第22話 伝わらない

 介護、とアルベールははっきり言った。言った本人が驚いていた。

「なぜ……? 頭の中で考えていても、今まで一度も言えなかったのに」

 アルベールが、アーモンド型の双眸をこれでもかと見開き、リカはそんなに見つめられると穴が開いてしまうと錯覚を起こした。

「ごめん。今のは独り言」

「ううん、平気。お祖父じい様の介護を手伝えば良いんだよね?」

 今度は、リカが自分の発言に驚く番だった。今まで何度も頭の中で考えても言葉にできなかった語彙が、アルベールの前では発語できたのだ。

 リカの中で、むくむくと、今まで言葉にならなかった語彙が膨らみ、頭の中であふれそうになる。

「あ、あの……全然話が違うのだけど」

 言える。この人の前でなら。

「いつも街角にいる、ミシェルというおじさんを知ってる?」

 突然話題が変わり、アルベールはぎこちなく頷いた。

「小柄な人、だね。変な言動のせいて、悪魔に憑かれていると思われている」

「ミシェルおじさんは悪魔に取り憑かれてなんかいない!」

 ごめんなさい。お祖父様の介護の話なのに、全然関係ない話を始めてしまって。でも、今言わないと、きっと自分は後悔する。この人になら、言える。

「あの人は、前頭側頭型認知症。タウ蛋白、TDP-43、FUSと呼ばれるたんぱく質の性質が変化して蓄積されることで、前頭葉や側頭葉の萎縮が起こる認知症で、比較的若い人が発症しやすい。自分本意な行動や万引きなどの反社会的な行動をとるようになったり、同じ行動や言葉を繰り返す、無関心・自発性の低下、共感や感情移入ができなくなる、食事や嗜好が変化する、目標を立て達成するために計画を立てて行動することができない遂行機能障害、言葉が出にくくなる失語症状が主な症状。ミシェルおじさんにはそれらが当てはまる。この認知症状は発症してから6年から9年で……」

 息が続かなくなるまで一気に喋り巻くった。今まで考えても言葉にできなかった内容だ。

「あ、あの、悪魔に取り憑かれたんじゃなくて、病なんだって、誰も気づいていない。ミシェルおじさん自身も、きっと自分のことがわからなくて不安になっているはず。信じてもらえないとは思うけど……」

 アルベールにも信じてもらえないだろう。自分が喋ったことは無駄だったかもしれない。

「そうか」

 アルベールは、リカをまっすぐ見つめ、深く頷いた。

「あのムッシュ・ミシェルは、認知症だったのか」

 伝わった。言葉にできない感極まる感じが、じわりと身に沁みる。認知症。頭の中で考えても、口に出せなかった言葉だった。

「あの、だからどうこうというのではなくて、ただ、あたしが話したかった、だけ……です。お祖父様の介護の話ですね、あたしのできる範囲で良ければやらせて下さい」

「ああ、うん……僕は道化師のふりをして町にいるか、屋敷にいるかのどちらだから、いつでも訪ねてきてほしい」

「わかった。マドロンの件も、やってみます」

「本当に助かる。ありがとう」

 アルベールは深く息を吐き、冷めてしまったハーブティーに口をつけた。淹れ直す、とリカは腰を浮かせたが、手を上げて止められた。

「この焼き菓子を祖父に持って行っても良いかな」

「どうぞ。お祖父様、召し上がると良いね」

「本当に、そうしてもらいたいよ」

 アルベールは、近道だという森の中を通って屋敷に帰っていった。本当に、家の裏の茂みを臆せずに歩いてゆく。

 リカはアルベールを見送り、食器を片づけながら自分の発言を思い出す。

 アルベールが真剣なお願いをしに来たのに、あの時機にミシェル氏の話をしてしまったのは失礼に値するが、アルベールは嫌がらずに話を聞いて多分信じてくれた。そもそも、これまで頭で考えても口に出せなかった語彙が、アルベールの前では喋ることができて、アルベールも理解して喋っていた。アルベール自身も驚いていた。

 アルベールと出会えたのは、何かの巡り合わせだろうか。

 食器を洗い終え、途中だった編み物を再開しても、自分が怒涛のように話してしまったミシェル氏のことを思い出す。リカはミシェル氏と親しいわけではない。ミシェル氏に何かあっても、リカに影響があるわけではない。

 でも。

「姉貴、ただいま」

「おかえり、ミシェル。あたし、出かけてくる!」

 帰宅したミシェルと反対に、リカは家をとび出した。向かう先は、キャトルブールの町。ミシェル氏がいつも居座る街角。ミシェル氏が居る保証は、ない。だが、居ても立っても居られない。マドロンのように、偽善で結構、と吐き捨てる勇気は、ない。リカが行動を起こしたところで、何も変わらないかもしれない。状況が悪化するかもしれない。それでも、このまま家に引き篭もることはできなかった。



 町に着くと早速、いつもの街角でミシェル氏が揉めていた。と言うより、ミシェル氏が取り囲まれていた。リカは割って入る勇気がなくなってしまい、輪の外で野次馬する形になってしまった。

「あんた、いつまでそこに居座るんだ? 邪魔なんだよ!」

「盗みをはたらいて仕事も辞めて、お前みたいな奴、見たくもねえ。消えろ」

「そんなだから奥さんに逃げられるんだ。だらしないったらありゃしない」

 ミシェル氏に好き勝手言いまくるのは、いつもミシェル氏を目の敵にしている連中だ。ミシェル氏は珍しく、取り囲む人達をきょろきょろ見回し、黙って困惑していた。

「こいつは悪魔に取り憑かれてたんだ! 悪魔に取り憑かれて盗みをはたらく野郎なんか、この世から出ていけ!」

 周囲に聞こえるように、ひとりが声を張る。

「死ねなんて酷いことは、言ってないだろう!」

 その声に、同意の歓声が沸いた。人の輪の外で聞いていたリカは、肌が粟立つ気持ち悪さを感じた。この人達は、言ってはならないことを言っている自覚が、ない。輪の中に立たされているミシェル氏は、黙って俯いてしまった。

 リカは、偽善で結構と言い捨てる勇気なんか持ち合わせていない。何かを成すとか高い志を持ち合わせていない。けれど、取り囲まれて罵られて悪者に仕立て上げられている人を見て何も感じないわけでもない。何のために、今日また町に出直したのか。ミシェル氏を放っておくことができないからだ。

 あ、とミシェル氏が呆気に取られた声を出した。リカが人の輪を掻き分け、ミシェル氏の腕を掴んで引っ張ったからだ。

「お前、『魔女』の孫だな!」

「『看病の魔女』か!」

「こいつに何しやがる!」

 野次馬がリカに注目し、ミシェル氏に変わってリカが標的になった。

「悪魔に取り憑かれていようがいまいが、一番苦しんでいるのはミシェルさんです! ミシェルさんは、自分のことがよくわからなくなって怖くて仕方ない状態なんです! それなのに……」

 アルベールのいないところでは、認知症という言葉が出なかった。「ぼけたおじいちゃんと同じ」と言ってしまうと、「悪魔に取り憑かれてた方が良かった」とミシェル氏が思ってしまうかもしれない。一番伝えたかったのは、前頭側頭型認知症になって「自分のことがわからなくて不安になり一番苦しんでいるのはミシェル氏である」ということだ。

 それなのに。

「一番苦しんでいるのはミシェルの野郎だと? 見当違いもいいところだな! 一番苦しんでいるのは、ミシェルの野郎のせいで悩まされている俺達なんだよ! ミシェルの野郎がどうになろうが、俺達には知ったこっちゃない!」

 伝わらない。

 リカの前世の人生では、ミシェル氏のような人は地域で見守りしましょう、という風潮だったが、今の人生の社会では、その考え方は通用しない。

 どうしよう。ミシェル氏は救われない。

「こいつら、警察に突き出そうぜ! 盗みを繰り返すミシェルの野郎と、窃盗犯を匿おうとした『看病の魔女』、どちらも刑罰に処されるのが相応しい!」

 ひとりが宣言すると、周りから拍手が湧き起こった。

 リカはミシェル氏の腕を引き、この場から逃げようとする。しかし、ミシェル氏がついてこれず、ふたりして石畳に転んだ。

 複数人の手が、頭上に下りてくる。

 すまんな、とミシェル氏が呟いたのが、リカには聞こえた。

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