第28話 相手が誰であっても失礼だと思ったから

「こ、婚約、そんな、こと……!」

 新しい匙を出してもらったが、手が震えてスープを掬うことができない。ミシェルが言っていた「彼氏」とは、このことだったのだ。

「『看病の魔女』よ。そなたはシモン卿の面倒を見るのだそうですね。わたくしからも、よろしく頼みます。屋敷を出入りすることになると変な噂が立つやもしれません。いっそのこと、お孫殿と婚約してしまえば、誰も悪いようには言いますまい」

「恐れ多いです!」

 余計なことを、とは言えなかった。相手が女王陛下だから、というわけではなく、相手が誰であっても失礼だと思ったから。

「厚かましいとは重々自覚しています。わたくしの自己満足だということも。そなたが警察に捕まったと聞いたとき、わたくしは何もできませんでした。すでにロシュフォール公爵が手を打っており、そなた達を釈放する手筈が整われていました。わたくしができることは、そなた達を世間の目から守ること。だから、せめて……」

「お気持ちはありがたいです。でも、そこまでして頂かなくても」

「お孫殿は、どうお考えで?」

 静かにスープを食べていたアルベールは、イレーヌに求められて口を開く。

「僕は、リカを手放す気はありません」

 こいつ紛らわしいことを、とは言えなかった。相手が公爵家の血筋の者だから、というわけではなく、相手が誰であっても失礼だと思ったから。

「だそうですが、そなたはいかがですか?」

「あたしは、アルと縁が切れるのは嫌だけど……」

 アルベールのことは、シモン公爵家の六男であること、身体能力が高いことしか知らない。だが、リカの前世に関する何かをアルベールも持っているかもしれないのだ。

「では、決まりですね」

「あっ……!」

 自分で墓穴を掘ってしまった。穴があったら入りたい。アルベールは静かにスープを飲み終えた。リカは慌てて、冷めてしまったスープを飲み干す。

「パンどうぞー」

 ミュゼットが柔らかいパンを持ってきてくれた。まかないで食べ慣れた、ミュゼットの焼きたてパンだ。

「そなた、ミュゼットといいましたね。ロシュフォール公爵の子息と親しくしているそうで。あの者の相手は大変ではありませんか?」

「女王陛下……!」

 突然話しかけられて、ミュゼットはぴこっと驚いたが、すぐに普段の調子に戻る。

「そんなこと、ないですよ。優しいし、頼りになります。離れていても、助けてくれますし」

 誰のこと、とリカが小声で訊ねると、ミュゼットはごく普通に答えた。

「ジョフロワ」

 パンを咀嚼している最中でなくて、良かった。時機が悪ければ、きっとパンを喉に詰まらせてしまう。

「困ったことがあれば、すぐにわたくしに申しつけなさい」

「じゃあ、そのときは頼っちゃいますね。陛下は優しいですね」

「優しいのは、そなたの方です。最初から頭のネジが無いような男と親しくできるのは、そなたが優しい心根の持ち主だからでしょう」

「んー、でも、あたしは親と喧嘩して家出したんです。父親の考え方が、どうしても受け入れられなくて。長々と話し込んじゃって、ごめんなさい。次の料理を持ってきますね」

 ミュゼットがサンダルでなく靴を履いていたことにリカは気づいたが、問題はそこではない。ミュゼットが、女王陛下に臆することなく話しができて、好印象を持たれる人柄であることが友として誇らしいが、問題はそこでもない。

「ミュゼット……ジョフロワのことを知ってて付き合ってたんだ……」

 ミュゼットのことを能天気と言う人がいるかもしれない。でも、リカには心優しい友人が、肝の座った人物に見えた。

「『看病の魔女』、そなたは良き友に出会えたのですね」

「ミュゼットを女王陛下にお褒め頂いて、あたしも誇らしいです。でも、付き合う相手が……」

「そのジョフロワとは、町にいた赤毛の男? うざそうな感じの」

 アルベールはジョフロワと親交がないが、道化師の格好をしていたときに町で見かけて一方的に知っていたようだ。

「うざそう、じゃなくて、うざいの」

「全くです。うざいです」

 リカだけでなく、イレーヌもジョフロワを非難ディスる。咳払いをしたのは、壁際に控えていたジャンだった。

 次に出てきた魚料理は、食べ慣れた川魚のムニエルだった。もともと脂気の少ない魚であり、柔らかくて食べやすい。

「陛下、物足りなければ遠慮なく申し付けて下さい。用意させますから」

 リカには食べ慣れた味だが、アルベールは女王陛下を気にしていた。上流階級の高級な食事に慣れているはずだから。

「とんでもないことでございます。この辺りでは、わたくしのことなどとうに知れているでしょう。幼き頃から、今のような生活をしていたわけではないのです」

「想像もつきません」

 アルベールは想像もつかないだろう。リカは朧けだが覚えている。一緒に森を散策したり、祖母や両親を手伝っていたのだ。

「わたくしだって、砂埃が立つ村の道を駆けていたのですよ。朝露に濡れた森の中を掻き分けていましたし、転んで泥だらけにもなりました。今日用意して頂いた食事も懐かしい味ばかりで、有り体に申し上げると、こういう方が性に合っております」

「……すみません。陛下の印象が、新聞で拝見する印象と違い過ぎて……」

 アルベールは冷静な表情をしていながら、内心困惑しているようだった。

「……やはり、リカのお姉様なのですね」

 あ、これは失言かも。リカが思ったとき、アルベールも口を結んだ。イレーヌが、ムニエルを完食してナイフとフォークを置く。

「ええ。似ているでしょう」

 食事中もなぜかヴェールを外さず、器用に食べていたイレーヌは小首を傾げたが、感情までは見せない。

「似ています」

 アルベールはそれ以上何も言えなかった。

 柑橘のジュレの後、皮をぱりぱりに焼いた後に煮込んだ鶏肉の料理が出てきた。くし切りの玉ねぎがごろっと添えられ、剥がれずに形を保っている。食後のデザートは、フランボワーズのフレジエだった。

「早生でしょうか。この時期には珍しい」

 イレーヌが驚いていた。フランボワーズの旬は、6月から7月にかけて。まだ5月なのだ。

「以前から温室で育てています。祖父の好物でして」

「シモン卿の。そうでしたか」

 細身なのにコースメニューを無理なく食したイレーヌは、食後の紅茶で一息ついてから再び口を開いた。

「そろそろマドロンに来てもらってもよろしいかしら?」

「そうですね。呼びましょう」

 アルベールが、ジャンに頼んでマドロンを連れてきてもらう。

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