第2章 リカの記憶

第8話 リカの記憶①

 少女は物心ついたときから、ある母娘と一緒にお屋敷みたいな家で暮らしていた。

 少女は学校に通うことなく、朝は母娘より先に起きて掃除、洗濯、炊事、労作、内職を行い、夜は母娘より先に就寝することはあり得なかった。

 母娘に話しかけるどころか、一切の発語禁止。命令は絶対。自分が風呂に入るときは湯の使用禁止。敷地の外に出ることは禁止。家の外から見える位置に居ることも禁止。少女が内職で稼いだ金は、「母」に回収される。

 買い物は「母」が宅配で注文し、勝手口に置かれる。少女は時間をおいて商品を回収する。

 料理は必ず2人前つくるが、食べるか食べないかは「母」の気分次第だった。食べないときは、熱々に加熱された料理を頭から、かけ流された。そのせいで、少女の頭皮はぼろぼろだった。少女が食べる食料はほとんどなく、「母」に水や電気を無駄に使ったと思い込まれると、時間の限りを尽くして罵倒された。

 少女は、自分の生活に疑問を持つことはなかった。自分のような生活を送る人は珍しくないと思っていたからだ。

 少女は自分の名も正確な年齢も知らない。名を呼ばれることはなく、学校に通わないので学年を把握することもない。ただ、母娘の会話を耳にしたときに、少女は「娘」と同い年だということがわかった。



 「母」は社会福祉法人の代表で、市内にいくつもの介護施設を展開していた。

 そんな「母」を、「娘」は軽蔑していた。

「あのババアは私達を支配することしか考えていないの。愚かだよ」

 「娘」は事あるごとに、「母」のいない隙を狙って、そう呟いた。

 「母」は「娘」に習い事を掛け持ちさせ、学習塾に通わせ、尚且つ通信教育も契約していた。「娘」は「やってらんない」と溜息をつき、通信教育の教材と提出課題を少女に丸投げした。少女は通信教育の教材でこっそりと義務教育の勉強をし、できる限りの知識を身に着けた。

「編み物なんて年寄りみたいなこと、格好悪い」

 編み物教室の宿題も、少女に丸投げだった。少女は家事と内職の合間を縫って、編み物もしなくてはならなかった。

 通信教育と編み物教室の宿題を丸投げしても、「娘」は学校で首席を維持し続け、編み物教室では先生の前で難なく編み進めていたらしい。「娘」は並外れた秀才で、多才だった。そのことを「母」に隠し、「母」も気づかなかった。

 「娘」の習い事の多さは、少女も理解していた。平日は学習塾、英会話、ピアノで潰れ、休日はバドミントンクラブと編み物教室、料理教室。

 普段から感情らしい感情が沸かない少女も、多忙を極める「娘」の生活に同情した。命じられた通信教育や編み物の宿題は完璧にこなして「娘」の負担が少しでも軽くなれば良いと思った。

「あんたは編み物をしているときは楽しそうね。それ以外は楽しくなさそうだけど、苦痛でもないみたい」

 「娘」から言われたことがあった。どんな気持ちで言ったのかは、わからない。馬鹿にしたようではなかったが、親しくなろうとしていたわけでもなかった。

「あんたが編み物をしていると、全然年寄り臭くない。むしろ、スマホをいじったりメイクする子よりも可愛く見えるのが不思議ね」

 醜い容姿の少女と違って、「娘」は美人で華があった。そんな「娘」から可愛いと言われたのが、意外だった。嬉しいという感情は沸かず、そもそも嬉しいという感情を知らなかった。



 「娘」が高校受験を終え、地元の私立の進学校に入学することが決まった日、少女は4月から老人ホームで働くことを「母」に命じられた。週5日9時から18時出勤で土日休み。嫌だという気持ちは沸かなかった。自分みたいに16歳になる年齢から働き始める人もいると思っていたからだ。

 「母」が代表を務める老人ホームは市内にあるが、徒歩で片道1時間かかる場所にあった。バスも電車も通っていない職場まで、少女は徒歩で行かざるを得なかった。自転車を買ってもらうことも、「娘」の自転車を譲ってもらうことも許されなかった。

 老人ホームでの介護の仕事は、家の中での掃除とは全く異なり、覚えなくてはならないことで頭が一杯になってしまった。長年家で発語を禁止されていたせいで声が出なくなっており、入居者にも職員にも声をかけることができない。

 あの子は我儘だと、どの職員も少女を指差す。それでも、少女にとってこの職場は新鮮に感じられ、生まれて初めてやりがいというものを感じた。

 優しく声をかけてくれる入居者がいる。配膳した食事を頭からかけ流されず、食べてもらえる。怒らない人がいる。それだけで、少女にとって天国のようだった。家での扱いには何も感じないが、浮き足立って出勤するようになった。

 「青い山脈」という歌を知ったのは、そのときだった。

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