第18話 今の母語では発音できない
木漏れ日と鳥のさえずりの下で、リカは木の枝をやすりで研磨する。杖の代わりにできそうな木材は、意外と少なかった。いかにも木の棒といったしっかりしたものでは重くて歩行に難あり。軽いものは強度に難あり。長く固く、なるべくまっすぐな枝を見つけたときは、こぶしを握りしめて独りで喜んでしまった。
「あいつ、耳が弱そうだな。乗り物酔いしやすいんじゃないか?」
ミシェルが家から出てきて、作業をさていたリカに話しかける。
「そう、みたいだね」
リカは気づかないふりをした。この社会では、メニエール病という病が
「俺、薬の整理をしてるから、何かあったら声をかけてくれ」
「わかった」
ミシェルが家の中に入り、開いた窓から杖をつく音が聞こえた。ミシェルの歩行音は、足音と杖の音の三拍子を奏でている。リカにはわかりやすい足音だ。
あの人影は、普通に二足歩行の早足だった。ミシェルでも、めまいで臥しているあの男性でもない。昨日、町で会った道化師を思い出した。石畳に足を取られたリカを支えてくれただけでなく、石を投げられたリカをかばうようにフルートを奏で、人々の意識を逸らしてくれた。
あの道化師が奏でていた旋律は、リカの前世に存在した、「青い山脈」という歌謡曲だった。「青い山脈」だけでなく、前世で覚えた歌は、旋律を鼻歌に乗せることはできても、歌うことはできない。頭に歌詞が浮かんでも、今の母語では発音できないようだ。「青い山脈」も「少女A」も、たびたび思い出すのに、歌えない。歌だけでなく、前世に存在した名詞も、発音できないことがある。「ハンセン病」という名詞が、まさにそうだ。今の社会には、ハンセン病の名前の由来となったハンセン氏が存在せず、今のところハンセンという姓に出会ったことがない。そのせいか、今の社会の言語、特に母語で「ハンセン病」と言うことができないのだ。「介護」も、そうだ。介護に該当する言葉が、ない。
思考が逸れた。
リカの噂が立っても、道化師の話は出なかった。あの道化師は何者なのだろうか。ミュゼットをはじめとする町の人に訊けばわかるのだろうか。そもそも、リカが知って良いことなのだろうか。なんか色々考えながら、木の枝を研磨する。
リカが整形しようとしている杖は、貴族が持ち歩くような装飾品としての杖ではなく、実用を目的としたものである。足の悪いミシェルのために
時間があれば、ニスを塗ってもっと強度を上げたい。そもそも、材料をじっくり吟味したい。凝り始めれば、きりがない。
紐を見繕うために家に戻り、何の気なしに台所を覗く。ミシェルが台所に立ち、料理の仕込みをしていた。
「お、塩窯
「げ、姉貴!?」
ミシェルはリカに気づいていなかった。泡立て器を落としそうな勢いで驚かれてしまった。
「生肉のままじゃ、すぐに腐るじゃん? だから、なるべく早く焼こうと思って」
「ご
前世の社会のように、冷蔵庫や冷凍庫があるわけではない。肉は早めに加熱し、食べる必要がある。ミシェルが仕込んでいる塩窯ポークは、我が家では特別なときに食べる料理のひとつだ。豚肉に塩とローズマリーで下味をつけ、葉物野菜をぴったり巻きつけ、卵白を泡立てたメレンゲで覆い隠し、窯で焼く。祖母直伝の香草や香辛料の知識を生かした料理に関しては、もしかしたら、料理人よりも上手いかもしれない。
そんなことより、特別な日に食べる料理を、なぜミシェルは今日つくっているのだろうか。
「ミシェル、あの人のこと意識してる?」
「してねえし」
「貴族みたいだからって、そこまで気を遣うと、かえって疲れさせちゃうかもよ」
「姉貴……意識するって、そっちの意味?」
「え」
「え」
「弟よ、頑張れ」
リカは自分の編み物のスペースから、持て余した糸を出した。レース編みには太く、ショールには細い微妙に使いづらい糸を買ってしまい、長らく放置していたのだ。
家の中の、鋲を打った場所に糸を引っかけ、我流の組紐を編む。必要な長さを編み、杖に開けた穴に通した。突貫にしては、我ながら上出来だ。
道具を片づけて家に入ると、家中に菓子の良い匂いがした。ミシェルお得意の、
「凝るねえ」
「うっせえ」
「尽くすねえ」
「うっせえ」
「喜ぶ顔が見たいもんね」
「うっせえ」
塩釜ポークも窯に入れる。
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