4章
42
午前五時を過ぎて朝陽が海を照らす頃、私たちは始発の列車に乗って帰路に着いた。互いに泣き腫らした顔を見て照れ笑いをして、座席で少しだけ眠った。同じ駅で降りて、それぞれ眠い目を擦りながら手を振って別れた。
それから二日間、私はまた家事とバイトと絵を描く日々に追われた。スマホやSNSなんて関係なく、いつでも繋がり合えている相手の存在はとても心強い。砂浜で描いた絵をどう仕上げようか考えを練りながら、毎晩わくわくして眠りについた。
更に二日が経って、そういえばあれからしばらく連絡を取っていないことに思い至った頃、ヨダカからメッセージが届いた。バイトの休憩中にお弁当を食べながらスマホを眺めて、目を疑った。
母さんが亡くなった。
彼のメッセージに含まれた文言に目が釘付けになる。お箸がテーブルへ落ちた音に我に返り、慌ててメッセージを読み直す。とはいえ彼からの情報はほとんどなく、母親の病状が悪化して息を引き取ったことしか分からなかった。
誘拐してまで父親から彼を奪った人。連れ込んだ愛人と共に彼を蔑んだ人。彼を殺してお金を得ようとした人。
そして、彼がこの世で一番愛している人。
そんな人がこの世から去った。
激しい動悸の中、ヨダカに電話をかけようと画面に指を滑らせる。「秋月さん」と声を掛けられてはっとした。休憩室のテーブルでお喋りをしていたおばさんたちのグループが心配そうにこっちを見ていた。
「どうしたの、すごい剣幕だけど」
手元に転がるお箸を見つけて、私は「なんでもないです」とぎこちない笑顔を作る。どきどきと弾けそうな心臓を抱えて、取りあえずメッセージだけを送ることにした。電話をかけて繋がったとして、どうしたらよいのか。母親を亡くしたばかりの彼に、何という言葉を電波に乗せればよいのか。
ヨダカは大丈夫? そんな当たり障りのない内容を送って休憩を終えた。その後のバイトは散々で、ケアレスミスを繰り返しては怒られるよりも心配された。なんとかバイトを終えて確認したスマホに、返信は来ていなかった。
帰って夕飯を済ませ、絵を描こうとパソコンに向かった時、デスクの上でスマホが振動した。メッセージではなく電話だ。慌てて手に取り、相手も確かめずに電話に出た。予想通り、相手はヨダカだった。
「遅くにごめん」
「ううん、そんなこと。それより、その……」
「お母さん、死んじゃったよ」
静かな声は取り乱してなどいなかった。混乱や戸惑いの影はなく、ただ深い悲しみと疲労の色だけがうかがわれた。
「だから、少し忙しかったんだ」
「そうだったんだ……お母さん、いつ亡くなったの」
少しの間が空いて、「二十二日」と返事があった。「容体が急変して、夜が明けた頃には、もう」
パソコンのカレンダーには、今日は二十五日とある。三日前の明け方、彼の母親は亡くなった。彼が悲しみの頂点にいた時、知りようがなかったとはいえ呑気に普段通り過ごしていた自分が悔しくなった。
「その、今は落ち着いてるの……」
「母さんの方には、少しだけ親戚がいたんだ。数えるほどだけど。葬式とかいろいろやってくれて、俺は帰ってきたところ」
「会いに行っていい?」
思いがけず懇願するような声が出た。迷惑に違いないと分かっているのに、彼が一人ぼっちであの部屋にいることを思うと、居ても立っても居られない気持ちになった。
「……ごめん。今は、会える気分じゃない」
申し訳なさそうな声に、自分の思慮の無さに気が付く。
「そう、だよね。私こそごめんね」
「落ち着いたら、連絡するから」
彼のその言葉を皮切りにお休みを言い合って、五分にも満たない通話は終わった。私はしばらく椅子に座ったまま、手元のスマホの真っ暗な画面を見つめていた。本当は今すぐ走って彼の元に行きたい。会って抱きしめて、元気を取り戻すまで力になりたい。
それが彼の望むことではないのだから、私にできるのは待つことだけだ。
母親の死の瞬間、彼はどんな思いでその顔を見つめていたのだろう。手を握っただろうか、呼びかけただろうか、泣いただろうか。誰にも代えられないたった一人の家族を、たった一人で看取った彼の心は、私の知る悲しみという感情の中には収まりきらない気がした。
どうか、一日でも早く彼が元気になりますように。この願いは浅はかだろうか、愚かしいだろうか。ペンも握らずただ座ったまま、私は頭が痛くなるまで考えていた。
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