せつない熱帯魚

秋犬

せつない熱帯魚

 気がついたら、俺は魚になっていた。


 最初はマジで焦ったが、どうしようもない。

 水槽の中でおろおろしている俺の上に、聞き覚えのある優しい声が降ってきた。


「はーい、たーんとお食べ」


 するとフレーク状の餌がぶわっと上の方に投入され、どこにいたのか俺みたいな魚たちが大挙して水面に押し寄せる。俺は餌より声の主が気になって、懸命に辺りを探った。水槽越しに見覚えのある景色が見え、そして見覚えのある女がそこにいた。エミカだ。


 俺は自分の彼女の部屋の熱帯魚になっていた。


 たしかなんとかテトラっていう、赤と青の小さい奴だ。名前は確かネオンテトラじゃなくて、違う奴なんだよな。えーと、なんだっけ。まあ、いいや。


 それから数日、俺はどうしたものかと頭を悩ませた。残念なことに魚は声が出せないし、泳ぎでエミカに何かを伝えようにも彼女はまともに水槽なんか覗かなかった。


 そもそも俺が魚になってしまったとしたら、人間の俺は一体どうなっているんだろう? 無断欠勤とかになるのか? そしてエミカはいなくなった俺のことを心配しないのか?


 疑問は尽きなかったが、俺は必死でこの水槽から脱出する方法を考えた。エミカが目の前にいるのに触れもしないなんて、一体俺はなんて惨めなんだろう。夜中に仕事で疲れて帰ってきて寝落ちしているエミカを前に、俺は彼女を慰めることができない敗北感を味わい続けた。


 何が悲しくて魚になんかなっちまったんだ。畜生、運命の馬鹿野郎。


 ***


 クソみたいな魚の生活に変化はなかった。エミカが餌を投入して、それを食って、あとはのんびりしているだけだ。魚って奴は退屈で仕方ない。


「邪魔するぜ」

「ごめんねーいつも散らかっててー」


 エミカが誰かを部屋に連れてきたようだ。

 ん? なんだこの軽薄で聞いたことのある台詞は……?


「ビール冷蔵庫に入れとくよ」

「ソファー適当に片付けててー」


 この恋人同士のような会話、間違いない。エミカがここまで気を許して、そして一緒にビールをソファーで飲む奴なんて俺はひとりしか知らない。


 俺の嫌な予想通り、俺が水槽の前に現れた。


 一体どうなってるんだ? あっちの俺が本物なのか?

 いや、それなら魚の俺はどうなんだ? あっちが偽物だろう?


 水槽の中から俺はエミカと俺の様子をじっくり観察する。人間の俺はエミカの私物がぐちゃぐちゃ置いてあるソファに座る。エミカはその後、スーパーで買ってきたらしい惣菜を皿に盛り付けて持ってきた。それから二人は一人暮らしの部屋には大きめのテレビを付けて、ビールで乾杯する。


 わかった、今日は日本代表の試合があるんだ。


 俺はいつも、エミカとサッカーの日本代表の試合だけは一緒に見ていた。唐揚げだのポテトだのイカフライだのを買い込んで、ハイネケンと一緒に観戦するのが俺たちなりの楽しみ方だった。そうか、今日はおそらくW杯アジア最終予選……対戦相手はどこだっけ? 畜生、水槽からは全くテレビが見えない。くそ、俺もサッカー観たい。


 仕方が無いので、俺はソファに座るエミカと俺の様子だけ見ることにした。何を話しているのか全部は聞き取れないが、「行け三苫! 行け行け行けー……ああああ~」とか「ナイスセーブ!」とかそういう盛り上がっているところは断片的に聞こえてきた。サッカーを観ている奴を観ているって、最高につまらない。


 俺が冷めた目で二人を見つめる中、試合は終了したようだ。断片的に聞こえてきた実況から、1-1の引き分けだったのだろうと判断する。畜生、俺も観たかった!


 ……待て。試合が終わった後、俺って何してたっけ?


「後半13分のチャンスで入れてたらなー」

「オフサイドになっちゃったからねー」


 帰れよ俺、多分今日は電車とかまだ残ってんだろう、な?


「じゃあ俺もゴール入れていい?」

「ここじゃ嫌」


 ああああ!


 畜生、俺の前でエミカとキスしてんじゃねーよ!!

 しかも酒臭い口でべたべたしやがって!!

 エミカはなあ、もっと神聖に扱うんだぞ!!


 この後のことを考えて、俺は泣きそうになった。残念ながら、水槽からはベッドがよく見える。おそらく俺もエミカもよく見える。見えるということは、そういうことだ。


 何が悲しくて自分がセックスしてるところなんか観なくちゃいけないんだ!


 恐ろしいことに、水槽の外では最悪の事態が進行していた。すっかりシャワーを浴びてさっぱりした彼女に、やっぱりシャワーを浴びてきた俺がくっついている。ヤる気満々じゃねーかこいつ、クソが! 


 しかし、ヤる前の俺の顔を見て俺はなんだか恥ずかしくなってきた。俺って、こんなクッソだらしない顔してたっけ? エミカの前ではカッコよくありたいと思っていたからいつも「キリッ」とした表情をしていたつもりだったんだけど、あれは「キリッ」ではなく「ふにゃっ」だな。すごくふにゃふにゃでだらしない顔。俺って、めっちゃかっこ悪かったんだな。


 ああ畜生、俺のせいでエミカのおっぱいが全然見えない! 退けこのクソが!


「最近疲れてない?」


 横たわるエミカの上で俺が尋ねる。 


「残業続きで。今日は早いほうなんだから」


 答えるエミカのおっぱいは、俺の手に包まれてよく見えない。


「だから転職しなって」

「でも今更就活とか面倒くさくない?」

「確かに」


 何やってんだよ、セックスの前に転職の話をするバカはどこのどいつだよ!? しかも就活の話しながらおっぱい弄ってるんじゃねえよ! ちゃんとムード作れよ、このバカ! 俺だったらなあ、もっとおっぱいを褒めてだな、おっぱいなんだからおっぱいのことだけ考えてろよ! 


 それにしても、前戯ってまだるっこしいな。女をその気にさせてやんなきゃいけないんだから、作業だよ作業。俺は最初の自己紹介の部分は飛ばすタイプだ。女がエロければいいんだよ。


 そう、エミカはエロいんだ。ちょっと気が強いところがあるけど、服を脱いだらふかふかで柔らかくなるところ、俺は本当に大好きだ。感じてるときは特にふにゃふにゃになって、俺以外にはこんな顔見せないんだろうなあっていい表情するんだよ。


 あー、俺は本当に何で魚なんかになっちまったんだろうな。そんで何で俺は俺のセックスをガン見しなきゃいけないんだろうな。世界で一番ムカつくケツでエミカが見えない。でもエロい顔してるエミカが見えれば、俺はまだ救われるはずだ。


「後ろからさせて」

「えー、いいけど」


 ちょっと待てよ、体勢変えられるとエミカの顔が見えにくくなるだろ!

 ああ畜生、マジでやりやがった!

 アホみたいに俺の前で盛りやがって畜生がよお!

 エミカももうちょっと焦らせよ!

 バックはちょい嫌がる女を無理矢理ひっくり返してこそのアレなんじゃねえのか俺!?

 お前本当に俺なのか!?


 そもそも、アイツ誰なんだよ。

 俺はここにいるぞ、じゃあエミカとセックスしてるアイツは一体誰なんだよ!?

 いや、そもそも何で俺魚になってんだよ。

 なんだっけこの品種……なんとかテトラにさあ、何でなってるんだ!?


 俺が悶々としているうちに、ベッドの盛り上がりは最高潮に達していた。聞こえるエミカの喘ぎ声に、俺の息づかい。なんかパンパンいう音に、なんかその、そういう音。


 俺は二人を見ていてだんだん気分が悪くなってきた。彼女が俺なんだけど俺じゃない男とセックスしているのを見るのも辛かったけど、それ以上に「人間って畜生なんだな」って痛感させられてしまった。無様な格好になっても快楽を求める。とにかく水槽の外の俺が無様すぎて笑えなかった。アヘ顔って男もするんだな。とてもだらしなくて、しまりのない顔。エミカのエロい顔もそうやって見るとすごく汚らしいようにも思えてくる。


 何なんだろうな、セックスって。

 こんなことして、何になるっていうんだ?

 ゴムつけてりゃ子供なんか出来ないし、ヤる意味あるのか?


「はぁ、はぁ……」


 俺が虚無の境地に至っているうちに、一回戦は終わったようだった。クソみたいな後始末をしている俺をよそに、エミカはさっさとベッドに横になっている。


「なあ、さっきの話だけどさあ……」


 後始末を終えた俺がエミカにすり寄る。我ながら気持ち悪い。


「さっき?」

「転職の話」


 まだ俺はそれを引きずるのか。確かにエミカは最近残業続きであまり家に帰ってこない。おそらく深夜に帰ってきて、水槽に餌を入れるくらいしか気力がなさそうだ。水槽の掃除もしたいのにゴメンねって、この前は話しかけてきたしなあ。


「だからさあ、今うち忙しいから抜けるのも悪いし……」

「それなら俺を理由にすればいいじゃないか」


 俺はらしくないくらい真面目な表情をしている。さっき抜いたばかりのくせに。


「今なんて?」

「だから、その……俺を理由に退職する、じゃダメなのか?」


 はあ!?

 何言ってんだこいつ!?


「でも、この前はもう少し考えようって……」

「今日も無理してるんだろ? 疲れてるよ、お前。とにかく休んだ方がいいって」


 ベッドの俺はエミカを抱き寄せる。


「……ありがとう」


 涙声のエミカがベッドの俺に手を回す。そしてまたキスをする。ふざけんな。


「俺だってちゃんと考えてるんだからな、いろいろ」

「いろいろ? 例えば?」

「そうだな……やっぱりもっとしっかりしないと、とか思ってる」


 しっかりする、か。そう言えばそんなことを考えていた日もあった気がする。


 エミカとは結婚を前提に交際しているけど、いざ結婚となったときに俺は何をしていいのかよくわからなかった。エミカは大事にしたいけど、結婚のためにやることが多すぎる。ひとつひとつが面倒くさくて、とりあえずなあなあにしてしまった部分は大いにあった。


「それで、この前占いに行ってみたんだ」


 そう言えば行った気がする。「結婚を前提に付き合っている彼女がいるけど、このままうまくいくかどうか」を占ってもらったんだ。


「それで、結婚できるって?」

「その前にもっと大人になったほうがいいってアドバイスされてきてさ」


 ああ、そうだったそうだった。それでなんかムカついたんだよな。


「占い師に『あなたのその変なプライドが邪魔をしている。プライドなんて魚の餌にしてしまいなさい』って言われたよ」


 ……そうだっけ?


「あはは、それでどうしたの?」

「言われてみるとそうかもしれないなって思って、この前エミカの魚に俺のプライド食わせておいた」

「やめてよ、テトラちゃんお腹壊したらどうするの?」


 エミカは笑ってる。ベッドの俺も笑ってる。

 水槽の中の俺だけ笑ってない。


「でもさあ。そこで叱ってもらって吹っ切れたというか、俺も大人にならなきゃなーって思ってさ」


 かっこつけてるんじゃねえよ俺。悔しいけど、少しかっこいいじゃねえかよ。


「ふふふ、じゃあしちゃおうかな」

「何を?」

「永久就職」


 エミカが俺にキスをする。俺もエミカにキスをする。

 長い長いキスだった。

 二人がキスしている間、俺は二人を見ていることしかできなかった。


 そうか、もう俺にできることは何ひとつないんだ。

 俺が俺を斬り捨ててしまったから。

 あそこで幸せそうにセックスしている奴は俺だけど、もう俺じゃない。


 確かに俺じゃない男がエミカを抱いている。でもそれは確かに俺なんだ。じゃあ、ここで二人を見ている俺は一体誰なんだろう。惨めで、幼稚で、哀れな魚。残念ながら、それが今の俺だ。


 エミカと俺の声が聞こえてくる。

 幸せそうな、つがいになった男と女の声。

 そこに俺はいない。

 魚は声を出せないんだ。


 どうして俺は俺を斬り捨てたりしたんだろう。

 俺よりエミカのほうが大事だったんだよな。

 俺だってエミカと幸せになりたかった。

 きっと頑張ればいい男になれたと思うし、幸せな家庭だって築けたはずだ。


 でも、俺は俺を捨てることを選んだんだよな。

 ずっと俺は俺として生きていくんだと思っていた。


 なあ、俺よ。

 お前は俺がいなくなって淋しくないのか?

 俺はとても淋しい。

 淋しくて、せつなくて、泣きたいのに涙が出せない。

 ここは水中だから、泣いたっていいはずなのに。


 魚は涙が流せないんだ。


 俺は俺と一緒に幸せになりたかったのに。

 俺を置いて、俺はエミカと幸せになる道を選んだんだ。

 楽しそうにイチャついて、セックスして、そして多分子供を作って、それで。


 ベッドの上では、俺とエミカが重なり合うように眠っていた。


 俺は俺とエミカの子供を想像する。

 きっとかわいいんだろうな。

 俺も自分の子供を抱いてみたかった。

 でも、俺じゃダメなんだ。

 エミカとのセックスしか考えなくて、生まれてくる子供を想像できなかった俺だから、こんな魚なんかになっちまったんだ。


 俺は二人を見ることを止めた。


 水槽の中はいつでも明るく、水が循環していて心地良い。

 定期的に餌も降ってくる。

 たまに掃除もしてくれる。

 まだよくわからないけど、多分一緒に泳いでいる仲間は優しい。

 置いて行かれた俺に相応しい、きらきらした場所だ。


 朝になって、ベッドのエミカと俺が起きてきた。


「今日は俺が水槽の掃除をやるから、ゆっくりしてろ」

「うん、ありがとう」


 俺が水槽に近づいてくる。


「なあ、この魚名前なんだっけ?」

「カージナルテトラだって言ってるじゃない、もう」

「ああ、そうだった」


 ああ、そうだった。


 水槽の外の俺と俺の心が通じ合った。

 やっぱりこいつは俺なんだな。

 それから俺は何だかひどく安心して、眠った。


 このまま俺が消えればいいのに。

 このまま幸せになる俺なんか見ていたくないのに。

 でも、俺のほうは見られ続けるんだろうな。

 俺は観賞魚だから。


 〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せつない熱帯魚 秋犬 @Anoni

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ