1987/10/25 N県Y山 個人所有ペンション
合宿に最高のロケーションを用意してやる。そう宣言したのは、
大学の写真サークル内で最も社交的の高い人物であり、それに反比例して写真の知識が乏しい人物でもあった。ただこれはサークル活動に対して不真面目であることを意味せず、「下手なのは自覚しているが写真は好きだ。文句はあるか」とからりと言ってのける不遜さで、サークル内で一目置かれる存在でもあった。
「と、言うわけで。Y山にあるペンションを期間限定で手に入れた。秋の野山! 自然との触れ合い! これ以上の立地もあるまい。さぁ、全員、俺に感謝を」
「桐吾さん、いろいろ聞きた……いや、別に聞いてもどうせ無駄かァ」
両手を広げて賞賛を受け取る姿勢で固まっている桐吾に対して、サークルメンバーの一人である
サークル内で最も藤村に振り回されている大学2年生。ちなみに藤村は留年込みの5年生である。
「無駄だとも。もうこれは決定事項なのだからな! ちなみに、現地までの運転は任せたぞ梅田ぁ!」
「うへぇ、Y山って遠くないすか、藤村先輩。あんた何で免許持ってないんだよ」
「俺にも分からん。仮免試験でいつも教員が泣き出してしまうのだ」
「分かったっす。金輪際ハンドル握っちゃダメすよ」
「なぜだ!! 学科は常に満点だというのに!!」
後輩の一人である梅田は、桜坂と目を合わせて同時にため息をつく。桜坂と同じ大学2年生である彼は、4人しかいない写真サークルの中で唯一運転免許を持っていた。
サークルの移動はもっぱら彼の持つ車だったが、燃料費、および移動費はいつも藤村が出しており、移動後の車内清掃を率先して行うなど、そのあたりの気遣いの細やかさが不遜な物言いの藤村を憎めない理由でもあった。
「梅田くん、桐吾さんに常識は通用しないよ」
「知ってた。通用してほしいとは思ってるけどね」
梅田が窓の外に目をやれば、ちょうど一枚、赤く染まったモミジの葉が落ちた。山での合宿であれば、季節も相まって厚手の服を持っていく必要があるだろうと考えるが、それよりも気になることが、彼にはあった。
「藤村先輩。合宿には、全員で行くんすか?」
「当然だとも。メンバー4人、欠けることなく出陣だ。帰ってくるまでが合宿だからな! 気を引き締めて行くぞ」
「へいへい」
「よかったね、梅田くん」
「うるせ」
サークルメンバー4人、もう一人はこの場にはいないが、梅田が密かに好意を寄せている先輩だった。
〇 〇 〇
合宿当日のメンバーの迎えを任された梅田は、車を運転して秋風の中を走っていた。カーラジオからは流行りの曲が聞こえてくる。
藤村が待ち合わせに指定した場所には、すでに梅田の憧れの先輩が立っていた。
車を寄せて、キャリーケースをトランクに乗せるために手を貸す。
「すごい大荷物すね。
「ふっふーん。美少女は合宿荷物にも手を抜かないんだよ」
「ハタチ越えて……美少女?」
「おおっと何か聞こえたかなぁ。美少女の顔も三度までって言うんだけどなぁ」
「おす。津根居先輩は美少女っす」
「よーろーしーい」
屈託なく笑って、津根居は助手席に乗り込む。それで、と前置きして合宿の内容を説明するように梅田に求めた。
「Y山だっけ? 期間限定のペンションってどういうことなの」
「藤村先輩の家、不動産屋じゃないすか。買い取った物件を売りに出す前に少しだけ使っていいってことらしいっすよ」
「なるほど。補修箇所なんかもついでに見てこいってことね」
「さすが美少女。鋭い」
津根居が車の窓を開けるためにウインドウハンドルを回す。吹き込んできた秋風が、彼女の長い髪をさらりと揺らす。
横目で彼女をちらりと見た梅田は、少し照れた様子でもう一度ハンドルを握りなおした。
「藤村先輩と桜坂さん、もうS駅に着いてますかね」
「私鉄じゃなくて国鉄の方だよね」
「そうすよ。間違えないようにって5回も言われましたから」
「藤村君が待ち合わせに遅れたことはないから、多分来てるよ」
「ほんと、発言は豪放な割りに行動は真面目なんすよね」
「そこが藤村君のいいところだからね」
駅前のロータリーに入ると、梅田の車を見つけて手を振る藤村の姿があった。首から下げたカメラは遠目に見てもそれなりの代物だとわかる。
「あ、ほら、やっぱりいる。涼子ちゃんと一緒だ」
「まあ、想定範囲内っすね」
藤村と桜坂は荷物をトランクに入れると、後部座席に並んで座った。
首から提げていたカメラは、やはり値の張るものだった。
「出迎えご苦労! ドライブデートは堪能したか梅田!」
「開口一番デリカシーのない先輩っすね!」
「いぇーい、わたしは楽しかったよー!」
「ちょ、津根居先輩……」
「それは
「藤村先輩、そのライカ……M4じゃないすか。えらく
「うむ。父のものを拝借してきた。しかしな梅田!! 今回はそれだけじゃないぞ!」
その言葉に合わせるように、桜坂が手鞄の中から小さなカメラを取り出した。それは、このところ発売されたばかりの、珍しいカメラで、誰でも気軽に写真が撮れるという触れ込みのものだった。
「へぇ、最近よくコマーシャルしてるやつだ。写ルンです、だっけ」
「その通りだ津根居。絞りも、ピント合わせもいらない優れものだぞ」
梅田は面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らす。
「何言ってんすか先輩。ピント合わせがいらないんじゃなくて出来ないんでしょ。馬鹿チョンカメラっすよ」
「はっはっは! まだまだ未熟だな梅田! 汝、弘法たれ。筆を選ばぬ男になった方がいいぞ」
「そうだよ梅田くん。現像の出来がどれだけ違うかも知りたくて。わたしから桐吾さんに持っていこうって提案したんだよ」
「ふぅん。そんなら仕方ない。フィルムカメラと天と地ほどの差があるってことを証明しましょうかね」
サークルメンバー内で最も写真の腕前が良いのは、間違いなく梅田だった。いくつか賞も取ったことがあり、それだけにカメラに対しては拘りのある男だった。
〇 〇 〇
4人を乗せた車は、数時間のドライブの末、Y山の中腹にぽつんと建つペンションにたどり着いた。
途中からは車線も何もない山道になり、ぐねぐねと曲がる道は藤村を車酔いに叩き落とし、酔い止めの薬と水で甲斐甲斐しく桜坂が世話をする羽目になった。
ペンションは小ぎれいな外装をしており、滞在するに申し分ないように思われた。全員が車から降りて荷物を運ぼうとする中「ぐべぇ」と潰れた蛙のような音を立てて、近くの茂みに向かって藤村が吐いていた。
車からキーを抜いた梅田は少し考えてから自分のズボンにそれを突っ込んだ。どうせ運転できるのは自分だけだし、こんな山奥で用心も何もない。差しっぱなしにしておこうかと思ったが、さすがに不用心がすぎると思ったのだ。
「藤村君はしばらくあのままだろうし、先に入っちゃおう。涼子ちゃんとわたしは寝室に使える部屋を選ぶから、水回りと台所の具合見てくれる?」
「任せてください、津根居先輩。先に外のプロパン見てくるっすよ」
ここに来るまでの道中、藤村から聞いていた状況と照らし合わせて確認していく。ガス管その他に異常はなさそうだった。ペンション内に入り、台所を見回す。
水は沢から引き込んでいるという話だったが、最後にこのペンションが使われたのが半年ほど前だということもあり、しばらく水道の栓を開けておいた方がよいと判断した。
「……あれ?」
最初くらいは錆びた水が出てくるだろうと踏んでいたが、予想に反してきれいなものだった。
背後に、のそりと藤村が現れ、げっそりとした顔で梅田を恨めしそうに睨んでいる。
「うぅ、ひどい運転だった。梅田、水をくれないか」
「藤村先輩が酔いやすいだけすよ。あ、山水を引いてるんで沸かしてからじゃないとダメすよ。ちょっと待っててください」
「頼む。電気は少し前に引いたから冷蔵庫も使えるはずだ。持ってきた食材はあとで俺が入れておこう」
それだけを言い残して、藤村はリビングに消えた。
ペンションは一階部分に生活空間、二階に客室がいくつか用意されたつくりをしており、トイレだけは一階と二階の両方にあるが風呂は一階にのみあった。
沸かした水を適当なコップに入れて梅田がリビングに行けば、ちょうど津根居と桜坂も二階から降りてきたところだった。
「桐吾さん。思っていたより部屋がきれいでしたが、事前に清掃していたんですか」
「はて、俺は知らんぞ。親父が気を利かせてくれたのかも知れん」
ぐでんとソファから顔だけを倒して答える藤村の姿を、津根居が持っていたインスタントカメラでぱちりと撮る。
「あ、おい津根居。こんな気の抜けた姿を取らなくてもいいだろう」
「いぇーい。サッと撮れるのは、便利かも」
「ははぁ、なるほど。そういう使い方なら、一眼や二眼にない利点かも知れないっすね」
感心したように梅田が言う。カメラに対しての矜持はあるが、それだけにカメラの可能性が広がることへの興味がわずかに勝った。
津根居からインスタントカメラを受け取り、並んでいる彼女と桜坂を写した。
「ほんとに手軽なんだね。梅田くん、わたしも撮っていい?」
「ああ、いいよ。どうぞ。インスタントって言うだけはあるな。スナップショットにはいい」
「おうい、梅田ぁ。水をくれ、早く。俺はないがしろにされたら泣くぞ」
「はいはい。ところで、到着したことは連絡しないんすか」
「あー、電話は無い。前のペンションの持ち主が電電公社に返した」
「確かにレンタルが当たり前か。電話機買い取れる金持ちならペンション手放したりもしないっすからね」
リビングの隅には、電話台として使われていたであろう洒落た収納台がぽつんと置かれていた。
電話機がないということは、外界との通信手段が無いことを意味する。山中にひっそりと建つペンション。周囲に民家もなく、来るまでの山道に公衆電話もなかったことは、メンバー全員が認識していた。
「藤村君ってば古いなぁ、名前変わったじゃん。電電公社。去年くらいに」
「おぁー、そういえばそうだったな。ええと、何だったか」
そう言われて、津根居が人差し指でトントンと鼻の頭をたたいて考え込む。
「えーと、あれだ、NTTだよ」
「おお、さすが津根居だ。覚えにくくてかなわんな」
「だよねー。ま、二泊の予定っては伝えてあるんでしょ。じゃあいいんじゃない? 別に。それよりみんなで写真撮ろうよ写真! 梅田くんよろしくね!」
「任せてくださいっす。AEやオートフォーカスなんて甘えですよ」
荷物の中から古びた一眼を取り出し、光の具合いなどを確認して全員が入るようにセルフタイマーで撮影する。
俺にも撮らせろと藤村が自前のライカを構えるが、絞りの設定をちらりと覗き見た梅田は「それピンぼけしてるっすよ」と指摘した。黙ってピンぼけしていろとの藤村の返答に、思わずリビングは笑いに包まれた。
現像は帰ってからになることだけが梅田にとって不満だった。
初日の夕食は、用意する時間もあまりなかったこともあり、荷物として持ってきていた即席のカップ麺で済ませることにした。
電子レンジがあればよかったのにと頬を膨らませる津根居に対して、そんなハイカラなものがあるかと藤村は笑って答えていた。
しばらく歓談の後。
ペンションの外にある湯沸かし場。薪で風呂を沸かしながら梅田は文句を述べる。
「ちょっと古くないすか。薪炊き式なんて」
「仕方ないだろう。ここは新しくしたいと親父も言っていたからな。まあ火加減は任せろ。薪炊きについては一家言あるのでな」
「写真は下ッ手くそなくせに」
「先輩に対する敬意の足りないヤツだな。さては薪炊きしながら津根居の風呂でも覗くつもりだったか?」
「どこまでもデリカシーのない……。なんだって桜坂はこんなのと付き合ってるんだか」
「そりゃあお前、俺の魅力といったら世界でも有数の――」
――きゃああぁぁぁぁぁ!!!!
軽口をたたき合う男二人の応酬を遮るように、ペンションの中から絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
「涼子ッ!?」
「な、なんだぁ!?」
すぐさま藤村が駆け出し、少し遅れて梅田もそれを追った。
裏口からペンションに繋がる脱衣所に入ろうとしたところで、外に飛び出してきた桜坂と鉢合わせる。
「何があった!」
「桐吾さん! つ、津根居先輩が……!!」
涙を浮かべて藤村に縋り、ようやくそれだけ口にする。
「藤村先輩はそこで待っててください」
進もうとする藤村を手で制して、梅田は一人で確認のためにペンション内に入る。桜坂を落ち着かせる役目を彼に任せた方がよいと判断したからだ。
じゃり、と音がしたことで、自分が靴を履いたまま建物に入っていたことに気付いた。泥が廊下についている。だが、それよりも何が起こったのかを確認する方が先だとそのまま進んでいった。
○ ○ ○
リビングに津根居の姿はない。
繋がっている台所にも人の気配はない。
「……2階か」
ゆっくり、階段を上がる。客室がいくつか並び、その一部屋の洋扉が開け放たれていた。
無意識に浅くなっていた呼吸を無理やり整えようと息を大きく吐く。そして吸う。
鼻につく異臭。嫌悪感を抱かせるに充分な、生ぬるい鉄錆の匂い。
嫌な予感がする。微かに震える手を押さえつけて、廊下の手すりを強く握りながら開いている部屋の中を覗く。
そこには。
一面の。
赤黒い染み。
それが血の海であることに気が付くのに数秒。部屋の中で倒れている津根居がその原因であることを理解するのにさらに数秒。
理解した瞬間、喉の奥から叫び声が湧き上がってきた。
「うわぁぁぁぁあああぁぁぁぁあ!!!!!」
階下、ペンションの裏口から異変を察知した藤村の怒号が聞こえる。
「どうした梅田ぁ!! 大丈夫かぁ!!!」
「し、死ん、津根居先輩が……!」
声をひねり出し、なんとか答え。
ごとり。
ごそ
がたん
部屋の奥、戸の向こうで音がする。
この部屋に来るまで、階段や廊下には血の一滴もついていなかった。誰か、
部屋からなんの痕跡もなく出ていけるはずもない。
それは、津根居を殺した何かが
部屋の奥にある戸を注視しながら、梅田は一歩下がる。吐き気と共にせりあがる声を無理やり飲み込んだ。
――逃げ、ないと……。
「何があった梅田ぁ!!」
階段を駆け上がってくる藤村の足音。
「ダメっす藤村先輩!! 部屋に誰か――」
「ヴォォォォオオオアアアアアアァァァ!!!!」
戸から注意を逸らしたその一瞬。咆哮と共に、部屋の奥から飛び出してくる何者かが梅田に襲い掛かった。
手には斧。ぬらりと赤黒く、鈍く光る。咄嗟に部屋の洋扉を閉めるが、扉には激しく斧が打ち付けられた。
「ガァァァアアアア!!! ヴァアア!!!!」
走ってきた藤村と共に必死で扉を押さえる。斧の音は激しさを増し、破片が散る音が響く。
「いったい何が起こっている!!!」
「分かるわけないでしょうが!!」
不意に破壊音が止み、その後、窓を割る音が聞こえ次いで何かの落下音、そして遠ざかっていく怪人の咆哮が遠吠えのように響いてやがて聞こえなくなった。
荒い呼吸を抑え、震える手を壁に打ち付ける。
「なんだ、なんだよあれ……!」
「梅田! 津根居は……!」
藤村の問いかけに、梅田は首を横に振る。
「……死んでます」
「な……!? て、手当を急げば何とか――」
「何とかなる状態じゃねえよあんなのッッ!!!」
藤村は現場を見ていないのだから、可能性を挙げるのも無理はない。一面の血の海と潰された津根居の四肢を見てしまっていた梅田は、万に一つなどないことを否応なしに理解してしまっていた。
「……すんません。とにかく、ぐちゃぐちゃで。見ない方がいいっす」
「なんということだ……。と、とにかくリビングで固まろう。下にいる涼子を放っておくわけにもいかん」
へたり込み、頷く梅田。総身の気が抜けてしまい、立つ力が残っていなかったので、藤村は肩を貸してやった。
梅田はリビングにあるソファにどさりと体を投げ出し、テーブルの椅子には藤村と桜坂が寄り添って座っている。
「聞いてないっすよ、藤村先輩。こんなことになるなんて」
「……すまん。ここを合宿地に選んだ俺の責任だ」
「ちょっと梅田君」
「ごめん、桜坂さん。ちょっと気が動転してる。別に藤村先輩が悪くないのは、わかってる。だけどさ――」
沈黙。
壁の時計の秒針だけが、がちがちとうるさい。
「……逃げよう。一刻も早く。山を下りて警察に知らせねばならん」
「津根居先輩を、あのままにしてっすか?」
「お前たちまでどうにかさせるわけにはいかん」
「めちゃくちゃ正論っすね……気持ちが追い付かないってとこだけ問題っす」
気を緩めれば、悪態をついてしまいそうになる。分かっているのだ。藤村に何の責もないことは。それでも、梅田は想い人が惨殺された現場を見て冷静でいられるような人間ではなかった。
「頭では、もちろん分かってます。逃げた方がいい。逃げなきゃいけない。どう考えたって、大学生風情の手に負える状況じゃあないっすよ」
ソファに仰向けになり、腕で顔を隠しながら、梅田の声が徐々に怒りに震える。
「でも。なんで。どうして……っ! 津根居先輩が殺されなきゃならない理由なんて、これぽっちもなかったじゃないっすか!!!!!」
理不尽を受け入れる準備など、彼らにはなかった。
だがそれでも。一度しずしずと降り始めたそれは、止むことを知らない。
――ぶづんッ
ペンションの照明が一気に落ちる。
「きゃああああぁぁ!!」
「涼子! 俺から離れるなよ!」
ガシャン! ガシャン!! と窓が割られていく。戻ってきたのだ。津根居を斬り殺した殺人鬼が。
「送電盤を壊しやがったのか……? くそっ」
「四の五の言っておれん! 急いで逃げるぞ!!」
残った三人を仕留めようと、暗闇に乗じてペンションに侵入してきた殺人鬼は、のそりと入り口付近を彷徨っている。
電池式の非常灯だけがうっすらと廊下の端と玄関先を照らし、黒い人影だけをそこに表していた。
三人は風呂の釜焚き用の裏口から逃げようと静かに移動する。ほぼ照明のない中を、息を殺して進む。
足音を立てないように。
互いの息遣いだけが聞こえる距離で。
裏口は脱衣所を抜けた先にある。脱衣所の引き戸を開けた瞬間、蒸気による熱が彼らにまとわりつく。
「熱っ……!」
風呂炊きの途中で事件が起こったことを、梅田と藤村は失念していた。沸騰直前まで沸かされた風呂釜がぼこりぼこりと泡を吐いているのが音で分かった。
へばりついた蒸気が水滴となって落ちる。
「ここを抜ければ外だ。車までは駆けるぞ。車のキーは……」
「持ってるっすよ」
藤村と桜坂が頷いた気配が伝わる。
脱出の希望が見えた。けれど。
「ヴォォァァァァ!!!!」
殺人鬼が叫びながらペンション内を進んでくる。
「気づかれたか! 走――」
「ガァァァァウァァァ!!!!!」
引き戸がバキバキと粉砕され、殺意の気配がすぐそこに迫る中で、梅田が浴室のドアを開ける。
「何をしている!! 外はこっちの戸だぞ!!」
「うおぁぁああああっ!!!」
藤村の言葉をよそに、煮立った湯を桶で殺人鬼に向かって浴びせた。足止めのためだとか、逃げる時間を稼ぐためといった打算に基づく行動ではなかった。
そこに、一矢報いることのできるものがある。そう思えば、知らず体が動いていた。
「ギィィアアアァァァア!! グ、ギィッ……!!」
「梅田、お前!」
「……くそったれ!!!!!」
苦悶する殺人鬼に捨て台詞を吐き、一足先に外に出た藤村と桜坂を追う梅田。
「ヴォアアアァァァァァ!!!」
ひと際大きな怒号と共に、殺人鬼が手に持っていた斧を投げる。それは、三人のうち最後尾を走っていた梅田の背に刃を立てた。
「ぎゃあッ!!」
「大丈夫か梅田!! どうした!」
暗闇。
背後で何が起こっているのか、藤村には知る由もない。
重たい足音をさせて追いかけていた殺人鬼は、倒れている梅田の足を掴んで引きずる。背から斧を引き抜けばどろりと血がこぼれる音がした。
万力で絞められたように足首が握られる。肉の軋む音がする。
「ぐあああぁぁあ!!」
梅田は力を振り絞ってズボンから車のキーを取り出して藤田の声がした方に投げた。
「逃げて……逃げてください!!」
「梅田ァァァ!!!」
「梅田くん!!」
「いいから逃げろ! 早く!!」
そのまま引きずられて裏口からペンションに。
灼けるような背の痛みに息を荒くしながら抵抗を続ける梅田を、殺人鬼は浴室にまで連れてきた。
目の前には、煮立った浴槽。
ごぼり
ごぼりと
地獄の釜のような音を立てている。
「ヴァァァァ、オオォォ!!」
「お前、まさか……! くそ、やめろ! やめろぉ!!」
どぶん
足首を持って高く持ち上げ、頭から落とす。
激しい水音はすれど、叫び声はない。
肺に流れ込んだ熱湯が梅田の声と命を奪った。
どくどくと背から零れた血液。殺意で作られた血の池地獄はしかし、暗闇の中に潜むのみだった。
藤村と桜坂は、梅田が最期に投げてよこしたキーを探していた。
「桐吾さん、無い!! 車のキーがどこにも……!!」
「必ず見つける! 絶対に大丈夫だ!!」
暗闇とはいえ屋外。星明りでようやく少しは目が慣れてきたのでまったく動けないわけではなかったが、どこかに落ちた鍵を探すには心許なかった。
必死で地面に目を向け、桜坂が鍵を見つける。
「あった! 桐吾さん! あった!!」
「よし、走れ!!」
一瞬の歓喜すらも許さぬと、殺人鬼が再び裏口から姿を現す。
「ヴァァァアア"ア"ア"ァァァ!!!」
二人は必死にペンションの表に停めてある車へと走る。
殺人鬼の叫び声を背に、後ろを振り向かず一心に。
徐々に殺意の気配が近づいてきていることは分かっていた。それでも、ただ唯一の脱出の希望しか、藤村と桜坂には映っていなかった。
乱暴に車の鍵を開け、藤村は運転席に、桜坂はそのうしろの後部座席に滑り込む。
直後に、車体を揺らす衝撃。
窓ガラスの割れる音。
短く、鋭く上がり、直後に途絶える悲鳴。
何かが捩じ切れる音。
バックミラーに映った、首のない桜坂の体。
赤黒く染まった殺人鬼の腕が、桜坂の首があったはずの場所で強く握られていた。
「涼子----ッ!!」
絶叫と共に、藤村はギアをバックに入れる。振り落とされて体勢を崩した殺人鬼を車の前方に見据え、ハイビームを容赦なく浴びせた。
照らされた殺人鬼は、黒い外套を纏って、顔までもしっかりと隠していた。まるで西洋の死神のようなその出で立ちにも、藤村は怯まなかった。
「うおおおぉぉぉ!!」
アクセルを力任せに踏み込み、殺人鬼に向かって突撃する。
「貴様、よくも!! よくも……ッ!!」
どごん、と衝撃が車を揺らしても、アクセルから足は離さない。ボンネット上の殺人鬼はそれでも依然動きが鈍くなることはなく、運転席目がけて斧を振り下ろした。
肩口から胸にかけて、ずぞり、と刃が食い込む。割れたフロントガラスの破片が藤村の体のあちこちに刺さった。
「ぐ、あ、がぁぁ! これしき、これしきぃっ……!」
怒りに任せて、さらにアクセルを踏む。
「貴様も道連れだ……!! 仮免試験ではどの教員も逃げてしまったが……お前は逃げてくれるなよ!!!」
曲がりくねった山道。ガードレールの外は谷。
殺人鬼と藤村と、桜坂だったものを乗せた車は、急カーブを曲がることなく。
ガードレールを突き破って谷底へと落下し、そのまま炎に包まれた。
○ ○ ○
後日の警察の捜査で、事件を起こした人物はペンションの前オーナーだったことが判明。騙されて物件を奪われたことの怨恨が動機だったと報道された。
事件の死傷者は4名。
ペンションに来ていた写真サークルの学生3名。死因も公開された。ペンション内の学生1人は溺死、車中から見つかった2名に関しては頭部損傷、および焼死。
そして、犯人でもある車外に倒れていたペンションの前オーナーについては焼死と記録されている。
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