第11話 リカの記憶④

 翌日の弁当は、「娘」の発案でロールパンをたまごサンドにし、寝る前に仕込んだポトフをスープジャーに入れた。

 少女は「娘」を見送って出勤する。昨晩はよく寝たが、それでも疲れが取れない。疲れたまま動き続けることには昔から慣れていたが、体を動かす仕事をしながら変わらぬ量の家事をこなすことに限界が見えていた。

「お嬢ちゃん、おつかれなの? あたしの隣の部屋が空いてるわよ」

 入居者に心配されるほど、少女は元気がないように見えるらしい。

 疲労とは別件で施設長に用事があり、少女は休憩時間に事務所を訪ねた。

「どうしたの?」

 「母」と同年代の施設長は、気さくに少女に声をかけてくれる。

「お弁当持ってきた? お昼、一緒に食べましょう。私にも子どもがいたら、あなたくらいの歳になっていたんだろうな。そうそう、紙とペン、使う? 何か飲む?」

 本当は筆談ではなく、喋りたい。働くまではコミュニケーションを取る必要がなかったので喋らなくても生活できていたが、今は言葉を発さない生活が難しくなっていた。病院に行って治療と発語の練習をしたいのだが、少女はあの「母」の庇護下から逃げ出せない状態なので、「母」のいないところでも病院に行くことが難しい。医療機関の受付時間に暇をつくることもできず、自分の保険証がどうなっているのかも、わからない。

 少女は紙とペンを借り、施設長に要件を伝えた。

 昨日会った、「娘」の友人のことだ。祖母の面倒を見るために、早く帰宅しようとしていた。

 ――老人ホームや訪問介護を探している人がいます。どうしたら良いでしょうか?

「ほおー」

 施設長は謎の溜息をついて、何度も頷いた。

「そういう相談をしてくれる人が、あなたにもいるのね。おばちゃん、嬉しくてないちゃう。ちょっと待ってて。うちの系列施設のパンフレットがあるから、出してくる。時間がかかるから、そこのテーブルでお弁当食べてて」

 少女は事務所のテーブルを借り、持ってきた弁当を広げた。

「少女A、どこでパン買ったの!?」

 事務所に戻ってきた、事務職員のお兄さんが少女の弁当を覗き込む。少女が首を横に振ると、お兄さんはさらに驚いた。

「え、だって、スーパーのパンじゃねえだろ? どんだけ手先が器用なんだよ」

「ちょっとー! 少女ちゃんをからかわないでよー」

 施設長は、お兄さんに声をかける。

「そもそも、少女Aって、ネタが古過ぎ。じれったいー」

「施設長もネタが理解わかってるじゃないですか!」

「私は世代だもん……少女ちゃん、プリントアウトしたいものがあるから、もう少し待ってて」

 一緒に昼食を摂るどころか、少女が先に食べ終えてしまう。

「お待たせ。パンフレットと、インターネットからダウンロードした、市内と隣の市の介護事業所の一覧。それと、私の友人が、介護に関する相談室をやっているの。友人の名刺も入れておくね」

 施設長は、資料一式をA4サイズの封筒に入れた。

「少女ちゃん、顔色が悪いよ。今日は休みなさい。仮眠室が空いているでしょう。18時まで使いなさいよ。代表が来たら、少女ちゃんは時間をずらして休憩していると伝えるから」

 意識朦朧として立ち上がることもできない少女に、施設長が提案してくれた。

「あなたがこんなに頑張っているのだから、私も頑張らなくちゃ」

 施設長がそう言った気がした。

 少女は、事務職員のお兄さんの手を借りて仮眠室に向かい、18時まで寝てしまった。目を閉じて1秒後に目が覚めたと思ったら、もう時間だった。

 怠けてしまった罪悪感に苛まれながら帰路につくと、見知った人に会った。「娘」とその友人だった。

「あ、妹ちゃんも今帰り?」

「一緒に帰ろう?」

 高校の制服を着た集団の中に、ぼろぼろの服を着た自分がいる。少女はさらに罪悪感をおぼえた。こんなに輝いている人達の中に自分がいて、良いわけがない。輪の中から抜けようとすると、友人達の中に、目的の人がいるのが見えた。

 あの、と声をかけることができたのか

自分でもわからない。彼女に会った施設長からもらった封筒を持たせ、ぺこりと頭を下げて逃げようとしたが。

「妹ちゃん、もしかして、昨日の話を覚えてくれていたの? ありがとう!」

 ぎゅっと抱きしめられ、少女は身動きが取れなくなった。

 交差点で友人達と別れ、少女は「娘」とふたりきりになる。

「今はまだ、身動きが取れないけど」

 「娘」は、赤信号を睨みつける。

「高校を卒業したら、家を出る。そのときは、あんたも一緒に来てよ」



 身動きが取れる時機は、案外すぐにやってきた。少女が働く老人ホームに、労働基準監督署が来たのだ。少女の勤務体制を看過できなかった施設長が、その実態を日の下にさらすために、自ら身を切ったのだ。

 少女が雇用契約書を交わしていなかったこと、勤務表に氏名とシフトが載っていなかったこと、給与が支払われないどころか勤怠管理システムに少女が登録されていなかったことが取り上げられ、法人の代表である「母」も調査の対象にされた。そこで、公私共に少女に酷い扱いをしていたことが発覚し、それまで「母」が圧力をかけていた警察も児童相談所も、ようやく動いた。

 少女も事情聴取を受け、自分が置かれていた状況が酷い環境だったことを知った。このとき生まれて初めて、少女は自分の名を知ることになる。以前「娘」が「母」話していた、父親と少女の母の事件が事実であったことも知った。自分がタダ働きしていたことも、人生を潰されそうになっていたことも。

 「母」は少女と「娘」への虐待も疑われ、家宅捜索が行われた。その最中、警察に目をつけられていたにも拘らず「母」は夜逃げした。手を貸してくれる知り合いがいたらしい。

 残された少女と「娘」は、父方の伯母に引き取られることになった。一人娘を育て終えた伯母は、ふたりを我が子のように迎え入れてくれた。事件の後ふたりのことを気にしていたが、あの「母」の独裁姿勢に介入できず、自分の子どもと離婚調停もあり、なかなか手を差し伸べることができなかった。

 市内の伯母の家から、「娘」は変わらずに高校に通うことができた。

 「母」の社会福祉法人は新しい代表が就任し、少女は今までの老人ホームで働き続けることができた。自転車を買ってもらい、通勤時間が短くなった。時期を遡って雇用契約書を交わし、銀行口座をつくって未払いの給与も支払われた。定時制高校に通うことになり、通学と仕事とプライベートの両立のために、時短任務になった。

 少女は病院にも通いながら、介護の勉強も惜しまず、休日は「娘」と同じ編み物教室と料理教室に通うことになった。それと、「娘」は予備校をやめ、バドミントンクラブの成人の部に参加し始めた。少女もバドミントンクラブに入り、一緒に練習を始めた。

 少女は見える景色が広がり、世界が輝いて見える気がした。

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