第9話 リカの記憶②

 変化が起きたのは、少女が老人ホームで働き始めて1か月が経つ頃だった。

 その頃の少女は、職場で完璧に浮いた存在になっていた。少女が誰にも口をきかないから、誰も少女に話しかけない。少女は自分でできることを探して業務をやっていた。シーツ交換は入職当時に教えてもらっていたので出来ていたし、掃除は幼い頃からやっていたので、新しく覚え直すこともなかった。

「機械的にしか動かないなんて、介護を舐め切っている」

「代表が連れてきた子だから、辞めさせるのも難しい」

「そもそも、勤務表に名前が載っていない人が働いているなんて、あり得るの?」

 誰もが少女を目の上のたんこぶのように評していたが、徐々に評価は変わっていった。

「あの子、何かあったのかな? あの子が飲み食いしているところを見たことがないよ」

「あの子が喋らないのは、代表のせい?」

「あの子、入居者の顔と名前はすぐに覚えみたいだったよね。入居者の話を聞いているとき、嬉しそうにしているし」

「そうかも。レクの体操も、なんだかんだで真面目にやってるよね」

「あの子のこと、代表に聞いてみる?」

「代表は私達の話なんか聞いてくれないでしょう。施設長に相談してみよう」

 施設長に相談した職員がいたが、少女は話の行方を知らない。

「あんた、たまには検食やってよ。検食簿の書き方教えるから。検食はお金かからないのよ」

「休憩中は寝ても平気なんだよ。時間になったら起こすから、安心して休みなよ」

「初任者研修のテキスト、読む?」

 少女のことを気にかける職員が増えた。

「喋れないんなら、筆談用のボードをつくろうよ。目の良い入居者様もいらっしゃるし、大きな文字を読めるかたは多いよ」

「マスクをつけて仕事しても良いんだよ。箱買いしたマスクがあるから、あげるよ」

 そうやって優しくされると、少女は困惑してしまう。自分が怠け者になってしまうのではないか。家にいるのが苦しくなってしまうのではないか。自分のような生活を送る人は珍しくないと思い込みたかったのに。



 平日の昼間に8時間働こうが、家でやらなければならないことは変わらなかった。

 母娘が起きる前に掃除、洗濯、炊事、労作、内職を行い、夜は母娘が寝静まってから水のシャワーを浴びる。浴槽の湯は「母」が払ってしまうから、その後勝手に湯を使うことはできない。水道光熱費で発覚してしまい、叱責されるからだ。

 少女は常に空腹で、眠気に負けつつあった。

 少女には縁がない、5月の大型連休最終日の深夜。少女は睡魔に負けて、狭い自分の部屋で寝ていた。ふと目が覚め、「母」が帰ってきたのではないかと青ざめた。

 玄関を見ると、「母」が帰ってきた形跡は、ない。いつも忙しそうに活動している「母」は、当然のように行先を告げずに出かけるので、少女も「娘」も「母」の行きそうな場所すら把握していない。

 キッチンの料理は、手つかずだった。家にいるはずの「娘」が飲食をした形跡も、ない。

 悪いことだと知りながら「娘」の部屋を訪ねようとすると、部屋から出てきた「娘」に出くわした。着替えを手にした「娘」に、かつての面影は、なかった。自分の母親を見下していた元気はどこにもなく、顔色も悪い。

 「娘」は少女に気づかずにすれ違い、風呂場に向かった。脱衣場の戸を閉める音がしたのを確認して、悪いことだと知りながら、少女は「娘」の部屋に入った。

 知識教養もなく世間の常識を知らない少女でさえ、「娘」の部屋の異様な空気を感じて全身が粟立った。

 「娘」の部屋は「娘」本人が掃除するように「母」に言われていたから、少女は近年、「娘」部屋に入ったことがなかった。

 少女が感じた異様な空気は、老人ホームの入居者の居室と似ていた。自分で動けずおむつを使用するような介護度の高い入居者は、個室を充てがわれても、職員が、介護しやすいように家具が配置され、物品が置かれる。自分の部屋でありながら、自分の部屋でない、という皮肉のような状況が生じる。

 「娘」は独立した一個人だ。それなのに、「娘」の自我に反して「母」が「娘」の幻影を投影したような部屋になっていた。

 大きくはない本棚右半分には、辞書や辞典、難関大学受験向けのテキストが隙間なく詰められ、左半分には習い事の道具が収納されている。高校に進学して勉強量が増えても、タブレットで課題提出することがっても、「母」は「娘」に習い事を続けさせ、予備校にも通わせ、それでも大学受験のテキストを与えていた。勉強机には、学校の課題と思しき教科書やノートがあり、画面を開いたままのタブレットも数学の計算の途中だった。少女は高校の勉強なんてわからないが、「娘」は意思とは関係なく勉強と習い事を強いられていると感じた。そういえば、「娘」は大型連休の間どこにも出かけていない。ふと思い立ってたんすやクローゼットを開けさせてもらうと、衣類は最低限しか入っていなかった。少女は「娘」のお下がりを「母」経由でもらっていたが、最近はお下がりをもらうこともなかった気がする。

 がたん、と物音がした。風呂場の方だ。少女がおそるおそる脱衣場の戸を開けると、「娘」が洗濯機に手をかけて膝をついていた。

 少女は思わず「娘」に駆け寄り、背中を叩く。呼吸はしているようなので、それに関しては安心した。

「……ごめん。グルチャの返事をしていて、まだお風呂に入ってないの」

 「娘」は顔を上げずに蚊の泣くような声を出した。少女が初めて聞いた、「娘」の謝罪だった。

 スマートフォンのグループチャットと思しきプッシュ通知には、次々とメッセージが来る。

 ――えっちゃんの気持ち、わかるよ。

 ――学校がバイト禁止なのにお小遣いもらえないの、つらいよね。

 ――今日会ったメンバーにも話したんだけど、今度は皆で集まって市民公園でバドミントンやろうよ。

 ――いいね!

 ――えっちゃん、出かけるの難しいかな?

 「えっちゃん」というのが、「娘」の愛称のようだ。

 少女も多少は知識を得たので、感じたことを言語化できる。「娘」は虐待を受けている。教育虐待、経済的虐待、心理的虐待。

 「娘」の呼吸が嗚咽に変わる。

「……ごめん……ごめん」

 何も悪くないのに泣きながら謝る「娘」を、少女は抱きしめた。少女は、自分の喉が疼くのを感じた。自分がこの子を守らなくてはならない。

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