第3話 前世の記憶が残っているみたいだな
「……めっちゃ良い匂いがした……カミツレのめっちゃ良い匂いがした」
「ミシェル、大丈夫? おーい!」
頰を赤らめて同じ言葉を繰り返すミシェルに、リカは呼びかける。ミシェルの反応を面白がって観察している場合ではなかった。姉として正しい行動は、弟を守ることなのだ。
リカはたまに、姉という感覚が欠落していると感じてしまう。ミシェルはれっきとした今の弟なのに、どこか他人のように認識してしまうのだ。
「あ……姉貴、ごめん。もう、立てるから。行ってくるよ」
ミシェルは杖をつき、村の方へ歩き出した。長年の杖歩行に慣れたせいか、歩くのは速い。リカが並んで歩くと、リカが遅いわけではないのに、なぜかミシェルの方が前に出てしまうことが多かった。
ミシェルは不自由な左足のせいで、走ることができない。速く歩けるようになって良かった。欲を言えば、左膝の可動域が90度以上になってほしかった。どれだけ機能訓練をしても、これ以上左膝が自由に動くことがない。椅子に座ることに苦労はないが、畑仕事に支障が出ている。
ミシェルが杖生活を送る羽目になった出来事が不意に脳裏を過ぎり、リカは頭を横に振った。
当時5歳だった泣きじゃくるミシェルを叱り飛ばしてでも、歩く訓練をさせて良かった。膝を曲げる練習をさせて良かった。母親や祖母に止められても止めないで良かった。そうしなければ、ミシェルは今以上に不自由な生活を送らなくてはならないのだ。
ひとりになったリカは気持ちを切り替え、初夏の日の下で作業に取りかかる。木を
「……生きているうちに、もっと調べておけば良かったな」
誰にも聞かれていないのを良いことに、リカは言葉をこぼした。
父親は生前、木工職人だった。家具を創り出す父親の背中を見て育ち、ミシェルが事故で左足に大怪我を負ったとき、父親と結託してミシェルを歩かせる器具を製作した。
父親は「悪魔の柵」と呼び、リカは心の中で「平行棒」と読んでいたその器具は、当時のミシェルの身長に合わせた高さに手すりを設けた、持ち運び式の柵だった。その柵を家の前に2本並べ、その2本の間に幼いミシェルを立たせ、柵に手をつかせて自分の足で歩く訓練をさせた。ミシェルが泣いて甘えても、リカは甘やかさない。歩く訓練をさせながら、屈伸運動もさせた。この場合は、1本の柵を両手で握り、両膝を屈伸させる。これも、ミシェルは涙が枯れるのではないかと思うほど泣いた。当時、リカは7歳。ミシェルは5歳だ。ミシェルは患側の可動域が完全に回復することはなかったが、後に村の人達は「ここまで歩けるようになるだけで奇跡だ」と口を揃えて言うようになった。ミシェルは最善の健康体の他に、強靭な精神、口の悪さを手に入れた。
ミシェルに厳しく歩く練習をさせるリカを見て、父親は言った。
「リカはまるで、前世の記憶が残っているみたいだな」
思えば、父親は、今のミシェルと似たようなことを言っていた。父親がリカを止めなかったのは、リカに何かを感じていたからだろう。そんな父親は、数年前に風邪をこじらせて亡くなった。「悪魔の柵」且つ「平行棒」はミシェルが成長するにつれて高さが合わなくなり、薪の足しにしたが、父親の工房は取り壊さず、リカが使っている。父親が描いた家具などの製図も、リカが保管している。
父親は最期に、もうひとりの家族だった者のことを話していた。あの子はうちに勿体ないほどの国の宝物だ、と。
懐かしい記憶に浸りながら、リカは木の匙にやすりをかける。紙のやすりがあれば便利なのに、と、この世界に不満が出てしまう。無いなら創れば良い。簡単なことではないけれど。
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