つねいさんのこと

三衣 千月

2002/07/19 S市駅郊外 公共団地跡


 開け放した教室の窓。蝉の鳴き声がカーテンを揺らす。

 声はすれども姿は見えぬ蝉の姿に、山下はささやかないらつきを覚えた。肘をついて授業を聞いているふりをしてはいるが、この暑さでは集中できようはずもない。


 流れていく世界史の授業の内容は、おそらく定期テストに出てくるのだろう。真面目な生徒であれば教師の言葉を一言一句あやまたず書き写すに違いなく、進学コースに属している山下のクラスメイトたちはほぼ、真面目に黒板とノートの間で視線を忙しそうに往復させていた。


 山下の視界の中でただ一人、津根居つねいを除いて。

 彼女は、微動だにしていなかった。


 クラスの中でも明るく、よく他のクラスメイトと笑っているのを山下は知っていたが、それだけに置物のようにじっと動かない津根居の姿は異様に感じられた。


 いつの間にか、蝉の声が止んでいる。黒板を前にして授業を続ける教師の声が遠い。彼女の普段のイメージとかけ離れた姿に、山下は思わず津根居から視線を外せずにいた。

 考えてみれば勝手な話ではある。クラスメイトとはいえ録に話をしたこともない相手だ。そのくせ表面だけを薄くなぞって快活なイメージを持っていたことに山下は自己嫌悪すら感じてしまう。


 音が遠くなった世界で、津根居が静かに振り向こうとして――


 突如響いた終業のチャイムに山下の肩がびくりと跳ねる。今日はここまでと言い残して教師が去り、教室内はにわかに騒がしくなった。津根居もひょいと立ち上がって他の女子と談笑を始めた。その雰囲気は、山下が勝手に抱いていた気さくな彼女のイメージそのものだった。


「……なんだよ今の」


 夏の暑さのせいだろうと勝手に結論付け、ため息をついて窓の外を眺めた。


 〇 〇 〇


 夕方になっても暑さは緩むことがない。

 部活動をしていない山下は、特に放課後を共に過ごすような仲のいい友人もいなかった。進学コースである自分の存在意義を保つため、せめてもの抵抗を試みて図書室で自習をして日が暮れるのを待ったが、実のところ気温が高い中で帰宅することが嫌なだけだった。


 まだ、蝉がうるさく鳴いている。

 不真面目な山下よりも、蝉のほうがよほど勤勉な態度だった。


 図書室を出て階段を降りようとしたところで、急に声がかけられる。


「ねぇ、山下くん! ちょっといい?」

「……津根居、さん?」

「なんでちょっと疑問形なのよぅ。クラスメイトなのに」


 ころころと笑いながら彼女は言う。

 山下はバツが悪そうに視線をそらしてカバンをぐいと持ち直した。


「そ、それで津根居さん。何か用?」


 津根居は、いわばスクールカースト上位の存在で。自分には接点も無ければ用事もないはずだと山下は強く思う。

 彼女の次の台詞を待ちながら、顔を横に向けたままちらりと彼女を覗き見る。


「山下くんってさぁ、怖いの平気だよね?」

「なに、いきなり」


 山下が顔をしかめる。不信感を正直に顔に出しているのは、心の底からそう思っているからに他ならない。

 確かにホラー映画や心霊ジャンルの本などを好んではいるが、それを対外的に開示した記憶はなかった。つまりプライベートを覗かれたような不快感だと言い換えてもいい。


「ちょちょ、ちょっと待って! ごめん、言葉間違えた! えっと、説明するから! ね、お願い! ぎぶみーチャンス!!」

「まぁ、いいけど」

「そうだよね! わたしみたいな美少女の頼みなら、ミス3回までは許されるよね!?」

「ごめん、おれ仏じゃないから1回しか許さないよ」

「そんなぁー」


 不満そうな顔をする津根居。表情がコロコロ変わって、つくづく自分とは違う存在なのだなと山下は思う。


 彼女の説明を要約すると、クラスメイトとホラーの話題で盛り上がった末に、勢いに任せて自分一人で肝試しをしてくると啖呵を切ったらしい。

 そこまでを大袈裟な身振り手振りを交えて説明してくれた。彼女がぴょこぴょこと動くたびに、慣れない良い匂いが鼻先を掠めるのでどうにも落ち着かなかった。


「おれに話しかける理由、今のところ無かったと思うんだけど」

「冷たくなぁい!? ユーアー、マイ、クラスメイト! あんだすたん!?」

「Even though it is true, we're not in good society.(それはそうだけど、そこまでの仲でもないよね別に)」

「ごめん、日本語でよろしく」

「帰る」

「んぬぁー!! ごめんってぇー! 待って助けて山下くーん!!」


 進学コースならこれくらい分かるだろうに、と山下はため息をつく。大げさにリアクションを取られることに戸惑いはしたが、何よりもそれをあまり不快に感じていない自分に驚いた。

 これがコミュニケーション強者と呼ばれる部類の人間なのかと納得もさせられた。


 話を深く聞けばとどのつまり、一緒に肝試しについてきてもらいたいと、そういう依頼だった。


「お願い! 肝試し、誰にも内緒でついてきて!」

「まぁ、確かに普段は接点がないから多少ズルしてもバレないだろうってことか」

「それもあるんだけどー」


 津根居は右手の人差し指でトントンと自分の鼻の頭をつつく。

 明るく咲くようなだった彼女の表情が、一瞬だけ真剣味を帯びた。それは授業中のあの微動だにしなかった時の彼女の雰囲気に似ていて。


 山下は思わず息を呑んだ。


「山下くんに声をかけた理由は、他にもちゃんとあるんだよね」

「なに?」

「今日の夜8時に、S市駅前のスタバで待ち合わせねっ!」

「は?」

「来てくれたら、本当の理由教えてあげる」

「はぁ?」

「それじゃあねー!! 来なかったら泣くからー!」

「はぁぁ!?」


 すぐさまいつもの明るい調子に戻り、流れるような所作で一方的に予定を構築しつつ、手を振りながら津根居は走り去る。

 山下はしばらくその場から動けず、ややもしてからようやく、彼女の残り香を払うように首を左右に振った。


 日が傾いで校舎が茜色に染まる中、変わらず蝉の声がうるさく、カバンを持っていた手がじっとりと汗ばんでいた。


 ◯ ◯ ◯


 葛藤は、あった。

 自分がからかわれているのかも知れないという可能性は、どこまでも山下の思考の下敷きにあった。


 もし、待ち合わせの場所に行ったとして。

 それが自分に向けて仕掛けられたドッキリで、本当に来やがったぞと周りからぞろ、対して仲の良くないクラスメイトが湧いてくる可能性は捨てきれなかった。


 事実、過去に似たようなことがあったのだから。逃げるように県外の私立進学校に入学し、人との関わりを避けている原因がそこにあった。

 その心的外傷トラウマを思えば、待ち合わせの場所に行くという選択肢は山下には無いはずだった。


 その、はずだった。

 どうしても、授業中に見た彼女の、静かな沼のようなあの雰囲気が忘れられなかった。


 7時48分。家を出る時には微かに山の端が濃い紫色をしていたが、S市駅前に到着した今は、夜空の色に塗りつぶされて山の輪郭は見えない。


 天を仰いでみても、山下の視界に星は見えなかった。


「まぁ、郊外とはいえ駅前は明るいからな……」


 独り言を空中に溶かして、スタバの店内を覗きみる。郊外の都市ということもあって、さほど混雑している風でもなかった。

 山下が店内にいる彼女を見つけたのと、勢いよく彼女の手がぶんぶんと振られたのが同時だった。


 店内に入る。席には、ドリンクが2つ。

 山下の背に冷たいものが走った。呼吸が浅くなる。


「来てくれるって信じてたよぉぉ! 山下くぅん!!」

「他にも誰か、いる、の?」

「なんで? これ、君の分のフラペチーノだよ。ささやかながらわたしのお・ご・り」


 指を左右に振って芝居がかった様子で席へ促す津根居。

 過去の心的外傷が再来しなかった安堵のため息を、山下は盛大にこぼす。同時に、疑ってしまったことの罪悪感を静かに抱えて席についた。


「何で勝手に注文を……。おれが来なかったらどうするつもりだったんだよ」

「そりゃあ、泣きながらわたしが2つとも食べてましたが?」

「津根居さん、よく変だって言われるでしょ」

「あ、笑った。山下くん笑った。わたしも変だけど、きみもそれなりに変だからね?」

「どこがだよ。ただの友達のいない陰キャだよ、おれ」


 彼女は両手の人差し指を立てて、鬼の角のように構えて言った。


「違いますー。きみは友達を作ろうとしてないだけですー」

「別に……いらないよ。友達なんてさ」

「残念でしたー! すでにわたし イズ ユアフレンドなので孤独男子路線は諦めてくださいー」


 ──どうして、そこまで構うんだよ。


「どうして、そこまで構うんだよ。メリットなんかないだろ?」


 その山下の問に、返答は無かった。

 代わりに、微笑みだけを彼女は返す。


 思わず、直視できずに目を逸らす。

 動揺を隠し、言い捨てるように山下は言葉を続けた。


「ま、まあ、肝試しの気休め役くらいのメリットはあるか。そうだよな」

「そーだね。今はそれでいいや」

「も、目的地はアレだろ。S市のはずれの公営団地跡だろ」

「へぇ。山下くん、マイナーな心霊スポットなのによく知ってるね」

「結構有名だと思うけど」


 あまり長話をしていては帰りの電車がなくなると気づき、二人はそそくさと飲みかけのフラペチーノを持って店を出た。


 蒸されるような暑さが体に纏わりついてくるように感じられるのは、店内の冷房が強かったためだろう。

 改めて山下は津根居を見る。軽装という言葉がとてもマッチするであろう、ジーンズにTシャツという特徴のない服装だった。山下も同じくで、二人の服装の差異はシャツの色味くらいのものだった。


 公営団地跡は、経済成長のさなかにS市駅から少し離れた場所に建設されたものだが、近隣の土地開発の遅れや誘致企業の撤退による市の内政資金減など様々な要因により団地内の過疎化が進み、いまでは住む者のない廃墟と化している。

 もちろん、解体するだけの予算も、跡地を有効的に使うプランもなく、消極的な選択の結果として手つかずで残されている場所だった。


 団地と周囲の境目には、植え込みがすっかり枯れてしまったであろう場所に、申し訳程度に黄色と黒で塗られたガードフェンスが並べて置かれている。それらも錆付いたりつたが絡まっていたりと、役目を果たしている気配はない。


 敷地の目の前に来た二人は、あまりにもいかにもな風貌をしたその廃墟群を見て、どちらともなく足を止めた。

 団地の棟はいくつもあり、その間を抜ける風が低く唸りをあげている。


「ちょっと雰囲気アリすぎじゃない? ねぇ」

「そりゃあまあ、心霊スポットになるくらいだから。どうする? 逃げ帰るか?」


 津根居は苦悶の表情を浮かべながら「んー」とうめき、人差し指で鼻の頭をとんとんとつつく。


「むぅん。帰りたい半分、行くっていっちゃったからなぁ、の後悔半分ってとこかな」

「葛藤してるとこ悪いけど、行くなら急がないと帰りの電車がなくなるぞ」

「うう、行くかぁ……」


 人差し指でつつく動きは、学校でもしていたなと思い出し、彼女のクセなのだろうと山下は考えたが、ことさら、それを指摘するのも変だと目の前の暗がりに目を向けた。


 口数も、少なくなる。敷地内の街灯は、当然だが電気が通っておらず、津根居はスマートフォンのライトをつけて歩く先を照らした。風の音の他に、枯れ草が揺らされるざわざわとした音が二人を囲んでいた。

 そう言えば、と話題をひねり出すようにして山下は言う。


「おれにさ、声かけてきた本当の理由って何だったの?」

「え、うそ今それ聞くの? わたし怖すぎて冷静でいられないんだけど」


 彼女は覿面に震えていて、山下のTシャツの裾をしっかりと掴んで離そうとしなかった。


「だから逆に気晴らしになるかと思ったんだけど」

「なるかーぼけーあほー」

「語彙力まですっかり下がって……。分かった。帰りにまた聞くよ。あ、ところで肝試して何を証拠にすればいいんだ?」


 しゅぱ、っと無言でメモ用紙が差し出され、山下はそれを自分のスマートフォンのライトで照らして読んだ。


「ええと、なんだこれ。『4号棟、404号室、入室の手順』……?」


 こくこくと津根居が頷く。すでに涙目になっているので、できるだけ早く役目を果たして帰るのが良いだろうと思わせるに充分だった。


 メモにあったのは、怪談や肝試しを盛り上げるためによく使われる意図的な指示行程だった。

 恐怖というものは、『そこに無いはずのものがあるかもしれない』と感じた時に生まれる。目的もなく歩かせるよりは、注目するところを事前に作ってしまうのが恐怖をあおる良い演出になるのだから。


「へぇ、手が込んでる。ええと、まず4号棟の404号室前に行って、ドアをノックする、ねえ。ほかにも色々書いてあるけど……めんどくさそうだなこれ」

「しょ、正直、やらなくてもいいんじゃないかナァ、なんて思ってるんだけど、ど、どど、どうかな」


 震えた声で彼女が言う。

 確かに、指示の手順はショートカットしても何らかの形で証拠を残せればそれでいいような気もするんだよなと思いながらも、念のため最後まで目を通してみることにした。


 いつの間にか風がやんで辺りは静かに。

 メモが風に飛ばされる心配がなくなったことに山下は安堵した。隣から津根居の呼吸が聞こえてくるほど、辺りは静寂に包まれている。


 手順によれば、いくつかの棟の部屋を巡って、最終的に4号棟404号室に戻り、ドアが閉まっていることを確認するという指示だったので、もう404号室の最初の一回だけで施錠を確認して帰ろうという結論になった。


「ご丁寧に注意書きもあるぞ。ええと、手順を守らなかったら――」


 ガシャァァァァン!!!!


「ひゅぃっ!!!!」

「ッ!!?」


 何かが倒れたような音が敷地中に響いた。津根居が山下の腕にしがみつく。明らかに、彼女の体は恐怖で震えていた。

 心臓の鼓動が痛い。不意の大きな音に驚いて、二人とも無言のまま呼吸が浅く、速くなる。


 少しして、まだ自分の鼓動をうるさく感じながら山下は言った。


「たぶん風で……フェンスが倒れたんだろ。ごめん、正直めちゃくちゃびっくりした」

「わ、わた、わたしのほうが、うぐ、ビックリしたもん、ひぐっ、ばかー」

「どうする、帰るか?」


 津根居は無言で山下の腕を握りしめながら首を横に振った。そこまで肝試しにこだわる理由もないだろうと思ったが、説得するよりはさっさと事を済ませた方が早い。スマホの明かりだけを頼りに彼女を4号棟へ連れていく。


 団地にあるそれぞれの棟の構造は、ショッピングモールなどによくみられる回廊型で、荒れた中庭を囲むように建っていた。

 二人の足音が。階段を少しづつ登る二人のそれが、こつん、こつんと響く。埃っぽい手すりや壁に手をつく気にはなれなかった。


「……次が4階」


 津根居に向けて、というよりもどこか自分に向けて山下はつぶやく。


 部屋番号を確認するために、手近なドアに明かりを向ける。404号室は、回廊の逆側にあるようだった。


 静かに。


 音のない廊下を。


 風のないその空間を。


 かすかな明かりだけを頼りに。


 足音を立てないよう。


 息までも殺して。


 部屋へ。


 汗が頬を伝う。絡みつく夜の暑さからくるものか、恐怖と緊張からくる冷や汗か、明確な判断はできなかった。津根居と触れている右腕は、ひときわ熱を持っている。

 404号室の前まで来て、山下は息を呑む。開いているかどうか確認するためにドアノブに手をかけようとした瞬間、津根居がびくりと跳ねて「あっ」と短く呟く。山下もつられて肩を震わせる。


「わ、わたしが、開けた方が、いい、よね。ほ、ほら。しょ、証拠の動画も、撮らなきゃ」

「そ、そうだな。悪い。忘れてた」


 掴んでいた腕を放し、録画開始の短い電子音が響く。

 震えながら触れたドアノブを回す。ドアが開く気配は無い。施錠されている。


「し、閉まって……まーす」


 蚊の鳴くような声でそう実況する。録画を終えて、津根居は深く息を吐いた。


「だはぁー! よ、よし、これで何とか許してもらお!」

「頑張ったな。じゃあ帰るか」

「帰りも腕掴んでいい?」

「べつに、いいけどさ」


 悪い気は、別にしないんだよな。

 そう思い手を差し伸べようとした瞬間――


 ――ばつん


 4号棟の非常灯が一斉に暗緑の光を灯す。

 階段の踊り場、各階の廊下に2つ、3つずつ。非常口と書かれた、見慣れたオブジェクト。いま、この時において、点灯するはずがない・・・・・・・・・もの。


「――っ!!?」


 声も出ない津根居が、ひゅ、と喉を鳴らす。

 山下も同様だった。


 ぎぃぃ

    ぃ   ぃぃぃぃ

     ぃぃぃ    ぃ

             ぃぃ


 目前の404号室以外・・のドアが。

 ゆっくりと軋みながら開き。


 そして。


バタン    バタン!      バタン

  バタン!!  バタァン!! 


      バタン!!!        バタン


 遠くから順に、次々と閉まっていく。


    バタン!    バタン バタン!!!

 

  バタン!!      バタァン!!

   バタァァン!!!!  


 徐々に音は大きく。

 反響してさらに大きく。


 バタァァァァン!!


   バタァァン!!!!!!


「いやぁぁぁぁぁ!!!」

「な、なんだよこれ!!!!」


 404号室を残して、すべてのドアが閉じた。

 非常灯は、血のように赤黒く、その光を変えていた。


 ドアの向こう。

 気配がする・・・・・


 周囲は再び静寂に包まれたが、強烈な存在感だけが二人をその場に留める。

 視線が、ドアに吸い込まれる。

 呼吸と拍動がどこまでも浅く、早くなって。そして。



 が     ゃ

     ち 

           り


 開錠。

 音もなく開け放たれた404号室の中から、黒い手がいくつも伸びてきて津根居を掴んだ。


 足を。腕を。首を。

 部屋に引きずり込もうと。


「ひぃ、い、いやぁぁあ!! 助けて! 助けてぇ!!」

「津根居さん!!!」


 山下が駆け寄り、黒い手を引きはがそうとするが触れることができない。


「なんだよ!! くそっ!! 放せッ! 放せよ!!」

「あああぁ! うぁあああぁぁあ!!」


 津根居の胴に手を回して引っ張ろうとするが、ぎちぎちと肉を締め付ける黒い手の音がやまない。


「たすけ、たす……――」


 ぐりん、と津根居の顔が逆さを向いて、髪がだらりと流れる。次いで手が、足が、ありえない方向に曲がっていく。


「山下くん……わたし、いま、どうなってるの? きみが、さかさまに、みえ――」


 ずるり。ごぼり。


 排水溝に流れていくような音と共に、津根居は404号室に引きずり込まれ、重たい音を立ててドアが閉まった。


「おい!! 返せよ!! 開けろよ、くそっ!!」


 激しくドアを開けようと試みるが、微動だにしない。

 4号棟全体が、唸るように低く声をあげている。


 団地内、棟の外にある連絡用のスピーカーからノイズが聞こえ始める。


【――……山――くん。――怖……――】


【ごめ――まちが……――お願……】


 遠くてよく聞こえなかったが、間違いなく津根居の声だ。

 山下は走り、4号棟を出る。スピーカーは棟と棟の間にある児童公園にあった。


「津根居さん!」

【来てくれるって信じてたよぉぉ! 山下くぅん!!】

「無事なのか!? なぁ!」

【来てくれたら、本当の理由教えてあげる】

「……え――?」

【帰りも腕掴んでいい?】


 膝から崩れ落ちる。

 これは、今日、津根居と交わした会話だ。


「なんだよ、どうなってんだよこれ……」


 街灯がぽつんと光る。

 そこに居たのは、津根居だった。


 走り寄ろうとして、ぞくりと背中に冷たいものが走る。

 まっすぐ立っている彼女は、微動だにしていなかった。


「ひっ……」


 別の街灯が光る。津根居がいる。

 また別の街灯が光る。津根居がいる。


 いくつもの津根居が、静かに集まってきて山下を囲む。


「わたしねぇ」「わたし」「わたしねぇ」


 無表情に、集まった津根居がそれぞれ言葉をこぼす。さざ波のように彼女の声が響く。


「知ってたんだぁ」「山下くんが」「怖いの好きだって」「前にさ」「教室で読んでた本」「調べたらホラーだったから」


 目を見張る。これは、今日の会話じゃない。これは――


「実はね」「きみのこと」「気になってたんだ」「友達に」「なりたくて」「ちょっとだけ」「強引だったけど」「許してくれるよね」「だってほら」「美少女は3回まで」「許されるし」


 なんだよ、それ。

 おれに声をかけた本当の理由って――。


「許すよ……だから、一緒に帰ろう……」

「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」「ごめんね」


 力なく、その場に座り込んでいる山下の周り。無表情に佇む無数の津根居の口から黒い手が伸びて、山下を握りつぶした。


 〇 〇 〇


 後日、地方紙の隅に。

 何でもないことのように高校生の失踪事件が小さく掲載された。

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