第3章 看病の魔女

第13話 化けの皮が剥がれた

 また、あの夢だ。あの夢を見た後は、頭を打ったように意識朦朧としてしまう。

 証拠はないが、言い切れる。あの夢は、前世のリカの記憶だ。

 日本という国に生まれ、文明の利器が発達した社会で暮らし、医者とも家政婦とも違う介護という仕事に従事した少女が、リカの前世。今のリカなら虐げられていると感じる環境でも、世間を知らない少女は、それが普通だと受け入れていた。接する人全員から嫌われていたわけではないが、一番近しい人からの圧力が強過ぎたせいで、しばらくの間誰も少女に手を差し伸べることができなかった。最後の方の記憶では、かなりの人に好かれて充実した生活を送っていたが、あまりに報われない人生だったと思う。

 そんなことを思い出していると、「姉貴?」と呼ばれて肩を叩かれた。

「姉貴、聞こえる? 聞こえたら返事して」

 心肺蘇生法の第一段階でかける言葉だ。

「姉貴! おい!」

「あ……ミシェル」

 リカは我に返り、顔を覗き込む弟に気づいた。

「朝食、つくるね。洗濯も、畑仕事も」

「今日は寝てろよ。朝食なら、昨日もらってきてくれたパンがあるし、洗濯と畑仕事は済ませた」

「ありがとう……え!?」

 頭がはっきりしてくると、家の中の明るさに気づき、一気に目が覚めた。

「もうこんなに明るいの?」

「そうだよ。姉貴は今日は仕事が休みだろう? 調子が悪いみたいだから、休んでろよ。マソンのばあさんが気になるなら、俺が見に行ってくるよ」

「ううん、あたしが行く」

 ベッドから身を起こし、リカは昨日の出来事を思い出した。リカの表情が曇ったのを、ミシェルは見逃さなかった。

「姉貴、悪い。俺は姉貴を守れなかった。昨日、キャトルブールで起こったことが、もう村中に知れ渡っている。皆が皆、姉貴が悪いとは言わないけど、でも……」

 ミシェルは言葉を濁した。

「俺も、姉貴が悪いことをしたとは思えないし、姉貴を悪く言う奴を、ぶん殴ってやりたい」

「ミシェルは、何かされてない?」

「石を投げられたけど、打ち返してやったよ。投げた当人には当たらず、どっか遠くの草むらに落ちたみたいだけど」

 ミシェルは「打ち返してやった」と言いながら素振りの動きをしてみせた。

 この世界にはない、野球という球技のバッドを振る様を、リカは連想してしまった。

「ミシェル、あんたって子は」

 杖で石を打ち返す様を想像し、リカは溜息をついた。相変わらず、片足が不自由で杖歩行する人とは思えない言動に、この子なら強く生きてゆけるという希望と、姉なりの不安、両方とも感じてしまう。

「ばあさんが言っていたぜ。『生きとし生ける者全てに病の元が居ると思いなさい。看病をするときは手を洗い、血、涙、汗、つばに触るおそれのあるときは手袋や前掛けをして自分を守りなさい』って」

 ミシェルは良いことを言った気になって、いつものように、薬や酒瓶を籠に入れて出かけてしまった。

 ミシェルは良いことを言っていた。それまでの話から逸れたが、リカが忘れかけていた大切なことを言っていた。

 全ての人は病原体を保有している、と考えて、患者及び周囲の環境に接触する前後には手指衛生を行い、血液、体液、粘膜に暴露する恐れのある時には個人防具を用いること。これは、スタンダードプリコーションという考え方である。

 リカは、あの病の者に触れていない。だから平気。ミシェルはそう言いたかったのだろうと、リカは自分を納得させ、念のため室内の換気をするべく、窓を開けた。

「きゃ……っ!」

「マドロン!?」

 窓の外にいたのは、小柄な女性。マソン氏の息子、ピエールの妻である、マドロンだ。窓の下に座り込んでいた。マドロンがこの家にくるなんて、初めてだ。

 マドロンは、すくっと立ち上がり、豊満な胸を張った。

「昨日のこと、聞いたわよ! 行商の子が病の者に石を投げたところを、あんたが守ったのだって!」

 昨日の朝もこんな感じで、一方的に言いたいことを良い散らかしていた。

「化けの皮が剥がれたわね。あんたはあんまり喋らないけど、本当は色々考えて優しい人。これからは、化けの皮が剥がれたままのあんたで居なさい」

 リカは少々考えてしまった。これは、褒められているのだろうか。

「……あたしは、ただ、あの人の近くを通っただけだよ」

「故意に避けなかったわよね?」

「別に、必要以上に避けることもなかったし」

「だから、あんたは優しいの!」

「あたしは、優しくないよ。偽善だよ」

「偽善で結構。あの人は、きっと、あんたの偽善で救われたはず。あんたの言う偽善が、優しさになったのよ……別に、理解してほしいなんて、思わないけど」

 こんな風にマドロンがリカに話すなんて、初めてだ。

「……マドロン、朝食は?」

「とっくに食べたわ。今、何時だと思ってるの。おばあさんが、あんたが来ないと心配していたわ」

「ミシェルが行ったはずだよ」

「良かった。あのばあさん、身内よりあんたのことばかり気にするのよ」

 話があるなら朝食に誘おう、とリカは思ったが、失敗した。それなのに、マドロンはなかなか帰らない。

「お茶でも淹れるよ? ミシェル特製のハーブティー」

「……もらうわ」

 思いつきでお茶を振る舞うことになってしまったが、リカには、マドロンの心境がわからない。

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