第4章 喪の女王
第24話 アリス・ジョルジュ
窃盗罪で逮捕された人が前頭側頭型認知症だと診断され、無罪になった。
前世の社会での出来事だ。
今の人生の社会では認知症という病は認識されておらず、いかなる理由であれ窃盗は有罪だ。窃盗犯を庇ったり、教唆の疑いがあっても、共犯として罰せられる。
でも。
リカはミシェル氏に手を差し伸べたことを後悔していない。ミシェル氏に、あなたは認知症です、とは言えなかった。巷のボケ老人と一緒、なんて失礼なことは一層、口が裂けても言えなかった。
自分のことがわからなくなり一番苦しい思いをしているのはミシェル氏で、ミシェル氏はこれから堂々とのんびりしていれば良い。これだけでも伝えたかった。誰に何と言われようと、リカの自己満足だ。
気がかりなのは、ふたつ。ひとつは、ミシェル氏の健康状態。もうひとつは、弟のミシェルのこと。リカのせいで弟に何かあったらどうしよう、と思うと不安で食事も喉を通らない。留置場で提供されるわずかな食事は、他の拘留者にあげてしまった。あからさまに差し出すのではなく、地べたに座って寝ているふりをして、寝相が悪くて皿を押し出してしまった体で、近くの人の前に皿を出した。
「きみは今日も、そんなことをしているのか」
近くの人が、独り言を放った。
「いくら温厚なぼくでも、何度もそんなことをされると、きみの鼻から管を入れてそのスープを胃に流し込んでしまいたくなるよ。それとも、胃に穴を開けて直接胃にパンを突っ込んであげようか」
ここは女子用の留置場だ。リカに喋りかけている声も、女性のもの。口調は男性寄り。内容はかなり物騒で、他の拘置者さえ、ざわついていた。リカは冷静に、経鼻栄養と
「人の体というものは飲食ができなくなった途端に、一気に衰える。胃から直接栄養を流し込むようなことをすれば、命は長らえる。ただ、そこまでして生きたいと思える人は居るのかね。そうしたいと思うのは、遺産目当ての身内か、個性的な愛の形をした家族くらいだろうね」
同じ話を、リカは前世で聞いたことがある。同じ職場の看護師が、思い詰めた顔で弱音を吐いていた。リカはそのとき、気の利いたことが言えなかった。何を言えば正解だったのか、今でもわからない。
「さて、きみはどちらを選ぶかな。この場で自分の分のパンを食べるか、鼻か胃にスープを流し込まれるか。ぼくのおすすめは、自分でパンを食べること。きみの自己犠牲的な献身は、ほかの者を心配させているよ。ここの者達は、きみの噂もとっくに存じているしね」
リカが差し上げたはずのパンが、目の前に差し出される。
「取り調べで何を言われたか知らないが、ぼく個人はきみの行動に心打たれたよ。
リカは黙ってパンを持ち、首を横に振った。
「それを食べながらで構わないから、ぼくの話を聞いてくれ。ぼくは、マルグリット王国から南下した国の、ポルトマーレという町で生まれ育った。港町であるが、町の中心部を外れるとすぐにのどかな田舎になる場所だ。ぼくの家は田舎の地域にあり、ぼくの父親はそこで郵便配達の仕事をしていた」
そこで一旦話が途切れる。パンを食べることを促されているような気がして、リカは小さなパンを一口噛んだ。食べ慣れた、硬いパンだ。噛み切れず、丸のまま口に入れてしまった。
「ぼくの父親は想像力がたくましく、配達をしながら様々な妄想をしていたらしい。仕事を終えて家に帰ると、ブランデーを片手にその日想像したことを語ってくれた。だいたいの話が、町のあの場所やこの場所に南国風の建物を建てたらあんな感じになる、という妄想だった。打ち解けた人に妄想の話をするものだから、いつの日か父は妄想好きの変人扱いされるようになってしまった」
話を聞きながら、リカは口の中でパンを転がす。誰かがスープの皿を勧めてくれた。このままではパンを喉に詰まらせてしまうと思い、リカはスープも頂いた。ほんのり味がするだけの、具材の入っていないスープだった。
「父の妄想は、創造の炎へと変わった。父は自宅の敷地に、自分が思い描く建物を作り始めたんだ。父に建築の技術なんてなかったから、木材を骨組みにして、石を積み上げてセメントで固め、異国の遺跡のようなものを作り始めた。町の人達は、父を『頭に蜂が入った』と言うようになった。それでも父は建物……自分の理想宮を創造することに夢中になった。ぼくには、そんな父が生き生きして見えた。変わり者の父だが、これは才能だと思っている。ぼくも学校でいじめられたけれど、いじめよりも父の才能を閉じ込めておくことの方が嫌だった。父には、理想宮を完成してほしかった」
飲食物が胃の腑に落ち、血糖値が上がったと、リカは感じた。相手の容姿が、はっきり見えた。相手は黒髪ボブで意外にも可愛い顔立ちをしており、動物に例えるなら猫のようだった。冷たい石の床に体育座りしているが、男装をしているのがわかった。
「完成間近だと父が安心しきって就寝している間に、父を良く思わない人達が、月明かりの下で理想宮を破壊してしまった。5年かけて積み上げた理想宮は、一晩で木っ端微塵に壊されてしまった。父は一気に心身衰え、1年絶たないうちに他界してしまった。父の才能も命も、悪意ある人達に潰されてしまったんだ」
しん、と静かになり、彼女はわざとらしく溜息をついた。
「きみの噂を聞いて、久々に父のことを思い出してしまった。きみみたいな人達に出会えていたら、父は理想宮を完成させ、やりがいに背中を押された人生玉ったかもしれないのに。願わくは、きみのような人達で溢れかえった社会にならんことを」
「おい、アンジェリカ。出なさい。命拾いしたな」
留置場が開いた。再度促され、リカは腰を浮かせる。ふらつくと、両側から支える手があった。父親のことを語ってくれた男装の麗人と、一緒に留置場にいた女性だ。
「きみはアンジェリカというのか。ぼくは、アリス・ジョルジュ。また会えると良いな」
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