第6話 恵まれた環境

 焼き上がったらすぐに袋に入れてしんなりさせるファルシュ。ハートのような形をしたブレッツェル。伸ばした生地を2枚重ねて菱形に切り、立ててふたつずつくっつけるスーブロード。棒状の長いパン、バゲット。冬が近づくと、干した果実をたっぷり練り込んだフリュイや、聖誕祭ノエルまでに欠かせないシュトーレンも店頭に並ぶのが例年の流れだ。

 パンの種類は豊富だが、庶民が買うのは主に、数日かけないと食べ切れない大きさのパンだ。

 バゲットは富裕層のパンだという認識が強い。実際、キャトルブール近郊の屋敷と契約し、屋敷の使用人が買いに来たり、ミュゼットの父親が屋敷にバゲットを配達している。

 朝と昼前の間の微妙な時間帯に、ミュゼットの父親がパンの配達に出ると、店の奥に引っ込んでいたジョフロワがいそいそと出てきた。

「ミュゼット、僕が店番をするから、きみは休むと良い。夜明け前から働き詰めのきみを、僕は見ていられないよ」

 うわ、こいつ、何を浮ついたことを言ってやがる。ミュゼットにかけられた言葉なのに、端で聞いていたリカは鳥肌が立った。

「ジョフロワ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて、休みまする!」

 ミュゼットが店の奥に引っ込み、リカとジョフロワが店番をすることになる。

「……親父さんに報告しますね。ミュゼットが、夜明け前から働き詰めだって彼氏に言われてた、と」

「マドモアゼル・アンジェリカ、あんたはやけに僕に突っかかってくるね。もしや妬いているのかい? あんたが心配することは、何もないさ。ミュゼットは、あんたのことを最高の友人だと仰せになるよ。僕が妬いてしまうほどね」

「まだ何も言ってませんけど」

 うざいうざいうざい。おどけているようで実は気遣いに徹しているところが、本当にうざい。

 ミュゼットの父親が外出すると店は男手がいなくなってしまう。その隙を狙って来店する者がいないとは限らない。ジョフロワが店番をすることは、抑止力になることを、ジョフロワ本人は自覚している。だから、勤労時間が長いミュゼットを休ませ、自分が店に立った。原稿は手にしたままだが。

「ムッシュ・ジョフロワ。これだけは言っておくけど、ミュゼットに何かあったら、許さないからね」

「その言葉、そっくりそのままお返しするよ、マドモアゼル」

 うざいことこの上ないジョフロワと、唯一気が合うのは、ミュゼットが大切だということだ。リカは友人として、ジョフロワは想い人として。

 客足が途絶えると、リカはミュゼットの父親が置きっぱなしにしていた朝刊を手にした。日付は、本日で間違いない。新聞はリカにとって数少ない情報源であり、社会との繋がりを実感できる数少ない手段であり、店番をしながら隙間時間に新聞を借りて読むのがささやかな充実感になっている。

 この時機タイミングで読む朝刊は、連載小説の部分が切り取られている。朝一番にミュゼットが切り取ってしまうからだ。ミュゼットの父親も、リカも、連載小説が読めないことで困ったことはない。連載小説の作者は、今まさにリカの隣で店番をしながら原稿に鉛筆を走らせているジョフロワなのだ。こいつの書いたモノを読むと、こいつの顔が脳裏にちらついて物語の内容が頭に入ってこないおそれがある。

 ジョフロワがマリー・マンステールという筆名で発表している連載小説「聖女は労働歌を唄う」は、社会を鋭く描いた物語の展開に、清らかなヒロインと危ない青年活動家の恋愛模様が絶妙に織り込まれ、ミュゼットが毎朝続きを楽しみにしている。ジョフロワが作者だと知っても、ジョフロワが「直接読ませてあげられるよ」と言っても、ミュゼットは頑なに新聞での連載を追っている。間違っても、リカではない。ミュゼットだ。

 リカが新聞の中で気にしているのは、女王陛下の動向だ。弱冠20歳の女王、イレーヌは、18歳で先代の王を亡くし、即位。5歳年上の公爵家の末子、ローランを王配おうはいとして迎えたが、1年足らずでローラン殿下は病で他界。以来、イレーヌ女王は再婚することなく喪に服し続けている。そんなイレーヌ女王は先日から隣国の王族を国賓として招き、昨日で全日程を終えたという。相変わらず、イレーヌ女王は喪に服したままだった。

 その記事を読んで、リカは、10年前の出来事を思い出してしまった。と同時に、彼女が国王としての務めを果たしていることに安堵した。

 客が来ないのを良いことに隅から隅まで新聞を読み尽くそうと意気込んだ直後、小さな記事に目が止まり、愕然とした。

 ――国は、癩病らいびょう患者とその家族が暮らせる施設を建て、彼らを保護する方針を打ち出した。

「は……っ」

 ハンセン病、と言いそうになり、リカは口を結んだ。今の世の言い方では、癩病、だ。

 ちらっとジョフロワを見ると、あろうことか目が合ってしまった。

「そんな目で見つめられても、僕はあんたに、なびかないよ」

「どんな目だよ!」

「助けを求める目」

「してませんから!」

 リカは新聞を立ててジョフロワとの衝立ついたて代わりにする。

 癩病は、皮膚の色が異常になったり、手足が変形する症状の出る病である。昔から、それこそ、聖書に書かれる時代から、「癩病の者は風下にいなくてはならない」と人々に認識される記述があるくらい、忌み嫌われている。身体的病状のせいだ。

 癩病は、衛生環境が感染と発症に拍車をかける病ではあるが、遺伝性の病ではない。だが、血筋による遺伝だと世間的誤解され、罹患者の家族も誤った認識のもと偏見の目にさらされる。

 リカは新聞に顔を埋めるようにして、溜息をついた。新聞の内容は、癩病の遺伝性を正当化し偏見を助長しているようなものだ。

「世知辛いな」

 ジョフロワが呟いた。

「だが、あんたはに物申せる立場だ。」

「物申せる立場なんかじゃ、ないですよ」

 リカは新聞を下げてジョフロワを見る。ジョフロワは紙に鉛筆をはしらせ、原稿を書いている。こいつは直接的に言わないが、リカの素性を知っている。リカも別に隠そうとはしないが、村の者でもキャトルブールの者でもないジョフロワが知っている風なのは意外だった。キャトルブールに頻繁に出入りしているから、情報量は住民と変わらないのかもしれない。

「医療や衛生面について、以前だったら、大臣だったシモン公爵家が口うるさく意見していた。だが、そのシモン卿は高齢と病を理由に息子に爵位を譲り、今は別荘で余生を過ごしているそうだ。家督を継いだ息子は、自身と長男の出世にしか興味がなく、権威ある者の言いなりだ。国のやり方に口を出せるのは、王族の血筋の者しかいない」

 ジョフロワは口も鉛筆も止め、腕を上に上げて気持ち良さそうに伸びをした。

「脱稿!」

「おつかれさまー」

 店の奥から、ミュゼットが出てきた。

「クッペ焼けたよー。食べよー」

 焼き立ての芳ばしい匂いが、リカの胃袋を刺激する。

「ミュゼット、休むと言っていたよね?」

「うん。だから、二次発酵させておいたクッペを焼いてたんだよ。具材たっぷり、店に出すのは勿体ない、まかないパンだよ!」

 牛乳たっぷりのカフェオレも淹れ、ミュゼット特製クッペで昼食にする。クッペを一口かじれば、腸詰肉ソーセージ馬鈴薯じゃがいもが、焼き立ての全粒粉のパン生地からあふれんばかりに出てくる。とろっとろの酪乳チーズもたっぷり詰まっており、食べ応え抜群だ。

 裕福な階級でもないのに読み書きを学び、心身ともにわずらわず、美味しいものを食べられ、大切な人がいる。恵まれた環境だと、リカは心底実感した。

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