第3話 落着
ふと外を見ると、雨が降り始めていた。俺は運転席から降りると、後部座席に置いてあった傘を取り、外から扉を開けて美雨が濡れないように傘をさした。
「ありがとう」
まだ酒の余韻が残っているのか、転げないようにゆっくりと助手席から降りる美雨の腕を掴む。俺と美雨は腕を組みながら玄関まで向かい、俺は自分の鞄の中からキーホルダーについた鍵を取り出し、玄関の戸を開けた。それから俺はその鍵をキーホルダーから外して、玄関の靴箱の上に置いた。美雨もそれをチラリと見たけれど、何も言わずに靴を脱いで部屋に入る。俺は美雨から一足遅れてリビングに向かう。俺も美雨もコートを脱ぎ、ハンガーにかける。美雨が靴下を脱いだのを確認して、俺はさっき車内でそうしたように、彼女の唇に自身の顔を近付ける。美雨は拒まない。思えばこの5年間でも、俺の方から美雨にキスをせがんで、嫌がったことは数えるくらいしかなかった。二人の唇を重ねる。つい十数分前には、俺以外の男ともキスをした口だ。けれどそんなことは別に気にはならない。
俺が美雨に求めていたもの。
美雨が俺に求めていたもの。
その二つが、微妙に食い違っていたことに、少なくとも俺は気付いてやれなかった。それならば、言葉が足りなかったことを、言葉で取り返すのも惨めな気がする。
「ん」
美雨の口から小さく嬌声が漏れる。その声を聞いて、俺は彼女をゆっくりとリビングのソファに押し倒して、より激しく舌を絡める。俺は彼女の唇から自分の口を離す。それから彼女の胸元のボタンを外そうとしたところで、彼女は俺の腕をすっと掴んだ。
「……そっか」
俺は口から小さく息を吐く。初めて美雨をこの手に抱いた時、俺の心は歓喜と緊張で大きく震えた。けれど今、そうした心の動きは俺にはない。きっと、それは美雨にもない。けれどもそれとは関係なく、今の俺は彼女のことを抱き締めたいとも思う。この感情を愛と言う人もいるのだろうけれど、正直なところ、俺にはどう呼んで良いのかわからない。
俺は美雨から離れてソファに座った。彼女も起き上がって、俺の隣に座る。肩は触れない。
「拓海は私が他の人とキスするの、嫌?」
「だから別に」
「私はもしかしたら、嫌かも」
「勝手だな」
俺は彼女の言葉に失笑する。彼女の言うことは本当に勝手だ。俺は立ち上がると、寝室まで歩いて行った。財布やゲーム機器、それにお気に入りのシャツなど、最低限の私物を俺は鞄の中に詰める。その鞄をハンガーラックの端っこにかけた後、俺はまた美雨のいるリビングに戻った。
「兼木さんとは、どんな感じで?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
俺が言うと、美雨はバツが悪そうに咳払いをした。
「こんな風に」
美雨は俺の顎に手を当てて、くいっと持ち上げる。彼女の瞳をじっと見つめる。蕩けた顔は俺と彼女が恋仲になったあの日とそう変わらない。紅潮した頬は、きっと酒のせいに過ぎない。
「それから、こう」
今度は彼女が俺に覆い被さるようにして、俺をソファに押し倒した。その瞬間、一瞬だけ肩と肩が触れ合う。俺はそれに抗うことなく彼女の瞳を見つめ続ける。美雨は俺の顔を挟み込むようにしてソファに手をつく。膝もつき、俺は完全に彼女の下になる。彼女も俺の目を見た。目と目で見つめ合う。それに我慢できず、俺は噴き出し彼女の肩を優しく押し除けて、ソファから立ち上がった。
「帰るよ」
俺はそう言って、寝室の鞄を取りに行こうと歩き出す。俺と美雨も、酒の席から始まったもの。いつ変わってもおかしくない関係性が、ここまで続いたことに油断して、俺は美雨が隣にいることに安心し切っていた。彼女との関係を構築し続けることを、サボっていた。今、彼女が魅力的に見えたのは気のせいだ。
「どこに?」
寝室に向かう俺に、彼女は尋ねた。俺は一度足を止めて、彼女の方を振り向く。
「とりあえず実家」
「次、いつ会う?」
俺は美雨の言葉に、また失笑した。こういうことを言えるのが美雨だ。寂しさをも含んだ彼女の瞳のその奥で、何を考えているのやら。俺は先程まとめた鞄を寝室から持ち出した。
「また連絡する」
「そっか。わかった」
俺は美雨に手を振ると、玄関まで歩く。美雨も立ち上がり、俺を見送りに来た。俺も美雨も、この奇妙にも思える一連の流れを完遂する為の段取りが、お互いに話さなくても共有されているような気がした。
「それじゃ美雨、また」
「拓海。電話してね」
「ああ」
俺は美雨の顔を振り返らずに、玄関の戸を開けてその場を後にした。実際のところ、引越しの手続きから荷物の整理と、ここでたとえ俺が美雨と顔を合わせたくないと思ったとしても、そう簡単にいくもんじゃない。
俺はふと空を見上げた。寒空は曇り、吐く息は白い。星ひとつない空を残念に思いながら、俺はひとまず駅へと向かった。
⭐︎
それから半年が経って、俺は美雨と映画館に来ていた。俺が美雨を初めて映画に誘った時のシリーズはまだ続いていて、今日が新作の公開日だった。誘って来たのは美雨だった。あの日、美雨と住んでいる家を出てからも何度かほとんど事務的に美雨とぬるりと連絡は続けていた。俺と美雨が付き合っていたことを知っていた共通の知り合いは、俺と美雨が別れたことを知って、そんな未練がましいやり取りやめた方が良いと言っていたが、あまりピンとは来なかった。確かに、恋人との別れがこんなにも何ともないものだとは思っていなかった。フィクションで見る失恋はいつも劇的で、友人からの恋愛相談を聞く限りでも、恋人関係の清算というのはやはり、普通はそう簡単にいくものでもないらしい。
けれど俺と美雨はそれ以前に、俺と美雨だ。
電話では久しぶりにお互いのプライベートのことを話した。美雨はあれから兼木との関係は今も続けているらしい。俺と違い、兼木はキスよりも先に胸に手が伸びるのだとか、どこで覚えたのかマニアックなプレイを要求してくるのだとか、愚痴とも惚気とも判別の出来ない恋人との生々しい話を聞かされるのは、美雨と付き合う前によく聞かされて、もはや慣れたものである。人に言えば頭のおかしな奴扱いされるかもしれないが、俺は存外、その時間が昔も今も嫌いでない。
自分では理解のできない相手に、完全に美雨を取られた形になっていることにだけは言いたいことがある。そいつとの関係だってそう長くは続かないだろと思うが、わからない。俺と美雨だって、5年は続いた。俺の方も、実は職場の後輩によくデートに誘われるようになった。相変わらず仕事の要領は悪いし残業も増えたが、それでもこの半年の間に成果が少しずつ認められ、来月からは会社に入って初めてチームリーダーを任せられることになっている。
「お待たせ」
映画館の待合空間で、美雨を待つ間に先に二人分の飲み物とポップコーンを買って、上映開始時刻が近付いても、なかなかこない美雨に溜息をつきたくなりながら、ポップコーンを一口食べたところで、美雨がお洒落をして現れた。俺と付き合っていた頃には見たこともない露出度の高い服にヒールの高い靴を履いていたが、どちらも美雨にはよく似合っていた。
「今日の格好、良いじゃん」
「でしょ? こないだウインドウショッピングしてたら良い服見つけたなーと思って、兼木さんに言ったら買ってくれた」
「愛されてんじゃん」
「おかげさまで」
「もう映画始まるぞ」
「え、ヤバ。行こっか」
俺はポケットに入れたチケットを、急ぐ美雨に渡した。美雨はそれを笑顔で受け取り、飲み物とポップコーンを乗せたトレイを持ち上げた俺の隣につく。二人の肩と肩はぶつかりそうになるくらいには近付いたが、触れ合うことはなかった。
──完。
篠突く愛 宮塚恵一 @miyaduka3rd
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます