第2話 触合

❄︎


 俺が美雨を映画に誘ったその日を境に、美雨とは頻繁に連絡を取り合うようになった。美雨からはよく電話がかかってきて話をしたし、俺も遠出の予定があれば真っ先に美雨を誘った。そんな日々が一年くらい続いた、そろそろ年末で大学の連休も近付いていた何でもない日。俺と美雨は、美雨の家で酒を飲みながら、同世代間の中でも話題になっていた配信ドラマを観ていた。夕方頃から見始めて、一話から最新話までを一気見して、その間ずっと二人でドラマにやいのやいの言いながら酒を飲み、俺も美雨もそれなりに出来上がっていた。そのドラマは濡れ場シーンが多く、流石に気まずさを感じながら特に飲みたくもないビールをチビチビと飲む俺の心情を知ってか知らずか、美雨は俺の顔を横目で見た。


「ねえ」

「何」

「拓海って彼女いたことあるんだっけ?」

「……ないな」


 美雨の言葉に妙な焦りを感じて、少しだけ見栄を張ろうとしたが、ここで虚勢を見せたところで逆に格好悪いだろうがと思い直し、俺は正直に答えた。


「じゃあ童貞だ」

「そうとは限らないだろ」


 美雨の言う通りだったが、結局変な虚勢を張ってしまう俺だった。俺の回答に美雨は噴き出す。変なツボに入ってしまったのか、ひいひいとお腹を抱えながら笑う美雨の脇を、俺は軽く小突いた。


「美雨は──」


 当時の美雨に彼氏がいることは、当然俺も知っていた。こうして二人で遊ぶ時に、美雨から彼氏の愚痴を聞くこともしょっちゅうだったし、その頃の俺はその話をやきもきしながらも、何でもない風を装い、流すのが常だった。


「──別れたんだよね」


 俺の言葉に被せてくるように、美雨は口を開いた。


「へえ」


 美雨の言葉に動揺しながらも、俺はまたいつものように平静を装う。少なくとも、自分では装えているつもりでいる。美雨の肩が、コツンと俺の腕にぶつかった。成人式の日もそうだったけれど、俺と美雨はよくこうして隣り合って座っていたから、肩と肩がぶつかることだってある。俺は美雨の頭を見下ろす。不意に美雨が俺を見上げる。彼女の蕩けた顔から漏れる吐息と、俺のうるさい心臓の音が重なる。俺は美雨に顔を近付ける。美雨も同じようにして、俺達二人はそこで初めてお互いの唇を重ねた。

 それからの細かい流れは正直、あまりよく覚えていない。気付けばベッドの上で裸になって、抱き合っていた。俺が性器を舐めてほしいと恐る恐る美雨に言うと、美雨はまた笑い転げて、俺の頬を優しく叩いた後、美雨は俺の性器を咥えてくれた。俺も美雨の股間を舐めてお互いの性器を湿らせて、冬だというのに少しだけ汗ばんだ皮膚をくっつける。そして今度は唇だけじゃなく、二人で抱き締め合い、体を重ね合わせた。



⚡︎


 美雨が兼木との関係を吐露した後、俺達は車からすぐには降りなかった。

 二人付き合い始めた頃、俺は大学生で、美雨は専門学校通い。俺は理系の大学院まで進んだから、美雨の方が一足先に就職して、その頃から俺と美雨は同棲を始めた。俺は製薬会社に就職したけれど、同期と比べても要領の悪かった俺はなかなか出世の道にも進めず、美雨が嫌がるにも関わらず、深夜まで残業するのは当たり前になった。そんな折、美雨が事務職として勤めていた会社が倒産した。正確には、美雨の会社の社長が蒸発して親会社に吸収されてリストラの憂き目にあった、という流れのようだったけれど、俺は美雨の仕事の話を美雨から話さない限りは詳しく聞かなかったから、細かくはよくわからない。美雨が仕事をやめてからは、俺もできるだけ意気消沈する美雨の側にいようと残業をやめた。同時に、俺の仕事の質も大きく下がったが、そのことは美雨には伝えていない。

 翻って、美雨は俺の仕事もプライベートも関係なく、俺のことをよく知りたがった。俺も別にそうやって自分のことを聞かれるのは嫌じゃなかったから、自分の要領が悪く後輩に追い抜かれてしまっていることや、仕事で起こしてしまった小さなミスで上司に怒られた愚痴なんかを、週末には二人で酒を飲み、よく話していた。

 美雨が再就職先を探しながらも始めたのが、今のスーパーの仕事だ。リストラから暫く、家の中で呆っとしていることの多くなった美雨に、何でも良いから仕事をするのは自分の為になると思うと、俺からも勧めた。


「いつだよ」


 俺は美雨に尋ねる。美雨が実際にどういうつもりかはさておき、兼木の方は美雨の気持ちが自分に向いていると考えているのだろう。だからキスなんかするんだ。俺は自分のことを棚において、そこでようやく腹立たしさを覚えた。けれどこの感情は、俺と美雨が同棲していることを聞いてないわけでもないだろう兼木に対するものだ。


「二ヶ月くらい前、かな」

「結構前だな」


 それにも関わらず、美雨は俺と何食わぬ顔をして一緒に過ごしていたのか。


「それっきりのつもりだったし、拓海にバレなかったら墓まで持ってくつもりだったし」

「隠す気はあったんだな」


 俺にバレてもおかしくない車内でキスをしておいて、か。いや、美雨が別に嘘を言っているわけではないことはわかるし、やはり美雨のしたことに対して何か感情が動くような感覚はなかった。美雨と同棲を始めてもう五年は経つ。その間、ただの幼馴染、友達だった頃よりも色々なことを一緒にした。長い間そうしているうちに、二人の間で目新しいことがなくなってきたのも確かだろう。


「それは流石に車の中じゃないよな」

「流石に違う。兼木さんの家」

「その日も酔ってた?」

「酔ってた」


 俺は即答する美雨の言葉に小さく笑う。昔から美雨はこういう奴だ。それは幼馴染であるから余計に知っている。


「あっちから?」

「そうだね。兼木さんの方から誘って来た」


 兼木の内面のことを俺はあまり深くは知らないが、相手に彼氏がいることを知りながら女を誘う男は、俺はどうかと思う。普通ならそこでブレーキがかかるだろう。少なくとも俺は、美雨に彼氏がいた期間はずっと、擦り切れる程にブレーキを踏み続けていた。


「良い人なんだろうな」


 俺は半分嫌味たらしくそんな風に吐き捨てる。


「良い家住んでるよ」

「株かなんかで儲けてるんだっけ」


 確かそれは以前、本人から少しだけ聞いた。本業はフリーのライターらしい。空気感のあうバイトを続けながらも、株などの資産運用もして手広くやっているらしい。その辺り、要領が悪く出世街道にも乗れない俺とは真逆の人種だ。


「拓海からはあんまり、誘ってこないよね」

「ごめん」


 体力の有り余っていた大学生の頃はどちらからともなく唇も体も重ねたものだった。今は仕事で疲れているのもあるけれど、誘うことが少なくなったというなら、それは美雨もそうだ。お互い、二人でいる生活があまりに根付き過ぎた。


「歳かな」

「兼木さん、私達より全然歳上だよ」

「そうだな」


 結局のところ、どんな言い訳を並べたところで俺の気持ちが美雨に向いているのを彼女に示せなかったことは否定しようのない事実だ。


「美雨」

「何でしょう」

「言いたくなかったら言わなくて良いんだけど」

「今更?」

「まあそうか」


 俺は腕時計をチラリと見る。もう30分くらい、こうして静寂な車内で二人、隣り合って座っている。運転席と助手席では、肩と肩が触れ合うこともない。


「上手いの?」

「……ふ」


 噴き出すのを我慢しようとしていたのだろう。美雨は口を閉じながら、咽せるような仕草をしたが、その口元の歪みは隠しきれていない。


「笑ってんぞ」

「ごめんなさい。そうだよね。私が笑うのはおかしいよね」

「いいよ」


 俺は運転席の背もたれを倒して、少しだけ楽な体勢にする。


「拓海よりは大きい」

「ここに来てそれを言えるの、すごいな」


 浮気をしているのは美雨の方であって、本来ならもっと後ろめたくしてても良い。俺があまりそういう態度の美雨に腹立たしさを感じないから、俺は良いのだけれど。こういう部分含めて、俺は美雨が好きなのだ。


「優しいのは拓海の方かな」

「いらんフォローしないで」


 美雨につられて、俺も思わず噴き出した。美雨もパートが忙しく、俺もそんな美雨に寄り添いながら日々の仕事にも辛さを覚えてすれ違う生活が続いていたから、こんな風に二人して同じ話題で笑うのは、もしかしなくても久しぶりのことかもしれなかった。

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