぱりなァ」


 幼いころに老男性を救ってくれた津根居の姿が、幼い当時の姿のままでそこに写っていた。


 どう考えても、見た目が合わない。幼いころに会ったのは間違いないが、1987年の事件となれば、少なく見積もっても彼女は40代のはずなのに。

 混乱する老男性に、琴科は説明を重ねる。


 津根居は、人ではない


 津根居は、怪異ではない


 津根居は、神ではない


 津根居に、悪意はない


 津根居は、ただそこにある


 津根居は、周囲の認識を狂わせる


 津根居は、己を呼び水として怪異をひきつける


「こっちの、2002年のファイルは、俺の同級生が行方不明になった事件でな。どうにも違和感があったんだ」


 琴科はテーブルに置いてあった煙草に火を点ける。おおきく紫煙を吐き出してさらに続けた。

 老男性は顔をしかめたが、琴科は気にする様子もない。


「消えたのは男子生徒一人のはずなんだが、どうにも、もう一人クラスにいたんじゃないかと、ずっと引っかかってた」


 この失踪事件をきっかけに、琴科はオカルトに興味を持ちはじめた。そして紆余曲折の果てに霊能事務所を立ち上げるに至ったのだ。本来は消えるはずの津根居に関する記憶が僅かに残っていたのも、彼の才能のためだ。


「なるほど、分かってみりゃあ、津根居だったわけだ。そんならまあ、巡り巡ってじいさんがうちに来たのも納得できるか」

「あの、どうして彼女を知っていると死ぬことになるのですか」


 老男性が僅かに声を震わせて質問する。

 話を聞く限り、彼女自身がなにかをしてくるというわけではなさそうなのに、目の前の琴科という男性は明らかに死を覚悟している。


「くどくど説明するのも野暮ってもんだが……まぁ、いいか。何も知らずに死ぬよりは、知ってから死ぬ方が未練も多少は減るだろうよ」


 もう一度紫煙を吐き出し、老男性にも煙草をすすめるが、老男性は静かに手でそれを遮って断った。


 ○ ○ ○


 元は日本神話から、らしいぜ。

 まあ、俺も師匠からの伝聞だから細かいところは間違ってるかも知れん。その辺はどうでもいいだろ。


 高天原たかまがはらとか、中つ国とか、聞いた事ないか?

 そう、それそれ。あと黄泉の国なんてのもあるよな。


 あれの、元々の表記がな、今と違うんだとよ。


 天津国あまつくに中津国なかつくに黄泉津国よもつくに

 と、こうだ。すべての国は、津に浮かぶように存在するとかなんとか、言ってたっけな。


 俺からしてみればあっちの方が分かりやすい。

 知ってるかどうかは分からんが、あれだ。集合無意識とかいうやつ。心理学者のユングだったかユリ・ゲラーだったかが言ったやつだ。どっちが言ったかは、まあどっちでもいい。

 ともかく、人類には誰しも共通した深層意識が存在するとかなんとか。

 アカシックレコードも近いかもな。知らない? あ、そう。

 人は泥の夢で繋がっているとかは? それも知らない。まあ、いいけどよ。


 ともかく、そんな領域にいるのが彼女だと、そう思っていい。人ではないから、彼女と呼ぶのが正しいかどうかも分からんがね。


 師匠の言葉を借りるなら――


 あまねく津の根底に居るもの。

 ゆえに、その名を津根居。


 人間、水の中じゃ生きらんねえだろ。

 一緒さ。津根居と一緒にいたら、現世うつしよのもんじゃないアレコレの領域に放り込まれるんだ。生きていられるわけがない。


 繰り返すが、津根居そのものに悪意はない。よしんば、津根居自身に意志があるってんなら、きっと自分のことを人間だと思って行動するだろうよ。


 今回のじいさんの件は、どちらかといえば、神さんとやらの仕業だ。ガキの頃に祠を壊したんだろ? じゃあ、その祠の中にいたやつの思惑さ。

 神なんてのは決まって、認識を増やすことに苦心するもんだ。見られているから存在する。知られているから存在できる。そういうもんだからな。


 じいさんは逃げられたんじゃない。逃がされたんだよ。それを他の人に話すことによって、存在そのものを知られるようにするために。津根居っていう撒き餌を使ってな。

 言ってみれば、津根居も被害者かもなぁ。ていよく人集めに使われてさぞ迷惑してるだろうよ。


 ともあれ。


 津根居を覚えているものは、怪異に呼ばれる。巻き込まれる。回避不可能な地雷が彼女だ。ざっくり、そんな認識でいいさ。

 

 さて、長々とつまらない話をした。

 最期の晩餐、なんて洒落たものは出せないが、茶くらいなら用意するぞ。一人でやってる貧乏霊能事務所なもんで安物だがな。

 なに、茶柱の四つ五つでも立てばあまりの縁起のよさに祠の神さんも見逃してくれるかも知れん。


 〇 〇 〇


 長い語りを終え、灰だけになった煙草をもう一度強く灰皿に押し込む。

 老男性もまた、大きく、静かに息を吐いた。


「にわかには……信じられません……」

「わかる。すげぇ分かる。でもま、理不尽なんてのはいつもこっちの都合なんざ考えてはくれねえのさ」


 事務所の隣にある小さな給湯室から、湯の沸く音がする。ぴいぃ、と甲高くなるヤカンの音が警告音のように思えた。


 琴科ことしなは新しい煙草に火をつけようとしたが、箱の中は空になっていた。


「ちぇ、切らしたか」


 くしゃりと箱を握りつぶし、給湯室の方に首を向けてぐでんとソファにもたれかかる。


おーい・・・タバコ・・・新しいのあったっけ・・・・・・・・・


 老男性が琴科を見る。

 この男は、一人で事務所をやっていると、先ほど言っていたのではなかったか。

 一度も、給湯室の方に入っていったそぶりはなかったのではないか。


「んもー、依頼主が来てるのに何ですかその態度。そんなんだからいつまでたっても貧乏事務所なんですからねー」

「押しかけバイトがよく言うぜ。まぁ、いいや。お茶もってこーい」


 かちゃかちゃと食器のぶつかる音を立てながら、お茶を運んできたのは――津根居だった。


「すみませんお客さん。人間的に終わってますけど、こんなんでも一応腕はありますので。お茶、どうぞ」

「おい。一言多いぞお前コラ」

「なーんですかー!? パワハラですかこの美少女アシスタントに向かってー!」

「しっかりアシスタントしてから言えやぁ! 三日に一回はコップ割りやがって」

「安物使ってるから悪いんですぅー!!」


 気の置けないやりとりをしているが、その光景があまりにも異様に思えて。

 老男性はおそるおそる、二人のやり取りに割って入った。


「あ、あの……」

「すみませんね、うちのバイトがお見苦しいところを」

「お見苦しいのは琴科さんでしょ」

「あんだとぉ」

「やんのかー受けて立つぞこらー」

「その、そちらの方……。津根居さん……でしたかな?」


 きょとんとした顔で琴科が津根居を見る。


「お前、じいさんに名前言ったか?」

「うぇ?」


 彼女は人差し指で鼻の頭をとんとんと叩いて考え込む。

 その仕草は、老男性が幼いころに見た彼女の仕草と、まったく同じだった。


 津根居は、人ではない


 津根居は、周囲の認識を狂わせる


 先ほど琴科が言った言葉の意味を、老男性は真に理解した。理解できてしまった。


「おじーさん、どこかでお会いました?」

「ああ、いえ、ここを紹介される時に聞いていたもので。かわいらしい方がいると」

「わー! 嬉しい! ちょっと待っててくださいね。琴科さんが隠し持ってる高級カステラ切ってきますから!」

「お前、どうしてそれを……! おい待て高かったんだぞ!」


 跳ねるようにテーブルを離れ、給湯室ではなく事務机の引き出しを躊躇なく開け、しっかりとしたパッケージを取り出す。

 苦い顔で頭を掻く琴科と対照的に、津根居は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


 老男性には、彼女が人ではないということが分かっている。数十年間見た目の変わらない人間などいない。それでも、長年探し続けていた存在であるという錯覚はしつこく判断の底にこびりついていた。


 ぴたりと。


 津根居の動きが止まる。


「おい、どうした?」


 窓の外を、目を見開いて。呆然と。


 つられて、琴科と老男性も窓を見る。


 目。


 巨大な目。


 窓からこちらを覗き込む。


 昔見たものと同じ、恐怖を揺さぶる大きな目だと、老男性は思い出した。


「こ、ここ、琴科さん!」

「動くな。あれは見る・・ことしかできない。おい、じいさん。あれを何とかして欲しいって話だったよな?」

「え……」


 認識がずれてそう解釈されているのだと、老男性にはすぐ判断できた。

 その強制力を何とかする手段を、彼は持っていない。それに、祠を壊して閉じ込められた時に見たのは、間違いなくあの大きな目であることに違いはなかった。


「……はい」

「冗談きついぜ。マジもんの神クラスじゃねえか。なんてもの祀ってやがんだ。いいか、じいさんは動くなよ。津根居は視線を切らすな。瞬きもナシだ!」

「いつまでですかぁー!」

「3分!」

「2分でお願いしますぅ!」

「ナチュラルに時間値切ってんじゃねえよ!!」


 老男性は慌ただしく動き回る琴科と、窓の外の目と相対し続ける津根居を見ることしかできなかった。

 あの日と同じだ。恐怖に震えて、見ていることしかできない。


 琴科が窓の四隅に札を貼って手で印を結ぶと、ガラスに墨が広がるように黒く塗りつぶされた。


「ふぅ、外と中の繋がりは断った。応急処置だがな。さぁて、対策考えながら籠城戦だな」

「琴科さぁん! もうまばたきしても大丈夫ですかぁ!!」

「あ、すまん、いいぞ」

「ふぁー、怖かったぁぁぁ!」


 へたりと座り込む津根居。


「さて、どうしたもんかな」

「あのう、この場所で数日……立てこもるのですか?」

「そんなにかからんさ。そりゃあ、じいさんが子供の頃だったら、の話だ。あの神さんも祠から出て長いしな。なんせ、娯楽にあふれた現代社会だ。すぐに他に興味を移してくれる……といいんだがなあ」

「最後ぉ! 自信もってくださいよそこはー! ぎぶみー希望!!」

「とりあえずカステラ元の場所に戻せ。貴重な食糧だ」

「絶対カステラ食べられたくないだけだこの人。早く何とかしないと」


 琴科は老男性から壊した祠の特徴や村の場所を細かく聞こうとしたが、もうかなり前の話である。期待していた情報は得られなかった。

 黒い窓の向こうには、まだひしひしと何かがいる気配がする。


 ぴ 

   し


 事務所の書類棚。そのガラスにヒビが入る。

 どずん、どずんと外で大きなものが動く音がして、テーブルの上の茶、その表面が揺れる。


 窓に貼った札の端が少し黒ずんでいく。


「待て待て待て待て。あり得んぞ」

「あの時と、あの時と同じ……!」

「ちょっと琴科さぁん! なんとかできなかったら唯一の取柄がなくなっちゃいますよぉ!」


 揺れは徐々に大きくなる。


「結界が、内側から壊れて――!? 何か、何か見落としがあるのか……!?」


 やがて、ぴたりと音はやむ。


 テーブルの向こう側。琴科と津根居の姿を、老男性は見る。


 津根居が、棒立ちになっていた。


 無表情、無言。さきほどまで喜怒哀楽をこれでもかと振りまいていた愛嬌の面影は欠片ほどもなく。


 ただ、虚空を見つめて立っていた。


 「津根居……? おい、どうした津根居」


 琴科の問いかけにも、何も反応しない。

 ややあってから、こぽり、こぽりと喉から何かが漏れるようなくぐもった音が聞こえてきた。


 徐々にその音は大きくなり、それが一つの言葉になっていることに老男性は気づく。


    ぼ


  ぼう


     あそぼう


【あそぼう】【あそぼ】【あそそそぼぼう】


 琴科にもはっきりとその言葉が聞き取れるほどの音量になった時、津根居の体がびくりと震えた。


 菓子の包み袋を開けるように、津根居の頭からびりびり、ばりばりと体が破れていく。


 包みの中に居たのは、人型の赤い何か。

 のっぺりとしたその人型の塊には、顔がなかった。


「津根――ィ――ォ――」


 琴科が彼女の名を呼ぼうとしたが、途中でそれはただの音へと成り下がる。


 耳や目からどろりと血が流れ、そのまま力なく、糸の切れた人形のように床に倒れた。琴科が倒れたそばには、津根居の残骸が脱ぎ捨てられた服のようにくしゃくしゃに折り重なっている。


 窓に貼られていた札はいつのまにか真っ黒に染まっており、部屋全体が赤い絵筆を溶いた水のように重たく、どろりと暗く染まっていくのが老男性には分かった。


 頭の中で、ずっと同じ言葉が繰り返し響いている。


 老男性は静かに目を閉じた。それは諦観からくるものだった。私は死ぬのだなと心の中で唱える。

 目の前でこと切れた霊能者の言葉を思い出していた。


 貼った札は、外側と内側を分ける。

 境界線を引くようなものだったのだろう。


 ただ、琴科の誤算は、外と内の双方に、人にあらざるものがいたことにある。

 今となってはそれに気が付くことはできないし、たとえ土壇場であっても無理だっただろう。


 津根居は、人ではない


 津根居は、怪異ではない


 津根居に、悪意はない


 津根居は、ただそこにある



 私は死ぬのだなと、老男性はもう一度心の中で繰り返す。

 不思議と、恐怖はなかった。なぜだかは分からなかったが、死に怯えずに済むことはとても有難かった。



 赤い塊が近づいてくる。


 聞こえる言葉が大きくなっていく。


 押しつぶされるような気配の中で、老男性の意識は徐々に薄れて。

 

 そして


 ソファに深く座ったまま、老男性はその生を終えた。


 怪異は静まり、そこにはしんと静かな空間と、二つの死体だけがあった。

 テーブルに置かれた湯呑、注がれた茶には、ゆらゆらと茶柱が立っていた。


 ○ ○ ○


 後日。

 ネットニュースの片隅に、この変死事件は掲載された。

 男性二名の不審死とだけ書かれ、そこには背景も人物像も何もない、無機質な情報だけが置かれていた。




 津根居は、人ではない


 津根居は、怪異ではない


 津根居に、悪意はない


 津根居は、ただそこにある


 津根居は、己を呼び水として怪異をひきつける




 ――津根居を、知ってはいけない

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つねいさんのこと 三衣 千月 @mitsui_10goodman

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