屠られる羊
利己
#01
「あら」
プラチナブロンドのマルセルウェーブをあしらった美しい女が声を上げる。しなやかな指先に巻かれたシガレットホルダーリングで煙草を吸うその女をこの潜りの酒場、スピークイージーでは皆ローズと呼ぶ。名に相応しくバラのように酒場を華やかにさせる女だった。
ローズは再度手に持つ雑誌を見つめた。
「なぁに?」
「レイがニューヨークを出るらしいわ」
「……レイってだぁれ?」
直線的なボブカットの黒髪を持つ女は間延びした声色でローズの言葉に疑問を投げ掛けた。ローズの隣に座るその女は鏡を覗きながら、耳元の髪の毛をヘアアイロンでカールさせる。
ローズが話題に出したレイという人物には関心が無いようで、細く垂れ下がった眉で彩られた女の顔が鏡を一心に見つめていた。
ローズは今年創刊された『ニューヨーク・ダダ』を手に持っていた。マルセル・デュシャンとマン・レイが刊行した雑誌だ。
「マン・レイ」
「……私、頭悪いからダダってわからないのよね。ピカビアはデュシャンとレイと仲違いしたの? ただ単にダダとは気が合わなかっただけ? ピカビア、急にダダを否定するんだもの。わかんないって」
ローズの話に興味を示さない黒髪の女の隣に座る、異常に短いブルネットの髪の毛を持つ女が声を上げる。
第一次世界大戦を逃れ、ニューヨークに渡ったデュシャンとレイ、そしてピカビアが中心に活動する反芸術運動をニューヨーク・ダダと呼ぶ。すでにある固定化された概念に対抗することを目的としている芸術だ。フランシス・ピカビアはこの反芸術運動を最近になって否定し始めた。
鏡台の前に座る3人のフラッパーは三者三様にダダを傍観していた。
「デュシャンのレディメイドを見た? 『泉』ってタイトル付けたって要は男性用小便器でしょ?」
チョコレートを噛みながらデュシャンについて批判する、ブルネットでショートヘアの女を皆ヴァイオレットと呼んだ。
ヴァイオレットは芸術を愛しているからこそ、ダダが気に入らなかった。ヴァイオレットとは反対に突如として表れたダダという運動に興味があるのはローズだ。『ヴォーグ』誌が並ぶ楽屋に『ニューヨーク・ダダ』を置いたのはローズだった。
ヴァイオレットの批判に肯定も否定もしなかったローズは煙草をひと口吸い上げ、『ニューヨーク・ダダ』に書かれた文字を読む。
「“ダダはニューヨークでは生きていけない”って書いてあるわ。……残念ね。パリのモンパルナスに拠点を移すらしい」
「そんなことより! 髪の毛上手くいかない! なんでローズもヴァイオレットもそんな綺麗に纏まるの?!」
ローズとヴァイオレットの真ん中に座っていた女は悲鳴を上げた。艶やかな黒髪はそのままでも美しいが、どうにも耳元の毛先をカールさせなければ気が済まないらしい。
「デイジー、あなた不器用過ぎるのよ」
ローズは『ニューヨーク・ダダ』を化粧道具が散乱する鏡台に置いて、デイジーの黒髪を触る。
ローズの言葉通り、デイジーは少々不器用なところがあった。前方にくるり、跳ね上げるはずの髪の毛はヘアアイロンからもたらされた熱を持っただけで、クセは殆ど付いていなかった。
不貞腐れたようにデイジーはヴァイオレットが楽しんでいたチョコレートを奪い、口に含む。チョコレートが奪われたことなど取るに足らなヴァイオレットは拗ねているデイジーを一瞥した。デイジーはよくローズとヴァイオレットから物を盗む。まるで三女のような存在であった。
「フィッツジェラルドが言っていたわ。“この世界では女の子は美しくてちょっとバカが一番いい”って」
「……デイジー、不器用とバカは違うわ。それにそれは彼じゃなくて、彼の妻、ゼルダが言っていたのよ」
「あら? たしかゼルダ、今年子供産むはずよね? もう生まれている?」
ローズとデイジーがF・スコット・フィッツジェラルドの話をしていれば、ヴァイオレットがオニキスがあしらわれた細長いイヤリングを耳朶に挟みながら会話に入ってくる。
コスチュームジュエリーも流行りだが、定規で真っ直ぐに線を引いたような幾何学模様が特徴であるアール・デコ調のイヤリングを身に付けられることは踊り子として成功していることと同義だった。
時代の流行はショートヘアやボブヘアなどの短髪であり、ニューヨークは
「たしか女の子だったはずよ。まだ生まれていないはず……10月が予定日って言ってた気がするわ」
「あのふたりの子だから美人なのは確定ね。……そして後はバカに育てるだけ」
ローズはラジオから流れてきた情報をヴァイオレットに伝える。それを聞いたヴァイオレットがくすり、笑いながら言葉を落とした。するとおバカな踊り子3人が顔を見合わせ、大声をあげ笑い出す。楽屋は一気に華やいだ。
ラジオ放送局KDKAが昨年の11月、ピッツバーグでラジオ放送を開始した。世界初の試みである。新しい物好きのこの店の主はすぐさまラジオを購入。KDKA、第一回のラジオ放送は11月2日の大統領選挙、開票結果であり、ウォレン・ハーディングの当選を知らせるものだった。
はじめはお堅い経済状況などを知らせていたラジオだったが、そのうちに著名人のゴシップや音楽などを流し始める。スクラッピー・ランバートの高音の歌声やデューク・エリントンが弾くピアノの音。また大女優グロリア・スワンソンが夫で実業家のソンボーンと不仲だとか、幅広く軽快にラジオは流れていた。
ローズはデイジーの頭を撫で、ヘアアイロンを手に持つ。華麗な手付きでアイロンをデイジーの髪の毛に当て、カールを作っていく。
「あなた、パーマをかけたら?」
「イヤよ! いくらオシャレになりたくても、ネッスルウェーブを被るなんてお断り!」
三女らしく気紛れなデイジー。ヘアアイロンが下手ならパーマをかければいいと提案されたが即却下する。ローズは溜め息を吐きながらもデイジーの髪の毛を整えていく。デイジーはローズの手により美しく仕上がった自らの髪の毛を鏡で見て満面の笑みを浮かべる。
「ありがと! ローズ」
「どういたしまして」
屠られる羊 利己 @rikoshyugi
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