第2話 酒は飲んでも飲まれるな

 リカは畑の手入れを終え、別の作業を始める。外仕事用の木の椅子を、家の陰から初夏の日の下に引っ張り出し、椅子に腰かけた。道具を出して前かがみになると、目の前に小さなテーブルを出される。

「姿勢も目も悪くなるぞ」

 ミシェルが両手でテーブルを運んでいたので、リカは慌ててしまった。危ないからやめてよ、と言う前に、ミシェルは片足を引きずって家の中に入ってしまう。そんなミシェルは、すぐにまた外に出てきた。

「じゃあ、俺は薬を届けに行ってくるから」

 ミシェルは杖とバスケットを手にしている。バスケットにかけられた布からのぞくブツを、リカは見逃さなかった。

 リカは反射的に、大股でミシェルに歩み寄り、バスケットの布をめくった。

 ミシェルはあごを上げ、冷静に言い放つ。

「薬だ」

「お酒でしょう! 粉薬も、ちゃんと持ってるけど」

 バスケットの中におかしこまりしていたのは、ミシェルが調合して瓶に詰めた粉薬数種類と、こっくり深い色がにじみ出た酒瓶だ。

「酒は百薬の長。その言葉を教えてくれたのは、姉貴だ」

「言ったけど! 確かに言ったけど!」

「酒瓶を持っているだけで、飲む気満々だと結びつけるのは短絡的だろうが」

「そうだけど! 浅はかなのは認めるけど!」

 リカは天を仰ぎ、木漏れ日の、のどかさに現実逃避したくなった。

 祖母の「魔女」の役割を引き継いだ、目に入れても痛くない弟。その実は、すでに酒を嗜む15歳である。

 祖母は己の知識と技術を孫に教えるとき、香草や香辛料、食事と健康の関係性、酒のことまで教えていた。そういえば、祖母も酒が好きだった。

 祖母に似て酒好きなミシェルは、村や街の人に薬を届けるついでに、飲み友達と一瓶開けることも少なくなかった。今回もそうだと思って阻止したつもりだが、15歳の弟はすっかり開き直っている。

 ミシェルに何か言わなくては、と思っても、言葉が思いつかない。時間稼ぎにきょろきょろしていると、金髪の男性とのジャンがこちらに来るのが見えた。

「あー! おかえりなさい! ムッシュ、聞いて下さいよ!」

 金髪の男性は一度歩みを止めたが、通り過ぎようとしてしまう。

「ミシェルが! この弟が! まだ15歳なのに! 飲み友達とお酒を飲みに行こうとしてるんです! 何とか言ってやって下さい!」

 男性の歩みが、再び止まった。ジャンに何か呟き、杖の先で足元を確かめて方向を変える。家の前まで舗装はされていないが、土が踏み固められて足元は悪くない。

 ミシェルは逃げなかった。普段から『魔女』の役割として体の弱い人と接しているせいか、変に逃げたり煽るようなことはしなかった。「お、おう、無理すんなよ」と戸惑いながらも気遣いをする。ミシェルが逃げようとすれば、がっつり捕獲するつもりだったリカは、拍子抜けしてしまった。弟は良い子だ。酒飲みである点を除けば。

 男性の杖が、ミシェルの靴先に当たった。

「失礼。痛くありませんでしたか?」

「へ……平気っす」

「どうか、ご無礼をお許し下さい」

 杖を持つ手を替え、利き手でミシェルの肩に触れる。この男性が、ジャン以外に人と接する様子を、リカは初めて見た。

「目が悪いもので、自分が見ているものに自信がないのです。でも、良かった。間違っていない」

 ミシェルの肩に触れた手が、ニキビの跡の目立つ頬を軽く撫でる。視覚障害者が目の前のものを確認する行動だとリカは認識しているが、自分より背の高く大きな眼帯をつけた男性に、ミシェルは無言で動揺している。

「かつての妻がよく仰っていました。酒は飲んでも飲まれるな、と。あなたは、妻に似ています。その若さで酒に溺れるのは、大変惜しいです」

「お……溺れてなんか……っ」

 男性の、白く細い指が、ミシェルの唇に触れた。

「あっ! ごめんなさい!」

「……いえ、平気っす」

 ミシェルの頰がほんのり紅く染まり、目が泳ぐ。ミシェルの反応が面白くて、リカはふたりを。ジャンも近くまで来たものの、ふたりを引き剥がそうとはしない。

「天使の名を与えられた少年よ、この醜男わたしと約束してくれますか? 酒は飲み過ぎない、と」

「や……約束します」

 リカが何を言おうと言うことを聞かなかったミシェルは、見ず知らずの他人とあっさり約束してしまった。

「良い子ですね、ミシェル」

 男性は、ミシェルの頰を撫で、眼鏡の奥の右目を細める。

「旦那様、そろそろ」

 ジャンがやっと口を開いた。

「ええ、行きましょうか、ジャン。ごきげんよう、天使のような姉弟。お邪魔致しました」

 自らを醜男と卑しめた男性は、ジャンに支えられて歩道へ戻り、水車小屋の方へ向かった。

「あの! 良かったら、今度うちに遊びに来て下さい! うちの弟、薬に詳しいし、料理が上手なんです! 豪華なものはないけど、おもてなしします!」

 リカは声を張ったが、聞こえたかどうかわからない。名も知らぬ男性と、彼を守るように寄り添うジャンを放っておくことができなかった。

 男ふたりの姿が見えなくなり、リカはミシェルを放置していたことを思い出した。

「めっちゃ良い匂いがした……! カミツレの、めっちゃ良い匂い……!」

 ミシェルは杖で体を精一杯支えるが、リカが駆け寄ると姉に体を預けて脱力してしまった。15歳の童貞には、大人の色気は刺激が強過ぎた。

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