第19話 別れた妻の話再び

「姉貴、やっぱり上手いよな」

 仕上がった杖を見たミシェルが、いたく感心した。

「人生2周目だけあるな」

「冗談やめてよ。木工職人のお父さんと、手先が器用なお母さんの子だから、だよ」

「それもそうだな」

 事あるごとに人生2周目説を持ち出されるたびに、リカはひやりとさせられる。前世の記憶があることを、リカは生涯誰にも話すつもりはない。前世の記憶は、墓場まで持ってゆくつもりだ。

「あたし、外で編み物してるね。家の前をジャンさんが通るだろうし」

 村外れの水車小屋に行くには、獣道や藪の中を突っ切るという選択をしない限り、必ずこの家の前を通る。日雇いの仕事に出たというジャンが水車小屋に帰ろうとするのを止めるには、この家の前に居るのが最も効果があるはず。

 外に出る前に、ミシェルのベッドで休ませている男性の様子を見ておくことにした。

「アンジェリカ……リカ」

 リカに気づいた男性は、頭を押さえて起きようとした。眼鏡をかけたまま寝ていた。

「ムッシュ、まだ起きちゃ駄目です」

「喉が渇いてしまいました。そこのお茶を頂きます」

「良いですよ。冷めてしまいましたけど」

 リカがハーブティーのカップを持たせると、男性は目を細めて距離感を測りながらカップを口元に運ぶ。一口含むと、眉間のしわを緩めて一気に飲み干してしまった。ハーブティーは冷めてしまったが、ローズヒップの香りがリカの鼻もくすぐった。

「美味しい……落ち着く香りです」

「でしょう? ミシェルが調合したんです」

 茶葉に対して調合という言葉を使うのか知らないが、薬草を調合するように茶葉も種類と比率を気にするミシェルは、まるで茶葉も調合しているようなのだ。

「妻も、こういうお茶が好きでした……申し訳ありません。別れた妻の話ばかり。未練たらしいでしょう」

「それほど奥さんを愛していたんですね」

 リカに結婚願望はないが、別れてもこれほど愛される細君を見てみたいと思ってしまう。

「愛していました。許させるなら、今も勝手に愛したいです。もう、復縁は叶いませんが」

 男性は眼鏡を外し、あらわになった右目を袖で拭った。

「あなたがたふたりは、妻に似ています。何となく、ですが」

「そうでしたか。ムッシュ、そういえば、お腹を空かせていましたよね。スープも持ってきますね」

「恐れ入ります、アンジェリカ」

 またアンジェリカ呼びに戻っている。違和感ないので、リカは気にしないことにした。

「ミシェル、スープを温めさせて」

「温めたぜ。あいつが食べるかと思って」

「やるぅ」

「あいつ、腹を空かせてただろう。空腹は判断と精神を誤らせる。そんなの、食わせれば予防できる」

「おばあちゃんも、そんなこと言ってたね」

 リカは温めたスープを持って行った。スープとバゲットを少し食べると、男性はまたベッドに横になってしまった。よほど疲れていたのだろう。少しでもここで心身共に休んでほしい、とリカは思った。

 ミシェルに宣言してからだいぶ遅くなってしまったが、外に出て編み物を始める。今編んでいるのは、自分が使うショールだ。以前も編んだが、そのときはミュゼットに贈ってしまった。母が継いだ王族の編み方ではなく、一般に編まれる編み方だ。王族だけの編み方は、こっそりと練習している。

 安物の糸で編みながら、町の店で見かけた糸を思い出した。黒色から濃紺、藍色に変化する、夜空のような色彩の糸だ。買いたかったが、手を出せる金額ではない。

 今の人生になって、今の社会で気づいたことがある。ひとつは、物が少ないこと。以前の人生の社会が物であふれていただけかもしれないが、今の社会は物が少ない。

 食べ物はそこそこあるが、料理のレパートリーが少ない。日々の食事は、何とかして工夫を凝らし、飽きないようにしている。その料理を盛りつける皿も少ない。リカの家は昔から木の食器を使っているが、長く使っていれば劣化する。食器が壊れても、すぐに替えを用意できるわけではない。徐々に食器は少なくなる。

 少なくて困ったのは、布だ。多少の破れやほつれは縫って繰り返し使うが、布そのものが傷んで破れてしまうと、雑巾にしか使えない。布の入手は一番苦労している。だから、綿花を育てている。綿を収穫して糸を紡ぎ、織って布にするために。

 色々考えているうちに、少しずつ暮れてきた。大きな人影が、くたびれたように近づいてくる。

「ジャン……さん!」

 リカは、大柄な男を呼び止めた。

「ムッシュが倒れてしまって、うちで休んでもらっています」

「旦那様が……!」

「来て下さい!」

 リカがジャンを家に招くと、ジャンはベッド脇にひざまずいた。

「旦那様……!」

「ジャン、ごめんなさい……言いつけを守れなくて」

 男性はゆっくり体を起こす。ジャンは慌てて立ち上がり、主の体を支える。

「お気持ちはお察し致します。ですが、ですが……」

 ジャンは涙ぐみ、主を支えるどころかちから余ってベッドに押し倒してしまう。

「旦那様に何かあったかと思うと、俺は……!」

 ジャンの体格も相まって、まるで熊が人を襲っているようだ。

「ジャンさん、落ち着いて! ミシェル、ムッシュを助けて差し上げて」

「姉貴よ、このか弱い弟に、素手で熊を倒せと仰せか?」

「言ってることがジョフロワに似てきてるんですけど!」

「それは絶対ぜってー嫌だ……おい、熊。ご主人様から離れろ」

 もはや熊呼ばわり。ジャンは、主の男性から離れ、消沈の溜息をついた。

「旦那様に無理をさせているのは、わかっています。でも、ゆとりのある暮らしをさせて差し上げることができないんです」

「そうみたいですね。でも、今日だけでもうちで夕飯を食べていきませんか?」

「食ってけよ。これでも凝ったんだ。塩窯ポークと、酪乳のクッキー。パン屋の娘のパンもあるぜ」

 リカだけでなくミシェルも勧めたが、ジャンは首を横に振った。

「せっかくのご提案ですが、お断りさせて頂きます。旦那様、行きましょう」

 ジャンが男性に耳打ちすると、男性は我に返ったようにベッドから下りた。

「行きましょう、ジャン」

「だったら、食べ物くいもんを持っていけよ」

「……すみません。頂きます」

 ローズマリーの香る塩窯ポークを食べやすい大きさに切り、酪乳と香辛料のチーズやバゲットを渡す。

 ジャンは深々と頭を下げ、主の男性を促して行ってしまった。

「事情はわからないけど、大変な暮らしみたいね」

「だな」

 根掘り葉掘り訊ねることはせず、夜になると姉弟はふたりで夕飯を摂る。いつもと同じふたりきりなのに、どこか味気なかった。

 カミツレの香りを纏う高貴な雰囲気の男性と、その従者のようなジャンを見たのは、これが最後だった。

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