第16話 別れた妻の話
草を掻き分ける音がして、マドロンは一瞬で青ざめた。意を決してリカに打ち明けた過去を、他の誰かに聞かれたかもしれない。
「見てくるね」
リカはすぐに、音のした方へ向かった。離れた場所に人影が見える。誰かが茂みを掻き分け、森の奥に向かう。その足取りは慣れたようで、この近くで生まれ育って慣れているはずのリカよりも難なく道なき道を進み、ついには相手の姿を見失ってしまった。
土地勘がないわけではないリカは、相手が進んだと思われる方へ向かう。その人がマドロンの話を聞いたとなれば、強く口止めしなくてはならない。偏見の目にさらされたマドロンがようやく掴んだ幸せな生活を、壊されるわけにはゆかない。リカの家の近くに民家はなく、普段から人通りも少ないから、屋外で喋っても誰にも聞かれないと思ったリカが浅はかだった。
がさがさ、と近くの茂みが動き、リカは声も出せずに無言で驚いた。
「あ、あの……どなたかいらっしゃるのでしょうか……?」
それ、あたしの台詞なんですが。そんなツッコミも喉から出ず。
茂みの中にしゃがみ込んでいたのは、水車小屋に寝泊まりしている男性だった。今日も質の良いの髪は陽光を受けて金色に輝き、左目は大きな眼帯で覆われている。
「ムッシュ!?」
「もしや、昨日のマドモアゼル・アンジェリカでしょうか……!」
「はい、アンジェリカです!」
マドモアゼル・アンジェリカと口に出しても、ジョフロワのようなうざさは無く、すんなり受け入れられる。
「アンジェリカ、大変申し訳ありません。杖が壊れてしまい、転んだ拍子に眼鏡を落としてしまったのです。一緒に眼鏡を探して頂けませんか?」
「もちろん、探します。ムッシュ、お怪我はありませんか?」
眼鏡はすぐに見つかった。男性の膝の近くにあった。
「そんなに近くにあったとは……私は自分が情けないです」
男性は眼鏡をかけ、安堵したように深く息を吐いた。
「杖、ありました。綺麗に折れていますね」
「ああ、やはり」
貴族が使うような立派な杖は綺麗に半分の長さになっており、もはや杖として使用不可能である。
「ムッシュ、立てますか?」
「ええ。申し訳ありません」
リカが手を差し伸べると、男性は眼鏡の奥の右目を細め、躊躇するような素振りを見せてから、リカの手を取った。リカは
「今日、お付きのかたはいないんですね」
「ジャンのことですか? 彼は、町に仕事に行っています。彼が日雇いの仕事をしてくれるので、どうにか慎ましく生活できています。私はこんなだから、働くことも難しくて……彼には迷惑をかけてばかりです」
男性は目を細めた。
「独りで外を歩かないよう、彼からはきつく言われていました。それでも、自分ひとりでできることを増やしたくて……」
「この辺りは建物があるわけではないので、目印が本当に少ないんです。迷わずに歩ける方が珍しいです」
「ええ……痛感しました。あなたに見つけられなかったら、森を
「そうならなくて、良かったです。とりあえず、うちに来ませんか? 杖の代わりになるものを探します」
「いえ、道に出られれば、後は自分で帰ります」
男性は穏やかに断った後に、腹の虫が鳴った。一度眉をしかめ、開き直ったようにあざとく小首を傾げる。
「道に出られれば、後は自分で帰ります」
「ムッシュ、うちに来て下さい。パンがたくさんあります。弟とあたしだけでは食べ切れません」
「ですが」
腹の音が鳴り止まない。男性は苦笑した。
「では、お言葉に甘えて」
「決まりですね。行きましょう。ムッシュ、あたしの肘の少し上を持っていて下さい」
「こう、ですか?」
男性は目を凝らして自分の手を伸ばし、リカが指定した肘の少し上に、的確に触れた。
「そうです。行きましょう。あたしの少し後ろをついてきて下さい。足元に気をつけて」
リカは歩みを遅くして、来た道を戻る。もしも誰かにこの様子を見られたら、リカに男ができたと誤解されてしまう。
「懐かしいです。別れた妻も、こうして歩いてくれました」
男性は、唐突に語り始めた。
「私が屋外で転んで眼鏡を落としてしまったとき、妻は一緒に眼鏡を探してくれました。眼鏡が壊れてしまったとわかると、妻は私を建物まで誘導して下さったのです。あなたと同じように、肘の少し上を持たされ、隣ではなく少し後ろを歩かされて。この歩き方は、
リカは話を聞きながら、よく喋るジョフロワを思い出した。あいつはうざいことこの上ないが、カミツレの香りを纏うこの男性の喋りは、耳に心地良い。いつまでも聞いていられるし、ついリカも喋りたくなってしまう。ジョフロワとは違う意味で、喋りやすい。
「奥さんは、何をしていたんですか?」
「妻は……人の上に立つ立場にいました。若いのに責任が重くのしかかり、いつも気を張っていました」
職業や身分ではなく、曖昧な表現だ。ただ、人の上に立つ、というのは、貴族のようでもある。
「私はを支えることができませんでした。私がいなくなることは、彼女にとって正解なのです」
男性はよく喋る割には、個人情報を漏らさない。
「話が逸れましたね。この歩き方をどこで知ったのか、妻に聞いたことがありました。妻は、つんとした様子で、知らないと答えました。何となく、これが良い気がしたから、と」
「……そうだったんですね」
リカは差し障りのない反応をしておいた。何に対して「そうだったんですね」なのか、リカ自身もわかっていない。
男性の言う「肘の少し上を持たされ、隣ではなく少し後ろを歩かされて」という歩き方は、リカが前の人生で知った、視覚障害者の歩行介助の方法だ。リカはそれが記憶に在ったから実践しているのだが、介護技術が発達していないこの社会の中で、視覚障害者の歩行介助を知って実践する者がいるのは、果たして偶然なのだろうか。この男性の妻だった者に会って話を聞いてみたいと思ってしまった。興味本位でしかないが。
「あ……しまった。ここで待っててもらえますか?」
家が見えてくると、マドロンを待たせていたことを思い出した。この男性は、あまり人前に出たがらない。追われている身なのかもしれないと思うと、村の者に会わせるのは避けた方が良いかとリカは判断した。
「マドロン、ごめん! 勘違いだったみたい! その辺を見てみたけど、誰もいなかった!」
「そう……動物だったのかしら。悪いことをしたわね」
「あたしこそ、早とちりをして、ごめん」
「いいえ。あたしの事情なのに、気にしてくれてありがとう。やっぱり、あんたは良い人よ。胸を張りなさい」
「あたし、胸なんかないよ」
「人並みにあるでしょう。って、何を言わせるのよ」
マドロンはリカの冗談で表情の曇りが消え、胸を張って村の方に帰っていった。
マドロンの姿が完全に見えなくなってから、リカは男性のところに戻った。
「ムッシュ、お待たせ……? ムッシュ!?」
男性は頭を抱え、地面にうずくまっていた。
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