第5話 いつものように
このマルグリット王国は、断頭台の惨劇の上に立つ国家だ。かつて王族に反旗を翻した貴族は、平民を率いて王族を廃した。その貴族は英雄として担ぎ上げられ、新たな国の王となった。100年前の話だ。今の王族は、民の目線に立つ謙虚な政治を心がけている。らしい。
キャトルブールは、そんなマルグリット王国と隣の国の国境に在る大きな都市だ。通行の要所として、物流だけでなく、隣の国とを行き来する王族や貴族が必ず通る都市でもあり、郊外には王族や貴族の所有する屋敷がいくつも存在する。木組みの家の街並みは、この地域独特のものた。
キャトルブールは、リカの住む村のすぐ近くにあり、リカは友人とその親が営むパン屋で働かせてもらっている。
凹凸の大きな石畳をいつものように歩き、糸が売られていないかいつものように店先や市場を目で追い、いつものようにパン屋に向かう。
いつもの街角に、小太りの男がいつものように居座っていた。街では有名な、評判の悪い男で、名はリカの弟と同じ、ミシェルという。
ミシェル氏の話は、マソンの息子のピエールが村の人に話していたのを小耳に挟んだことがある。
ミシェル氏は、ピエールの昔の友人で、ピエールと同い年。50歳くらい。昔は痩せていて、からかわれることが多かったという。家が貧しくて学校に通うことができず、幼い頃から働き詰めだった。家庭を持ち、印刷所で長く働いていた。
勤労家のミシェル氏に異変が起こったのは、ちょうど1年前だ。街角に居座ることが多くなり、飲食の量が異常になり、意味のわからないことを
「でも、不思議なんだよな。あいつは仕事中は真面目で、仕事をしている時間だけはおかしなところが何も無いんだ。この間、居酒屋で会ったんだけど、老後の人生設計の相談をされたよ。あまりにも気の毒だったら、一杯
同じ印刷所で働いていたという人は、ミシェル氏の異変に首を傾げていた。
ミシェル氏は悪魔に取り憑かれたわけではないと、リカは信じている。症状から判断して、病気の可能性が大きい。だが、検査して診断できる技術は、この世界には存在しない。リカがミシェル氏に手を差し伸べることは、ミシェル氏の悪評に拍車をかけることにしかならない。
うだうだ考えながら歩いていると、石畳につま先を取られ、つんのめった。
「あ……ありがとう……?」
リカは顔を上げ、相手にお礼を言ったつもりが疑問文になってしまった。
リカを助けてくれたのは、幾何学模様のつなぎに身を包み、黒い仮面で目元を隠した道化師だった。顎の輪郭が美しく、頬は白い。つなぎがだぼだぼと大きいため骨格がわかりづらく、女性なのか小柄な男性なのか、判断できない。道化師は仰々しくお辞儀をして、どこかに行ってしまった。
そんなこんなで、パン屋の仕事は、明らかに遅刻してしまった。
「遅くなって、ごめんなさい!」
「大丈夫だよー。いつも来てくれて、ありがとう。今日もよろしくね」
春の陽気のように穏やかに微笑むのは、リカの友人でパン屋の娘である、ミュゼットだ。艷やかでさらさらの黒髪をひとつに束ねた楚々とした美人だが、その実は、独自で酵母の研究に勤しむ変わり者だ。そしてなぜか、真冬以外は素足にサンダルという、足先に風通しの良い生活を送っている。
パン屋の朝は早い。村にパン屋があった頃、夜明け前には起きて準備をしていると、リカは聞いたことがある。パン屋の老夫婦に後継者がおらず、夫妻が他界して村のパン屋がなくなってしまってからは、村民はキャトルブールに出て山のような量のパンをまとめ買いするようになった。
ミュゼットもその親も、夜明け前に起きて作業をしているらしい。リカもその時間帯から出勤した方が良いと思ったことがあるのだが、思惑は早々に見透かされた。暗いうちから女の子がひとりで出歩くのは危ないから、昼間の明るい間だけ店番をお願いしたい、と。怒涛の焼成を終えたミュゼット達は、今は
「こちらこそ、今日もよろしくお願いします」
リカは店のエプロンをつけ、店に出る準備をする。店の奥から、深みのある男の声が聞こえ、リカは思わず頰が歪んだ。
「リカ、怒らないで、ね……? 彼も色々とあって、来ているのだから、ね……?」
ミュゼットが、おそるおそる小首を傾げる。ミュゼットは悪くない。彼女が怖がる必要は何もない。悪いのは、心の狭いリカなのだから。そんなミュゼットの肩を抱き、あいつは片目をつむってみせた。
「ごきげんよう、マドモアゼル・アンジェリカ! 今日も勤労日和だね!」
はい、来た。こいつ、また来たよ。リカは誰にも言えない悪態を、心の中で吐いた。
リカが、こいつと悪態をつくこいつは、ジョフロワと自称している20歳の青年だ。襟足の長く毛先の跳ねた赤毛をひとつに括り、街の人と何ら変わらない服装をしている。だが、育ちの良さは隠しきれない。本人は言わないが、立ち振舞いは洗練されている。会話も、わざと庶民的な語彙を使っているが、ふとした瞬間に、上流階級のような言葉遣いになる。だが、基本的に、うざい。全体的に、うざい。華やかな雰囲気が、うざい。嫌いではないが、こんなやつがミュゼットの恋人なんて、信じたくない。
ジョフロワは普段は王都に暮らす小説家で、新聞の連載小説を書いている。締切が近づくと、担当から逃げるようにキャトルブールを訪ね、ミュゼットの家に転がり込んで缶詰をする習慣がある。
「はいはい、ごきげんよう。優雅な勤労日和ですこと。お互い働きましょうね」
「うっ……
そのうざさに、リカは救われる。ジョフロワなら、気を遣わず何も考えずに何でも話せる。
「じゃあ、改めて。今日もよろしくお願いします」
リカは気持ちを切り替えて、仕事に入る。
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