約束
ときの
約束
どれほど想っても、
かの存在には唯一の想い人があって。
ああ。
それでも。
それを断ち切ることは、俺にはできなかった。
いや。
叶わないと知っていたからこそ、想い続けることができたのかも、しれない。
***
ただ一つの約束は、ほんの冗談のようなちょっとした会話の中でのことで。
『じゃあ、もし俺がマモノに殺されそうになってたら!?』
『え、た、助けますよ、助けられる状態なら』
たったこれだけのやりとりだった。
でもな。
大切なこと以外はすぐに忘れてしまう仕様の君。
きっともう、覚えてはいないだろう。
一瞬のうちに脳裏を過った、残酷なまでに鮮やかな光景は、あの日の午後の庭。
大昔の絵物語が、そのまま現実に現れたような、あの子の姿。
特別綺麗なわけじゃない。
ただ、誰にでも好ましいと思われるように作られた容姿は、まだ浅い春の柔らかな陽光に抱かれて、俺の胸に焼き付いた。
『クロマさんと仰るんですね。はじめまして!』
あの瞬間に、完全に全てを持っていかれた。
出逢う前から知っていた。
あの子は世界の要。
人知を超えた存在と契約をし、総ての穢れを雪ぐ役割を与えられた『浄化の器』と呼ばれるもの。
――『0』。
当時『0』は、友人のパートナーだった。
頑なだった心を溶かし、穏やかな日々を過ごすようになった友人と『0』に、俺は何があっても『0』には触れないと決めた。
その友人が、『0』を残して早逝した。
パートナーを亡くした『0』は、表舞台から姿を消してしまった。
完全に彼の足取りが掴めなくなったのは過去に例がなかった。行方不明の『0』を世界各国が血眼になって探したが、結局現在も彼の所在はわからないままだ。
ああ。全く以て今更、だな。
もし、いまも彼の所在が掴めていたら、或いはこの状況もなかったのかもしれない。
あいつの犯した“罪”というやつだ。
……本当に今更だ。
いま、目の前に在るケガレのマモノは、既に幾つかの地域国家を壊滅に追いやった。
過去最悪の被害を齎し、最上位ランクである“透明”を持つ者は、もう俺以外残っていない。
各国の最上位ランク狩人は、このケガレによって悉く命を落とした。
うねりのた打つ暗紫色の巨大な触手6本と、顔だけは人に似た姿を保つそれは、移動すれば治療不能な病を引き起こす瘴気を撒き散らし、体表からは近づくものを腐敗させる気体を発散する。
剣戟を受け付けぬ柔軟かつ強靭な触手は、あらゆる魔法を無効にする粘液までも分泌し、行く手を遮るものはみな、等しく跡形もなく崩れ去った。
そして俺も。
腐敗し始めた脚は感覚も既に失われ、寧ろまだそこにあるのかすらわからない。
腹の穴は致命傷だろう。
痛み止めだけはしたが、そう保つまい。
やれるだけはやったが、最悪のマモノの前には遠く及ばなかった。
祖国から遠く離れたこの地で、俺も恐らくは跡形なく消えることになる。
背後から襲いかかる触手の一撃からは辛うじて空に逃れられたものの、大量に吸い込んだ瘴気で内臓が溶け始めているらしい。
喉を上がってくる生暖かい液体が、咳込む度に軽鎧の前を赤く染めていく。
怪我だけならば治療も間に合うが、内から溶かされるとなるともはや手の施しようもない。
失血が早いか、心臓が腐るが先か。
ああ。せめて一矢報いたいが。
ケガレの穢れる前の姿を残す顔が、こちらを向く。
その顔に絶望が揺らぐのが見えた。
ほんの僅かな時間ではあれ、ケガレは正気に戻ることがある。
ケガレは、悲しみを両の目に湛えて俺を見つめていた。
怯んでいる時間はない。
咄嗟に、耳に着けていたピアスを引きちぎった。
左中指の金属爪で、親指のリングを弾く。
瞬時に超高温に加熱したピアスの宝珠が、チラチラと燐光を放って白く発光する。
――白光弾!
「撃ち抜けェェ!」
右手の先から放たれた白光が虚空に眩い尾を引き、真っ直ぐにケガレの右目を撃ち抜いた。
白光が無数の真空の刃を伴って、標的を撃ち抜く白光弾。一点突破する威力は、俺の持つ魔法の中でも群を抜く。
やったか?!
右目を潰されて倒れ込むマモノ。巨体が地に這うのを見てダメージを与えたことを確信する。
仰向けに倒れたマモノは、残った左目を俺に向け、カッと見開いた。
――しまった、油断した。
左目から後頭部を何かが抜けていく感覚。
嫌なニオイを鼻の奥に感じた。
やられた。
お返し、のつもりか。
恐らくは左目からの不可視の高エネルギー線放射か。
灼かれた左目は視力を失った。
平衡感覚が狂ったか、破壊された脳の領域のためか。残った右目の視界が、ぐらりと大きく歪む。
飛行魔法が保てなくなったな。
ああ、拙いな。落ちる。
ここはかなりの高度だ。
身体強化はしてはあるが、それでも落下すれば無事でいられるような高さではない。
もとより満身創痍。
ここまでか。
制御が消え、ガクンと身体が重力に引かれる。
せめて一瞬で逝けるなら有り難いが。
地面が近付くのが見え、目を閉じた。
不意に、誰かが囁く声が聞こえた気がした。
ポス、と軽く何かが背中に当たり、身体が抱えられるような奇妙な感覚があった。
風を切る音は強く鼓膜を打つ。
けれど、大地に叩きつけられる衝撃は訪れない。
数秒ののち、着地したらしい微かな振動があり、乾いた草の上にそっと下ろされた。
「ここで、少しだけ待っていてくださいね。絶対ですよ」
聞き覚えのある、声。
右目をゆっくりと開くと、狭まった視野に小柄な後ろ姿が入った。
……誰だ。
いや、まさか。
その姿は、荒れ果てた大地と荒れ狂う巨大なマモノを前に、全く動じる様子もない。
軽やかに地を蹴り、両手に握った一対の小剣を煌めかせて宙を舞うように駆ける。
一瞬で間合いを詰め、小剣が放つ銀光が四本の光条を描いた。
目も眩む閃光と爆音。それ自体が熱を持って純白の光を放つ大気の渦。
『浄化の器』が放った一撃が、触手を盾にしたマモノに炸裂したのが……濁った大気と歪む視界の向こうに微かに見えた。
断末魔も上げぬまま、マモノは灰となってボロボロと崩壊していく。
光に僅かに遅れて熱を孕んだ風がゴウと鳴り、頬を打つ。
汚泥と腐肉、そして灰と砂埃が、突如発生した上昇気流に巻き上げられ、青黒い空に呑み込まれた。
ほんの一瞬の出来事だった。
ケガレのマモノは跡形もなく消え去って、あとには、何事もなかったように、腰に双小剣を戻して立つ小柄な後ろ姿があった。
手にしていた淡い緑の石を口に入れ、躊躇うことなく飲み込む。
あの姿。
青みの掛かる綺麗な銀髪は、他と見間違いようもない。
「レギ……君……?」
殆ど音になっていない俺の声に、彼は振り返る。
「遅くなってしまってすみません、クロマさん」
こちらに駆け寄り膝を折ると、剣を握るためのものとは思えない小さな手で、俺の頬を撫でた。
もう感覚は無いはずなのに、柔らかな手に触れられたことが感じられた。
温かい、な。
遠い空を切り取って嵌め込んだような澄み切った薄い青の瞳が、いっぱいに涙を溜めて震えている。
悲しんでくれているのか。
「……ありがとな、嬉しいよ」
「あなたとは、約束、しましたから」
約束……?
「まさか、あの時の?」
「僕、大切なことは忘れません」
「あんな冗談みたいな約束だったのに?」
ほんの少し微笑んで『0』は肯く。
「クロマさんの心からの願いだってわかりました」
だから、ここに来てくれたのか。
「ホント、ありがとうな」
「……はい」
血に塗れた俺の頭を、躊躇いもなく『0』は膝枕する。
優しい指先が、頬や額を温めるように撫でてくれた。
これが、こんな状況でなかったら、どれだけ……
……いや。
この瞬間のなんと幸福なことか。
俺は、愛したものに看取られる。
心臓が一つ打つごとに弱まっていくのがわかる。
たが、視野が殆どなくなった右目は、それでも真正面に『0』の綺麗な瞳を映している。
今、残った感覚は、すべてが『0』だけを感じている。
視界がゆっくり白くなっていく。
ポタリと目許に落ちた、一雫の温かさを感じながら。
――ああ。
悪くない人生、だったな。
約束 ときの @TokinoEi
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