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 息を切らして古いアパートの外階段を駆け上がる。スニーカーがガンガンと激しい音を鳴らした。敷地の庭に植えられた木の中で、蝉がわんわんと鳴き声を上げている。まるで迫りくる波のようだ。

 呼吸も荒いままチャイムを押す。五秒待って反応がないのでもう一度。更に続けようとしたとき、チェーンロックを外す音が聞こえ、軋んだ音を立ててドアが開いた。

 ヨダカと呼んだつもりが、上手く声にならなかった。炎天下を駆けてからからの喉から、乾いた咳が出る。彼は唐突に現れた私の様子を見て、明らかに驚いている。その顔は随分疲れて眠たげに見えた。外が眩しすぎるせいか、より深い影が差し込んでいる。

「私のせいだ……!」

 必死に唾で喉を濡らした私は訴える。

「私のせいで、ヨダカはお母さんに会えなかったんだ」

 何言ってんのと彼が呟く声に、背後からの蝉の合唱が被さる。この期に及んで彼はまだとぼけようとする。いっそのこと、罵倒して責めてほしいとさえ思った。

「お母さんが亡くなったの、本当は二十二日じゃなくて、二十一日の明け方だったんでしょ。私たちが、一緒に海に行ってた時」

「違うよ、昨日電話で言ったじゃん、二十二日だって」

「高瀬さんから聞いた」

 眠そうな目を一度大きくし、彼は再び細めて苦々しい顔をした。

「高瀬に会ったの」

「さっき、引越し祝い持ってきてくれた」

「……口止めするほど、頭が回らなかったんだ」

 私の頬を流れる汗を見かねて、彼は「入りなよ」と身を引いた。私は躊躇いつつもそっと玄関に足を踏み入れた。

 以前と同じくがらんとした部屋だから、弁当の空箱や洗い残しの食器は目立っていた。六畳間に置かれた一台の扇風機が、電気の点いていない部屋でひたすら首を振っている。ヨダカは座卓で風に吹かれているコンビニ弁当の空き箱を、シンクに無造作に放り込んだ。

「適当に座っていいよ」

 コップを洗い、冷たい麦茶を入れて渡してくれる。乾いてペラペラになった喉が潤って、私はやっと一息ついた。それを見届けて、正面に腰を下ろした彼は観念したように頭を軽く振った。

「二十一日の真夜中、様子がおかしいのに夜勤の看護師さんが気付いたんだって。日和見感染がきっかけで、一気にショック状態に陥って。急いで処置したけど意識も不明瞭になって、夜明けに亡くなったって聞いた」

「……ヨダカには、連絡が来てたんでしょ」

 唯一の肉親である彼には一番に連絡がいくはずだ。彼は黙って、ズボンのポケットから取り出したスマホを畳に放った。あの晩、私がスマホの電源を切ることを提案しなければ、彼は母親の危篤を知ることができたのだ。

「ごめんなさい。私が、変な提案したから……。スマホの電源を切ろうなんて言わなかったら」

「終電は出てたんだから、間に合わないよ」

「タクシーを呼ぶとか、病院に行く方法はあったはずだよ。なのに……」

 私の懺悔を聞きたくないとばかりに、彼はごろんと仰向けに寝転がった。子どものように両手を左右に投げ出して、眠たそうに天井を見上げている。

「謝らせたくないから嘘を吐いたんだよ。分かってくれよ」

「でも、知っちゃったなら知らんぷりすることなんて出来るはずないでしょ」

「……高瀬のばか野郎」

 愛する大好きな母親への最後の願いを私は聞いたことがある。最期ぐらい、俺が看取ってやらないと。亡くなる瞬間に立ち合うことは、彼が不幸に見舞われた母親にできる最後の親孝行だった。

 なのに、その機会を私が奪ってしまった。後悔してもしきれない。そのうえ彼は、私に嘘を吐いてその罪を気付かせないよう立ち回っていた。いっそおまえのせいだと罵ってほしいと願うのは、我儘だろう。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 私は項垂れてただ謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。あの一言さえ言い出さなければ、彼は母親との別れを望んだ形で迎えられていただろうに。

「だから謝らないでよ。過ぎたことなんだし」

「だって、私が」

「唯依のせいじゃない、ただの偶然。運が悪かっただけだ」

「でも……」

「人間いつか死ぬんだから、大したことじゃないんだよ」

「うそだ……!」

 私は仰向けに転がる彼を見つめて声をあげた。悲鳴にならないようにするので精一杯だった。

「大したことじゃないなら、そんな顔しないよ。とても大切なことだったって、今のヨダカの顔を見たらひと目でわかるよ」

 彼が勢いをつけて起き上がった。そのまま座卓にごんと額をぶつけて動かなくなる。髪がすっかり顔を隠して、頭を振る扇風機の風に合わせて青色の房がなびく。

 今日この部屋で見るのは、ひどく疲弊し憔悴しきった顔だった。何キロも走った挙句、ゴールを見つけられず途方に暮れた眼差しだった。身体の芯の大切な中心部分がすっぽり抜けてしまった危うさがあった。そんな彼を見るのは、初めてだった。

 きっと母親の死に目に会えていれば、彼はもう少しましな姿でいられただろう。最後の思い出を作れたら、それが救いになったに違いない。

 母の死に戸惑いつつも懸命に普段通りを装った結果、彼は空虚さを抱えてしまった。

「俺、そんなひどい顔してる?」

 くぐもった声で呟いて、彼はゆっくり頭を上げる。私が黙って頷くと、へへっと頬を微かに上げて笑った。ぎこちなさのない、自然な笑みだった。

「たくさんのものを食べてきたんだ。父さんとか、母さんとか、あいつだとかの人生を」

 とろんとした瞳のせいか、笑顔は少し困っている風に見える。

「生きてるだけで、俺は食い潰してきた。特に母さんの生き様は、俺がぼろぼろの穴だらけにしちまった」

「でも、それはお母さんが選んだことでしょ。ヨダカを連れ戻したのは、お母さんなんだから」

「違うよ、選んだのは俺だよ。言っただろ、母さんと行くか父さんのところに戻るか聞かれたって。母さんを選んだのは、俺だった」

 私はぶんぶんと激しく頭を振る。ちがう、ちがうとただ否定の声が零れ落ちる。それはただの責任転嫁、六歳の子どもに押し付けた母親の無責任の塊だ。賢いヨダカがそれを理解していないはずがない。ただ、それとこれとは完全に違う問題なのだった。

「たくさん食べたから、もういらないよ。これ以上は、何もいらない」

 痩せた身体で、彼の心は拒食に陥ろうとしている。何も求めない人生は、なんと空っぽで虚しいものだろう。現実に命を落とさずとも、彼はそんな道を選ぼうとしている。

「じゃあ、私がヨダカを食べる」

 自暴自棄な彼の目を覗き込み、その深い闇の中に私は言った。

「ヨダカが痩せたら、私も飢えるよ。私はあなたしか食べられないんだから、死んじゃうかも」

 私にとって一番大事な人。あなたを食べて、私は生きる。

「俺を齧ってばっかとか、ひどいな」

「お腹が空いたら、私を食べてよ。これでおあいこだよ」

「何言ってんのかよくわからない」

 この想いを伝えるために、何万文字の言葉を重ねても足りることはない。私は隣りに膝をついて彼を抱きしめた。お互いの肩に頭を乗っけてじっとしていると、微かな違和感があった。彼が両手を垂らしたまま私の肩を服の上から軽く噛んだのだ。このまま力を込めて、指一本残さず食べ切ってほしい。齧って噛んで飲み込んで、私の存在全てを消して、お腹を満たしてくれればいい。だから、すぐに彼が口を離してしまったのが、とても残念だった。

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