約束
ときの
約束
人ならぬ身。
なのに、ひどく甘やかで柔らかな微笑みの、ただひとりの存在。
どれほど想っても、
かの存在には唯一の想い人があって。
ああ。
それでも。
それを断ち切ることは、俺にはできなかった。
いや。
叶わないと知っていたからこそ、想い続けることができたのかも、しれない。
――あの日の、ひとつの約束だけで。
***
それは、ほんの冗談のような、ちょっとした会話の中でのこと。
『じゃあ、もし俺がマモノに殺されそうになってたら!?』
『え、た、助けますよ、助けられる状態なら』
たったこれだけのやりとりだ。
君にとっては、本当に冗談だったかもしれないな。
大切なこと以外はすぐに忘れてしまう、プログラムを抱いた君。
きっと、覚えてはいないだろう。
コロン、と。
小さな砂糖菓子を、一粒口に放り込む。
その香りで一瞬のうちに蘇る、残酷なまでに鮮やかな光景は、あの日の午後の庭。
もう随分昔のことのはずだ。
けれど、つい今し方の出来事のように、それは全てが鮮明で。
旧時代の絵物語が、そのまま現実に現れたような、あの子の姿。
物語の主人公のように、ふわりと風に遊ぶ衣装を纏い、砂糖菓子を後ろ手に隠して恥ずかしそうに笑った。
特別綺麗なわけじゃない。
ただ、誰にでも好ましいと思われるように作られた容姿は、まだ浅い春の柔らかな陽光に抱かれて、砂糖菓子の香りと共に、俺の胸に甘く焼き付いた。
『クロマさんと仰るんですね。はじめまして!』
あの瞬間に、完全に全てを持っていかれた。
出逢う前から知っていた。
あの子は世界の要。
人知を超えた存在と契約をし、すべての『ケガレ』を清める役割を与えられた『浄化の器』と呼ばれるもの。
おとぎ話の中に聞いた『小さな守護者』だ。
――戦地特化型バイオノイド、『0』。
当時『0』は、友人のパートナーだった。
頑なだった友人の心を溶かし、穏やかな日々を過ごすようになった彼らに、俺は何があっても『0』には触れないと決めた。
その友人が、『0』を残して早逝した。
パートナーを亡くした『0』は、表舞台から姿を消してしまった。
時折、何者かがケガレを消したという話は伝え聞くものの、それが彼による浄化なのかは不明だ。
これほど長期に渡って完全に彼の足取りが掴めなくなったのは過去に例がない。行方不明の『0』を世界各国が血眼になって探しているが、結局現在も彼の所在はわからないままだ。
鉄錆の臭いと、陽光のように柔らかな甘さ。
舌先で転がせば、それはホロホロと崩れていく。
最後の小さな甘さを噛み潰し、錆臭さと一緒に飲み込んだ。
ゴポリ、と湿った喘鳴が耳に障る。
ああ。全く以て今更、だな。
もし、いまも彼の所在が掴めていたら、或いはこの状況もなかったのかもしれない。
……いや。本当に今更だ。
いま、目の前に在るケガレのマモノは、既に幾つかの地域国家を壊滅に追いやった。他方、ここより先に発生したというケガレも、壊滅的な被害を出していると聞く。
ケガレのマモノ同時発生という事態は、この世界で過去最悪の被害を齎した。
ケガレに対抗するために、各国に所属し、その力を『ゴウの証石』によって証明された狩人が招集された。だが、彼らはケガレによって悉く命を落とした。
世界に残る最上位ランク“透明”は俺一人だ。
――もう、あとがない。
砂糖菓子の最後の一粒を、口に放り込む。
噛み砕くと、その鮮やかな甘さは、ぐらつき霞む視界に意識の焦点を合わせた。
ぞろり、ぐちゃりと、粘液を引きながら大地を刮ぎ進む異形。
何かを探しているのか、行く先は迷うように定まらない。
うねり、蠢き、絡み合う暗紫色の巨大な触手6本と、僅かに人の顔の面影を残した頭部を持つ、『ケガレのマモノ』と呼ばれるもの。
かつてマモノとよばれていたそれは、『ケガレ』に侵され理性を失い、憎しみと狂気に歪んで、ついに異形と化した。
美しく輝いていただろう濃緑色の瞳は冥く淀んで濁り、乾いた頬の罅割れに、絶えず赤黒い血涙が染み込んでいく。
剣戟も魔法をも受け付けぬ柔軟かつ強靭な触手は、触れるものを抗いようのない力で破壊し尽くした。
異形の行く手を阻んだものはみな、等しく破壊され腐敗し、赤茶色の流れとなった。
そして俺も。
腐敗しはじめた脚は感覚も既に失い、寧ろまだそこにあるのかすらわからない。
腹の穴は致命傷だろう。
痛覚遮断だけはしたが、そう保つまい。
やれるだけのことはした。だが、最悪のケガレの前には遠く及ばなかった。精々、この先の街にケガレが辿り着くだろう時間を、ほんの数秒遅くした程度だ。
祖国から遠く離れたこの地で、俺も恐らくは跡形なく消えることになる。
ケガレの穢れる前の姿を残す顔が、こちらを向く。
その目に絶望が揺らぐ。
ほんの僅かな時間ではあれ、ケガレは正気に戻ることがある。
ケガレは、悲しみを両の目に湛えて俺を見つめていた。
滑る身体が大きく仰け反り、吼える。
アァァ……
ウアァァア……!
ケガレのマモノの慟哭が、汚染された大地を激しく振動させた。
何もない。何もなくなってしまった。
それはすべて己がやったのだと知って。
愛する我が子を手に掛けた親が泣き叫ぶように。
知性を宿す深遠な濃緑の輝きが、一筋、透明な涙を流した。
――私ヲ、コワシテ
乾ききったケガレの唇が、そう動いたように見えた。
お前は、救いを求めていたのか。
束の間戻ったマモノの理性が、再びケガレに侵食されていく。
怯んでいる時間はない。
咄嗟に、耳のピアスを引きちぎった。
左中指の金属爪で、親指のリングを弾く。
……この命、使い尽くしてやる。
ピアスに嵌め込まれていた宝珠が、キンと澄んだ音を立て、リングから生まれた音の金糸に砕かれる。
宝珠の破片は、音の金糸を纏って瞬時に加熱し、チラチラと黄金の燐光を放って、俺の周りに展開した。
極限まで知覚を高速化し、破片が放つ燐光の音すべてを捉える。
連鎖的に発生する音を、弓につがえた矢を引くように、加速エネルギーに変えていく。
高負荷の掛かった脳神経が、半ば暴走状態となり、次々と破壊されていく。
視界にノイズが走る。
白い光に喰われるように、視界が欠けていく。
……っ、まだだ!
微かな、甘い香り。
遠のく意識を、舌先に僅かに残った砂糖菓子の甘さがつなぎ止める。
マモノの瞳に僅かに残る深遠な輝きが、一瞬、ケガレの動きを封じた。
すべての音を力に変え、光が爆ぜた。
「……穢れを……祓え!」
――
天地を震わす迅雷のごとく轟音を伴い、無数の光がケガレを貫く。
宝珠の燐光はその軌跡を残し、やがて静かに大気に溶けていった。
唐突に、しん、と。
ほんの瞬きをするほどの時間のあと。
ずっとそうだったかのように、見渡す限りを覆った静寂は耳を貫く。
全身を射貫かれたケガレの六本の触手から、ズルリと力が抜け落ちる。
まるで沈んでいくように、巨体はゆっくりと汚液の広がる大地に崩れていく。
埃っぽい赤い風が、動かないケガレを撫でた。
やった……か?
狭まった視界に、ドロリと濁った濃緑が映る。
見ている。
淀んだ沼を思わせる、光を失った眼。
――しまった。
視線が交差した瞬間、ケガレの眼が振動し、不自然に見開いた。
音はしなかった。
ただ、左目から後頭部を、何かが微かな衝撃と共に射抜いた。生暖かいものが頬を伝う。
……ニオイとも呼べない、べっとりと纏わりつくような嫌なものを鼻の奥に感じた。
お返し、のつもりか。
あの瞳からの、恐らくは不可視の高エネルギー線放射だ。
左目は一瞬にしてすべての知覚を失い、何も感じなくなった。
平衡感覚が狂ったか、破壊された脳の領域のためか。残った右目の視界が、ぐらりと大きく歪んだ。
飛行魔法が保てない。
ああ、拙いな。落ちる。
ここはかなりの高度だ。
強化した身体だが、それでも落下すれば無事でいられるような高さではない。
もとより満身創痍。
ここまでだ。
制御が消え、ガクンと身体が重力に引かれる。
腐臭を乗せた風が、耳元で嘲るように唸った。
せめて一瞬で逝けるなら有り難いが。
地面が近付くのが見え、ただ目を瞑った。
――クロマさん!
不意に、名を呼ばれた気がした。
口の中から消えたはずの甘さと香りが、鮮やかに蘇る。
ぽふん、と軽く、柔らかな何かが背中に当たる。
それに身体が抱えられ、ふわりと浮き上がる感覚があった。
風を切る音は、強く鼓膜を震わす。
だが、大地に叩きつけられる衝撃は訪れない。
数秒ののち、着地したらしい微かな振動があり、サワサワと鳴る草の上にそっと下ろされた。
「ここで、少しだけ待っていてくださいね。絶対ですよ」
霞んでぼやける意識の中で、はっきりと聞こえた。
聞き覚えのある、包まれるように優しい、囁き声。
草を踏む足音が遠ざかる。
右目をゆっくりと開くと、狭まった視野に凛と立つ小柄な後ろ姿が入った。
……誰だ。
いや、まさか。
その姿は、荒れ果てた大地の中、ズタズタの姿で狂ったように蠢く巨大なマモノを前に、全く動じる様子もない。
まるで。
春の庭に遊ぶ小鳥のように軽やかで。
トンと片足で地を蹴り、両手に握った一対の小剣を煌めかせて、空に身を躍らせる。
間違いない。
あれは――『0』だ。
目を、奪われた。
あの背中には、きっと翼がある。
次々と襲いかかる触手を、『0』の小さな姿が踊るようにスルリと躱していく。
操られているのではないかと錯覚するほど、触手はひたすらに虚空を舐め、苛立ちもどかしげにうねっては、
双小剣に嵌め込まれた宝珠が、淡くほのかな光の軌跡を残し、太刀筋は閃く。
鮮烈な斬撃に触手の一本が切り離され、どすりと鈍く地響きを立てた。
苦痛から解放されたように緩慢に動く触手は、じんわりと淡い緑色の光に包まれ、まるで砂糖菓子のように、音もなくホロホロと光の粒子となって大気にほどけ、溶けていく。
触手が浄化されていく。
無惨に破壊されるのではなく、苦痛から解放され、世界に還っていく。
あの光は、喜びか。
もしかすれば、祝福なのかもしれない。
舞い踊る光の中で、『0』が動きを止める。
両手を無造作に前に伸ばし、両手の小剣の柄頭をトンと合わせる。
瞬間、光が弾けた。
双小剣は柄頭で結合し、なだらかな弧を描く、一本の曲剣となる。
刀身から迸る輝きが、衝撃波のように大気を撃ち、満ちた瘴気を消し飛ばした。
それは狭まった視界や意識からも歪みと濁りを拭い去り、網膜ははっきりとした像を結ぶ。
五本になった触手の動きが乱れた。
身構えるように縮こまるもの、戦慄き粘液を滴らせるもの、より激しく襲いかかろうとするもの。
そして、救いを求めるように、影に這い寄るもの。
それぞれに意思があるように滅茶苦茶な動きになり、ケガレの胴がメリメリと裂けた。
上がる叫びは、苦鳴か、歓喜か。
静かな声が、清冽な大気に響き渡る。
「悲しむマモノよ。あなたは、浄化を望むか?」
触手はひたりと動きを止め、這い寄る触手だけが、おずおずと『0』にその先端を伸ばす。
それに、『0』の小さな手がそっと触れた。
「わかった。……もう、安心して」
触手から離れた手は赤く爛れ、それでも曲剣をしっかりと握った。
すっ、と前に差し出した腕。
両手に握りしめられた曲剣。
歌うように。
唇から甘く薫るように。
『0』の唇が、コトバの魔法を紡ぐ。
「はるの ゆきどけ」
曲剣がふわりと仄かに光を放った。
「……もう、痛くないよ。おいで」
差し出された曲剣の温かな輝きに誘われるように。
触手は、今度は躊躇いなくその先を曲剣に伸ばした。
マモノの巨体が、淡い緑の光に包まれ、次の刹那――光の粒子が弾けた。
粒子達は、ふわりふわりと楽しげに揺れながら、そっと世界に還っていった。
ほんの僅かな時間の出来事だった。
雨上がりのような空の青さを映し、細波立つ透明な水溜まりの中に、腰に双小剣を戻す小柄な後ろ姿だけが残っていた。
よく見ればその身体は傷だらけだ。
……そうか。つまり、『0』は他のケガレも。
赤く爛れた掌で大切そうに拾い上げた、輝きのないひそやかな濃緑色の石。
『0』はそれを口に入れ、こくりと飲み込んだ。
青みの掛かる銀髪が清浄な風になびいて、キラキラと光が跳ねた。
「レギ……君……」
彼の名が零れた。
殆ど音になっていない俺の声に、彼は弾かれたように振り返った。
「遅くなってしまってすみません、クロマさん」
こちらに駆け寄り膝を折る。
剣を握るためのものとは思えない小さな手で、俺の頬を撫でた。
もう感覚は無いはずなのに、柔らかなその手を感じた。
温かい……な。
遠い空を切り取って嵌め込んだような、澄み切った薄い青の瞳が、いっぱいに涙を溜めて震えている。
悲しんでくれているのか。
「……ありがとな、嬉しいよ」
「あなたとは、約束、しましたから」
約束……?
――もう随分昔のことのはずだ。
けれど、つい今し方の出来事のように、それは全てが鮮明で。
砂糖菓子の香りで一瞬のうちに蘇る、心奪われた甘く鮮やかな光景は、あの日の午後の庭。
「僕、大切なことは忘れません」
「あんな冗談みたいな約束だったのに?」
ほんの少し微笑んで『0』は肯く。
「クロマさんの心からの願いだって、わかりました」
だから、ここに来てくれたのか。
「ホント、ありがとうな」
「……はい」
血に塗れた俺の頭を、躊躇いもなく『0』は膝枕する。
砂糖菓子の香りがする優しい指先が、頬や額を温めるように撫でてくれた。
これが、こんな状況でなかったら、どれだけ……
……いや。
この瞬間のなんと幸福なことか。
俺は、愛したものに看取られる。
心臓が、次第にかたちを失っていく。
だが、視野が殆どなくなった右目は、それでも真正面に『0』の綺麗な瞳を映している。
今、残った感覚は、すべてが『0』だけを感じている。
「おやすみなさい、クロマさん」
声が、春の光のように舞い降りる。
視界がゆっくり白くなっていく。
ポタリと目許に落ちた、一雫の温かさを感じながら。
――ああ。
悪くない人生、だったな。
約束 ときの @TokinoEi
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