第10話 リカの記憶③

 「娘」が小中学生のときに所属していたバドミントンクラブは、社会人チームの練習日と予備校の講義が重なっていたため、「娘」はバドミントンクラブを退会させられていた。予備校は忙しそうだが、小中学生のバドミントンクラブの練習時間だった時間は、空くことになる。

「ただいまー!」

 休日。午前中の料理教室から帰ってきた「娘」は、内職をしていた少女の部屋に顔を出した。

「ミルフィーユカツのサンドイッチ、持ち帰っちゃった。これ食べて、バド行こう?」

 少女は、昼食の支度が途中だったことを思い出し、あせった。「母」は相変わらずどこかに出かけて居なかったが、「母」の分もつくらなくてはならないのだ。来週納品しなくてはならない内職も、完成の目処が立たず、作業がとどこおっている。

「あのババアの分もつくらなくちゃ駄目なんだっけ。私が料理したら、あいつに怒られるかな? 私が手伝えること、ある?」

 脱衣場で泣いて以来、「娘」は少女に心を開き、「母」がいないところで少女と接するようになった。幼い頃から頭も要領も良かった「娘」は、少女が喋れなくても言いたいことを察してくれる。

「じゃあ、内職やっておくので、ババ飯お願いします」

 ババ飯、の言い方に、少女は不謹慎にも笑ってしまった。喉が、ぐっと鳴った。

 キッチンの作業台には、二次発酵中のバターロールが良い感じに膨れていた。オーブンレンジの予熱を入れ、パン生地の表面に卵を塗り、予熱が完了するまで待機。その間に、ホーロー鍋でミネストローネを煮る。もう一品、冷蔵庫で寝かせておいた蒸し鶏でサラダにした。

「わ……あいつに食べさせるのが、勿体ない」

 焼成の匂いに引き寄せられた「娘」が、オーブンレンジを覗いて目を輝かせた。

 「娘」が料理教室でつくってきたミルフィーユカツサンドとミネストローネ、焼き立てのバターロールでランチにしてから、鬼の居ぬ間に洗濯、とばかりに家を出た。「娘」は、中学時代まで使っていたバドミントンのラケットとシャトルを持ち出し、自転車を押す。

「飲み物、用意してくれたの? ありがとう」

 パン焼きとミネストローネを煮る間に、水筒にアイスティーを用意した。「娘」には、普段から学校に持っていっている水筒を、自分には、「娘」が小学生のときに使っていたお下がりを。

「二人乗り、する?」

 「娘」に訊かれ、少女は首を横に振った。二人乗りは違反行為だ。冗談だよ、と「娘」は言うが、冗談に聞こえなかった。

「あいつは、警察にも児童相談所ジソウにも社会福祉協議会シャキョウにも顔が利くから、自分の行いを揉み消してもらっているんだよ。だから、あんたを虐待しても何のお咎めも受けないんだ。ほんと、世の中不条理だよね」

 虐待を受けている? 自分が?

 少女はにわかに信じたくなかった。

「昔は私もあいつの言いなりだったけど、今は違う。もう、あいつには負けない」



 市民公園に着くと、「娘」の友人らしき人が既に来ていた。

「えっちゃん、来られたんだ!」

「その人、例の妹さん?」

「初めましてだねー」

 あまりにも警戒しない女子高生達に、少女は戸惑った。少女は、妹ということになっているようだ。

 五月晴れの空の下、芝生の上でバドミントンが始まった。「娘」は経験者だけあって、誰よりも上手い。職場のレクリエーションも楽しいけど、これもまた新鮮味を少女は感じた。

「もうこんな時間。あたし、帰らなくちゃ」

 開始から2時間。「娘」よりも早く、帰り支度を始める人がいた。

「あたしのおばあちゃん、介護が必要なんだけど、訪問ヘルパーとか施設とか、なかなか空きがなくて、家族総出で面倒を見てるんだ。そろそろ帰って、弟を休ませてあげないと。じゃあ皆、明日学校でね。妹ちゃん、今日は来てくれてありがとう」

 彼女はヤングケアラーだ、と少女は思った。現実に引き戻された気がした。

「うちらも帰ろうか」

「えっちゃん、妹ちゃん、またね」

 解散の流れになり、皆で市民公園を出た。



 帰宅すると、既に「母」が家にいた。スマートフォンで通話中で、少女と「娘」に気づいても何も言わない。キッチンのバターロールとミネストローネは減っており、シンクに食器が置かれていた。少女はすぐに食器を洗い、洗濯物を取り込み、自室に入った。内職をやろうとすると、「母」が部屋にやってきた。

「大至急、追加で作業をしてほしいそうよ。でも、明日以降の仕事には行きなさいよね。時間を上手く使えば、このくらいできるのよ。いつも通り、夕飯もつくりなさいよね」

 「母」自ら、段ボール箱を少女の部屋の前に置く。少女の狭い部屋に入り切らない量だ。これらを完成させないと、部屋から出られない。禁止されている外出をしたことへの罰だと、少女は思った。

 やらなくちゃ。ファイト。

 自分に言い聞かせ、菓子箱を組み立てる作業を始める。しばらくすると、部屋の外で言い争う声が聞こえた。

「私が夕飯をつくるよって言っただけじゃん! そんなに問題視しなくても」

 「娘」が声を荒げていた。

「大問題よ。あなたは遊びに出かけるほど暇じゃないはずよ」

 「母」は冷静だ。それが「娘」をヒートアップさせる。

「あんた、間違ってるよ! あんたがあの子にやっているのは虐待だよ! 学校にも行かせないで家に閉じ込めて家事を強要して、熱々の料理を頭からかけて火傷させて、内職をさせて収入はあんたが回収。あの子が仕事をしているのも強制。雇用契約書は交わしてるの?」

「あなたが気にすることじゃないわ」

「やって良いことと悪いことがあるだろうが」

「やって良いことよ。だって、あいつとその母親のは……」

「とっくに知ってるよ。あの子の母親は、うちの父の病院で働いていた看護助手で、父に無理矢理手をつけられたって。あの子を産んで復職した後は愛人にされそうになって、断ったら殺されたって。あの子の母親は悪くないし、あの子も何も悪くない」

 少女は寒気を感じた。自分の出自を初めて聞いた。

「誰からその話を聞いたのか知らないけど、真実は違うわ。あなたのお父さんが看護助手に手を出したのは事実だけど、勝手に妊娠して勝手に出産したのはあの看護助手よ。私はを、責めるつもりは今もないわ。むしろ、お父さんは被害者よ。あの看護助手が、お父さんを訴えるなんて言い出すから、お父さんは看護助手に消えてもらおうとしたの。それを、看護助手はお父さんを突き飛ばしたとかで、お父さんは頭の打ち所が悪く……だから、あの看護助手とそのの子どもは、私達を地獄に突き落とした悪者なのよ」

「何度でも言うよ。あんたは間違っている。あんたのやっていることは、虐待。何があっても許されない」

「あいつに対しては許させるのよ……全く、今のあなたに何を話しても平行線をたどるだけね。この話はおしまい。頭を冷やしなさい」

 「母」の声が聞こえなくなり、「娘」がすすり泣く声が聞こえてきた。母娘のやりとりの間も、少女は出入り口に積まれた段ボール箱のせいで部屋からでることはできず、部屋の出入り口を確保して廊下に出るには内職の作業を進めることしかできなかった。

 自分は何もできない。腹違いの姉が、こんな自分なんかのために母親に立ち向かったのに。

 時間を確認する暇も惜しんで、菓子箱を組み立てる作業をする。ふと顔を上げ、部屋の出入り口を見ると、部屋を塞いでいた段ボール箱の量が明らかに減っていた。

「よっ」

 まだ積まれた段ボール箱の上から、「娘」が部屋を覗き込む。

「箱の中に作業の説明のプリントが入っていたから、勝手に手伝っておるよ。あの母親は、懇親会だとかで出かけたよ。夕飯は要らないみたいだから、うちらの食べたいものをつくろうよ。言いたいことを言いまくったら、気持ちがすっきりしたよ。相変わらず話が伝わらなかったけど、今日はこれで良し」

 「娘」の手伝いの甲斐あって、箱折りの内職は少女が思っていたより早く進んだ。夕食は、ミネストローネの残りとオムライスにした。

 夕食の後、少女は生まれて初めて湯の張った風呂に入った。湯船の中で寝落ちしそうなほど体の緊張がほぐれる気がして、その日は深く寝ることができた。

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