第17話 先に言えよ!

「ムッシュ! ムッシュ……!」

 何度も呼びかけてから、リカは自分が浅はかな行動をしていたことに気づいた。

 相手に呼びかけて意識の確認をすることは、大切だ。しかし今は、男性に意識はあり、頭を抱えながらもリカに対して何度も頷いていた。

「ムッシュ、うちで休んで下さい。おんぶしますから」

 男性は、下を向いてわずかに首を横に振る。どっちに対して拒否しているんだよ。

「肩を貸しましょう。うちに入って下さい」

 今度は、頷いた。リカは肩を貸して、男性を家に入れた。吐気、嘔吐がなければ、臥床させるのが無難だと判断し、ベッドを貸した。リカでなく、弟のミシェルのベッドを。

「……重ね重ね、申し訳ありません」

 虫の音のような小さな声で、男性が詫びた。眼鏡の奥の右目をきつく閉じ、眉根を寄せている。眼帯のせいで左目は見えないが、眉は難なく動くようだ。

「……今までも、何度かこういうことがあったのです……恥ずかしながら」

「意識が落ちるようなことでなかったことは良かったけど……どこか痛みますか?」

「……いえ。ただ、頭の中で鉛の玉が回り続けているような感じがするのです。医者に話したことがありますが、あまり気にしてもらえませんでした」

「その鉛の玉が回り続けている感じは、どのくらいの時間続きますか?」

 訊ねてから、リカは自分の無配慮を恥じた。具合が悪くて倒れた人に、こんなに話しかけるのは、あまりにも思いやりに欠ける行為である。

「……すみません。うずくまってしまうほど、つらいのに」

「いいえ。考えずに交わせる会話なら、今みたいに目をつむって横になっていれば可能です」

 男性は、わずかに眉に込めた力を緩めた。

「そうですね、落ち着くまで時間がかかります。2時間とか……2時間とか」

「吐いたりは?」

「それは一度もなかったです。今も、吐き気は……」

 何度目かの腹の音が鳴った。

「……空腹ではありますが、吐くほどではないです」

 男性は深く息を吐き、思い出したように口を開いた。

「耳の聞こえが、悪くなった気がします。聞こえるけど、鈍い気がしたり、自分の声が自分の中でこもっていたり」

「……そうですか」

 リカは、当たり障りのない返事をして、なけなしの知識を掻き集めて男性の症状の原因を考察する。

「ちょっと、触って良いですか?」

 男性の耳の下、骨のない、くぼみのような部分を押すと、男性は顔を歪めて痛がった。明らかに、

「痛い……けど、血が通う感じがします」

「良かったです」

 リカは祖母の知識技術を継いだ「魔女」でなければ、医者でもない。前世の見聞を元にした推測では、男性の症状はメニエール病に因るものだ。

 メニエール病は、内耳ないじのリンパが増え水ぶくれのような状態になることにより、難聴、耳鳴り、耳が詰まる感じなどの聴覚症状を伴うめまい発作を繰り返す病である。リンパ瘻、内耳梅毒、聴神経腫瘍、小脳や脳幹を中心とした中枢性疾患など原因既知の疾患もメニエール病と類似の症状が生じるため、鑑別が必要となる。

 メニエール病には厳密な判断基準があり、そのひとつが、症状を繰り返すという点である。

 メニエール病のめまいの発作は、めまいの持続時間は10分程度から数時間程度であることが多く、この男性のように激しく回転するような感じや、ふわふわ歩いているような感じなど、程度は人それぞれだ。

 リカの前世の社会では、メニエール病は若い女性に多くみられると言われていたが、その限りではない。前世のリカが勤めていた老人ホームでメニエール病で休職していた職員がいたが、その人は40歳になったばかりの男性だった。

 メニエール病を引き起こす原因は、心労、睡眠不足、疲労、気圧の変化、几帳面な性格などがあると考えられている。

「我ながら……大の大人が、だらしないです」

「そんなこと、ないです。疲れているんですよ。今は、休みましょう」

 人当たりが良く繊細そうな性格、距離感の掴めない視界によるままならない生活。人目を避けて生きなければならない状況。それらに追い詰められて症状が再発してもおかしくない。以前の生活でも、めまいを繰り返していたのだ。働けという方が酷である。メニエール病は完治する病ではない。心労を抱えない生活を送ることが一番の予防である。

「お茶と食べ物を置いておきます。好きに食べて下さい。弟特製のハーブティーは、おすすめですよ。あたし、外にいますね」

「何から何まで、申し訳ありません……いいえ、違いますね……」

 男性は目をつむったまま、わずかに口元を綻ばせた。

「……ありがとう、アンジェリカ」

「リカで良いですよ。皆から、そう呼ばれていますから」

 そうは言ったものの、この男性が発音する「アンジェリカ」の響きは、愛称の「リカ」と同じくらい心地良い。そんなことより、謝罪の言葉ばかり口にしていた男性が、意識して感謝の言葉に言い換えたことに、リカはわずかに安堵した。

 家の近くで、男性の杖の代わりになる木の枝を探していると、弟のミシェルが帰ってきた。片手に荷物をどっさり抱えている。

「ミュゼットが家出したんだと!?」

「うん、そうだよ……あたしのせいで、親父さんと喧嘩して」

 リカは、ミシェルから大量の荷物を受け取った。

村中むらじゅうその話題で持ちきりだぜ。でも、姉貴がどうこうってことじゃねえだろ。あの親父さん、評判を気にし過ぎる人だからな。皆、姉貴とミュゼットの味方だよ。同情されて、かなりの量の食べ物を持たされた」

 ミシェルがもらってきた食材は、卵、牛乳、酪乳チーズ、小麦粉、豚肉の塊もある。

「おつかれさま。しばらく休んだら?」

「そうする」

 ミシェルと家の中に入る。リカが台所で食材を整理していると、ミシェルが転がるように慌てて台所に来た。

「なんであいつがいるんだよ!」

「言うの忘れてた。いるよ」

「先に言えよ!」

 ミシェルは頬を紅潮させて息を切らせ、その辺に手をかけて項垂うなだれた。

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