第23話 彼はきみに救われたよ

 目をつむった直後、ふわりと体が浮いた。

 目を開けると、リカは2階建ての建物の屋根の上にしゃがみ込んでいた。ミシェル氏も一緒だ。ミシェル氏は、黙って目を見開いている。

 もうひとり、一緒にいる。黒い仮面で顔を隠しているが、身なりと容貌は、先程会ったばかりのアルベールに間違いない。

「アルベール、なんでここが……?」

「ムッシュ・ミシェルのことを気にかけていたから、もしやと思って」

 仮面のせいで表情は見えないが、アルベールは息ひとつ切らせていない。高所が怖くないのか、屋根の上であっても立っている。

「一度屋敷に帰った後、気になって戻ってきた。間に合って、良かった」

 アルベールは町を見下ろし、あごに手を当てて小首を傾げる。その様子は、サーカス道化師のようだった。町中で道化師の格好をしていたときに、まさか貴族だと思いもしなかった。

「助かって、ありがたいけど……一体どんな運動神経をしているの?」

 今まで頭の中で考えても言えなかった語彙のひとつ、「運動神経」も、アルベールには言えた。

「サーカスの一座にいたことがあった。そのお蔭かな」

 アルベールは、おどけたように反対側に首を傾げる。冷静な口調と動作にギャップがあり過ぎて、しかも人ふたり抱えて一瞬で屋根に跳び乗れる運動神経の良さに、リカは頭が追いつかない。

「この後はどうしよう。とりあえず、町を出て村に逃げるのが最善だと僕は思う。このムッシュ・ミシェルに必要なのは、世話をしてくれるご近所の存在だ」

「同感。でも、ここからどうやって?」

「ムッシュ背負う」

 アルベールはしゃがみ込み、ミシェル氏の腕を掴もうとした。ミシェル氏が、唸って抗う。

「ミシェルさん」

 リカは、ミシェル氏と目線を合わせた。

「これからは、村でのんびり暮らしましょう。村には、ピエールさんもいますよ」

 旧友の名が出て、ミシェル氏は目を輝かせた。

「困ったことがあったら、また居酒屋で相談すれば良いんです。ひとりで大変なことは、近くの人に頼って下さい。あたしもできるだけ手伝います。あたしの弟も、ミシェルっていうんですけど、ミシェルは薬のことに詳しいから、調子が悪くなったら弟に診てもらいましょう。ミシェルさんは、今まで仕事を頑張り過ぎちゃったんですよ。頑張り過ぎちゃったから、お年寄りになるのが早くなっちゃったんです。ミシェルさんは、その辺の隠居老人みたいに堂々とのんびりしていればもう平気なんです」

 ミシェル氏はおそらく、リカの言っていることを半分も理解していない。しかし、うんうんと頷いてリカの手を取った。すまんな、と呟いて。

「では、ムッシュは僕が背負います」

「ミシェルさん、このアルベールは先程、あたし達を抱えて屋根の上にひとっ跳びしたんです。すごいでしょう?」

 リカが言うと、ミシェル氏はアルベールを見上げ、うんと頷いた。

「ミシェルさん、アルベールにおんぶされて下さい。彼に体を預けて下さいな」

 リカに言われるままに、ミシェルはアルベールの背中にしがみついた。

「じゃあ、ミシェルさんのことをお願い」

「きみも一緒だ」

 リカはアルベールに抱きかかえられ、アルベールは屋根を蹴って駆ける。

「あの、アルベール、これは」

「アル、で良い。連呼するには長い名だろう、リカ」

「じゃなくて!」

 これっていわゆる、お姫様抱っこではありませんか!

 屋根から屋根を移動するというとんでもない行動自体に加えて、新聞の連載小説の一場面のヒロインみたいな抱っこをされ、突っ込む暇もない。大人ふたり分の重量が加算されているはずなのに、アルベールは軽々と屋根から屋根を走って渡る。

「屋根の上の集団! 止まりなさい!」

 警笛と、警察官の怒鳴り声が、下から聞こえる。

「ミシェル! 昨日の市場での盗みについて聞きたいことがある! 下りてこい!」

「下ろすかよ。ムッシュ、しっかり掴まって……」

 がくん、とアルベールは膝折れし、止まった。

「ミシェルさん!」

 リカはアルベールの背中越しに、屋根から転がり落ちそうなミシェルを見つけた。

「あの者、自分から離れた」

「嘘、なんで!?」

「ムッシュ、ここまで来られるか? 僕の背中に掴まって」

 アルベールは振り返り、ミシェル氏に手を伸ばす。

 ミシェル氏は、首を横に振った。

 すまんな、ありがと。

 ミシェル氏が、呟いた。その表情は、今にも泣きそうだと、リカには見えた。

 アルベールがゆっくりと、ミシェル氏に近づく。ミシェル氏の体が屋根から下に消えていった。

「ミシェル、確保! 無傷だ!」

 下から警察官の声が聞こえた。奇跡的なミシェル氏の無事に安堵したのも束の間。

「上の者! 下りてこい! ミシェルの共犯者だな!」

「僕達だけでも逃げよう」

「せめておんぶにして!」

 アルベールはリカをお姫様抱っこのまま、屋根の上を進む。速度を保ったまま跳躍し、通りの向こうの建物に跳び移った。リカは驚きと恐怖の度を超えて声も出なかった。下からは、警察官の怒号と観衆の歓声が上がった。

「撃て!」

 号令と共に、警察官が発砲する。やめろ、と止めようとする声と、盛り上がる声が混ざる。

「しっかり掴まって。この勢いで屋敷まで逃げる」

 アルベールは冷静が息が上がり始めている。リカは軽く頷き、今はアルベールに任せることにした。この集中状態を切らせず一気に走り切ってもらうのが最善だと思ったからだ。

 しかし、発砲音の直後にアルベールが膝折れした。屋根から下に落ちる。荷台の積荷の上に着地したことが命拾いだった。

「アル……」

「リカ、きみだけでも逃げて。僕はどこかに隠れるから……」

 アルベールは肩で息をして、右下肢の外側を手で押さえる。仮面を外し、リカに手渡そうとするが、リカは受け取らなかった。

「撃たれたの? 止血するから、待ってて」

 リカは自分の着衣の袖を力ずくで裂き、患部を布できつく巻き、全体重をかけてアルベールの右下肢を圧迫する。弾丸がかすっただけで傷は浅そうだが、アルベールは体力の限界だ。走るどころか歩くことさえ強いることはできない。

「きみだけでも村に帰るんだ。僕なんかどうにでもなる。万が一逮捕されても、シモン公爵家がすぐに揉み消してくれる。でも、きみの場合はそうもゆかないだろう。僕のことなんか放っておいて……」

「血が止まったら、あたしが背負って行く。少し時間をちょうだいな」

「なぜ、僕なんか」

「目の前で苦しむ人をまた放っておいたら、夢見が悪くなるでしょうが! それだけだよ」

 アルベールは呆気に取られたような表情をした後、顔を綻ばせた。

「きみは優しいんだな」

「優しくなんか、ないよ。ミシェルおじさんに、気の利いたことも言えなかったし、救えなかった」

「彼は救われたと思う。僕はムッシュに拒絶されたけど、きみは拒まれなかった。彼の欲しかった言葉を、きみは差し上げたんだ」

「でも……」

 ミシェル氏が自ら手を離し、屋根から落ちる瞬間が、リカの脳裏に蘇った。

 すまんな、ありがと。

 ミシェル氏は確かにそう言った。リカに謝罪と感謝をしていた。

「ミシェルさんは……!」

 言えなかったことがある。前頭側頭型認知症は、予後が悪い。発症から6〜9年が寿命だと、前世の社会では言われていた。この認知症の症状はすぐに現れるわけではない。数年かけてゆっくりと進行する。ミシェル氏に残された時間は少ないのだ。

「彼はきみに救われたよ」

「嘘だよ! あたしはミシェルさんを……」

 目頭が熱くなり言葉も呼吸もままならないリカを、アルベールが抱きしめる。

「夢見が悪くなるから放っておかない。きみのその心で救われる人がいる。それで充分だろう。現に、ムッシュ・ミシェルは心を救われた。優しい人だと隣人が思い込んでしまう『看病の魔女』殿に改めてお願いしたい。祖父のことを、見てやってほしい」

「だったら……!」

 リカは顔を上げ、息を吸う。

「一緒に逃げ帰って、お祖父様に元気な顔を見せてやりましょうよ!」

「……そうだね」

 至近距離で大きな声を出されたアルベールは、破顔した。

 リカは止血の確認もせず、アルベールを背負って荷台から降りる。直後、前につんのめって倒れた。

「ごめん……僕は重いな」

「ごめん……あたしが弱いだけ」

 アルベールは小柄で細身に見えたが、全体重がかかった瞬間にずっしり重くかんじてしまった。そりゃあ、そうだ。あの運動神経を発揮できるのだから、それ相応の筋肉量があると考えるのが普通なのだ。

「いたぞ! 捕まえろ!」

 大声と複数の足音が近づいてきた。

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