篠突く愛

宮塚恵一

第1話 目撃

☁︎


 俺が悪いんだと思った。

 車内でキスをする二人。恋人のように首に腕を回す二人。そんな二人を見て、己の中に湧き上がって来るのは怒りでも嘆きでもない、ある種の諦観だ。曇った夜空の下、コインパーキングを照らす照明だけが二人を浮かび上がらせる。美雨みうとキスをしているのは、彼女のパート先の同僚だという兼木かねきという男だ。俺も何度か顔を合わせたことがある。兼木が美雨から顔を離し、車の扉を開いた。俺は彼から逃げるように遠ざかる。兼木は何やら美雨に話して手を振った後、駅に向けてフラつきながら歩き出した。パート先の同僚達との飲み会の後、車を運転できないから迎えに来てほしいという美羽からのメッセージを受け取って、急いで仕事を切り上げた自分が馬鹿らしくなる。


『駅、着いたよ』


 俺は美雨にメッセージを送る。すぐに既読マークがついて、お疲れ様スタンプが返された。それを見ても、やはり怒りのようなものは湧いてこない。


『いつもの駐車場?』

『うん』

『飲んだ?』

『けっこう酔ったかも』


 だろうよ。恋人が迎えに来るかもしれないことも忘れて他の男とキスをするくらいだ。

 俺は駅に向かっていく兼木を見送った後、一度コンビニに寄って、缶コーヒーとウコンを一本ずつ買った。それから『もう着くよ』とメッセージを入れて、改めてコインパーキングに向かう。遠目で、車の中の美雨を見と、助手席でスマホを弄っていた。兼木とやり取りをしているのか、SNSでもチェックしているのか。俺は運転席の扉を開けた。


「待った?」

「ううん、全然。お迎えありがとー」


 美雨は酔った調子で、にへらと顔を歪めた。その顔を見て、俺は無性にキスがしたくなる。酔って幸せそうに笑う美雨の顔は好きだ。


「美雨」

「んー?」


 俺は美雨の唇に、自分の唇を重ねる。近頃は美雨の方も恥ずかしがって、ろくにキスもしていない。美雨は少し驚いたように目を見開いたが、特に普段と変わらぬ調子で俺のキスを受け入れた。


「どしたん」

「可愛いな、と思って」

「なにそれ、バカ」


 美雨は困ったように笑う。その表情を見て、俺は先程目撃したことを口にするか迷う。彼女の方は隠しているつもりなのだろうか。

 俺は運転席に座り、車のエンジンをかけた。普段は特に気にもならないエンジン音が耳の中で嫌に響く。凪のような自分の心臓の代わりに激しく脈打っているのだと感じた。


「飲み会はどうだった?」

「楽しかったよー。二次会も誘われたけど、拓海いるし、少し飲みすぎたからさー」


 そう言って、美雨は呑気に欠伸をする。彼氏と別の男とキスをした後ろめたさがあるようには見えない。


「なあ、美雨」

「ん? なあに?」


 車は既に発進している。美雨の吐息が少しだけ近く感じた。ちらりと横を見ると、美雨が助手席から少しだけ身を乗り出してこちらを見ている。俺は彼女のその様子に、逆に得心した。美雨は俺とは反対に、嘘をつく時は相手と目を合わせようとする癖があるから。


「さっきさ、何してたの」


 俺は意を決して、そう口にした。暗い夜道を走らせる車内。運転の為、目の前のフロントガラスの向こうを注視しなくてはいけない俺には、美雨の表情までは見えない。


「キス、してたろ」

「……見てたか」


 助手席から、美雨の溜息が聞こえた。俺は唾を飲み込む。左折する為につけたウインカーの音がうるさい。


「実は私からも拓海、見えてた」

「そうか」


 次の言葉が続かない。車内の沈黙の中では、エンジンやウインカー、タイヤの滑る音がひどく大きい。


「許せない?」

「……別に」


 美雨の心を繋ぎ止められなかったというなら、それは俺の落ち度だと思う。美雨が選ぶことに、俺に文句はない。あまりにも隣にいるのが当たり前だから忘れていたことだけれど俺たちの今の関係だって、惰性で始まったようなものだ。



☀︎


 美雨とは小学生の頃からの幼馴染だ。とは言え小学生の頃は特に仲が良いわけでもなかった。ただのクラスメイトの一人。俺も当時は美雨ではなく、別に好きな子がいた。その子とどうにかなることはついぞなかったけれど、あれはきっと、いっちょ前に初恋だった。その子が俺に話しかけてくれるだけで心臓が飛び上がる程に高鳴り、彼女がどんな友達とどんな遊びをしているのか気になった。その子が日直で帰宅が少し遅くなる時は帰りの時間を合わせる為にわざと用事を作ったりもした。

 中学に上がってからもその子とは同じ学校で、そして俺のそんな態度は、その頃は一クラスメイトに過ぎない美雨にもバレバレだったようで、そのことは美雨と恋仲になってから揶揄われて初めて知った。美雨とは、小学生の時よりは仲良くなった。隣の席になったのをきっかけに、彼女の忘れた教科書を貸したり、数学の苦手な彼女に頼まれて勉強を教えるようになったり、クラスの中でも仲の良い異性の一人、という関係だった。そんな風に仲良くしていたものだから、初恋に向けていた恋慕の少しが美雨の方に向かうまで、そう時間はかからなかったように思う。俺は初恋の子に対してそうであったように、美雨と話す時、彼女が俺に笑いかけてくれた時、彼女が勉強で俺を頼りにしてくれる時、確かな温かみと胸の昂りを感じていた。

 とは言え美雨とは、高校生になってから特に連絡することはなかった。けど、当時は既にある程度仲の良いクラスメイトとはSNSの連絡先を交換していたし、たまに俺の投稿に彼女からコメントがあったのにドキッとしたりして、緩く繋がりは続いていた。

 美雨とまた実際に顔を合わせたのは、成人式後の同窓会の時だ。中学生の時と変わらない距離感で接してくる彼女に、俺は変にそわそわして、俺もその気持ちを隠しながら当時と変わらない調子で、他のクラスメイトにするのと同じように美雨と接した。彼女が引っ越して俺の通う大学の近くに住んでいたことも、その時初めて知った。同窓会の後、まだ飲める面子で二次会三次会と梯子した中に俺と美雨の二人ともいた。美雨が帰らないなら俺も帰る気はなかった。

 そうしているうちに、一人また一人と皆帰っていき、最後に残ったのは俺達二人だけになった。


「今日は楽しかったね」


 夜遅くの、人も少ない帰りの電車の中、二人きりで少し気まずさを感じていると、彼女の方からそう切り出してきた。


「そうだな。また飲もうよ」


 俺も同意する。酒が回っていたから、特に考えなしに本音が漏れた。


「うん、約束」


 俺の言葉に、彼女も嬉しそうに笑顔になる。同じ車両にいる乗客は、俺たち以外には椅子で横になって眠っているおっさんと、疲れた様子でヘッドホンをつけて目を瞑っているOLだけだったというのに、俺と彼女は隣同士に座って、肩と肩を触れ合わせていた。次の休みの日、俺の方から彼女をデートに誘った。中学の頃に二人とも好きだった映画シリーズのリブート作品が上映されるから一緒に観に行かないかと誘った。彼女にメッセージを送るまでには、当然めちゃくちゃ葛藤した。俺なんかがそんな風に誘って良いものか。俺はそもそも本当に彼女のことを好きと言っていいのか。そんな答えの出ないごちゃごちゃを考えていたが、意を決して誘いの言葉を送った。


 彼女からの返事はすぐに来た。『いいよーたのしみー』なんて、気の抜けた文面にホッとしながらも俺は一人、部屋でガッツポーズを取った。



☔︎


「なんでキス、したの」


 二人で同棲する家に向かう途中、沈黙を破って俺は美雨に尋ねた。美雨は小さく鼻息を吐く。


「兼木さん、誕生日だったんだって」

「何それ」

「だから良いかな、って」

「どういうことかわかんないって」


 俺はヘラヘラと笑いながら言う。やはり怒りは湧いて来ない。彼女の心が、昔よりは冷めていたことも、彼女今の生活に限界を感じはじめていたのもわかってる。だから、美雨に好きな男ができたとして、俺には文句を言う筋合いはない。


「言おうとは思ってたんだ」


 さっきは黙ってた、と喉元まで出かかった。俺が切り出さなければ、彼女が兼木とのことを口にしていたかも怪しい。その言葉を心から信じる程、お人よしでもない。

 頭の中がぐるぐると回る。運転中に切り出すんじゃなかったな、と俺はまた口を噤む。なんとか家の駐車場に車を停めてエンジンとヘッドライトを消した。


「酔ってたから?」


 俺は助手席でシートベルトを外した美雨に改めて尋ねた。美雨はシートベルトを掴んだまま手を止める。俺はまた彼女の両肩に手を乗せる。それからまた彼女に唇を重ねて、じっとその目を見た。


「あの人のこと、好きなの?」

「……嫌いじゃない」

「俺は、まだ美雨のこと好きだよ」

「ありがと」


 また車内に沈黙が流れる。今度はエンジン音もない、本当の静寂だ。耳をすませば、俺と美雨、二人の吐息だけが聞こえてくる。


「私、兼木さんと一度だけ寝た」


 次に沈黙を破ったのは、美雨の方だった。何か、固いものでガツンと背中から殴られたような衝撃こそ受けたものの、頭が真っ白になるほどでもない。心のどこかで、そんなこともあるだろう、と思う自分がいた。

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