41
独白を終えたヨダカは、砂浜に向けた目をじっと伏せている。私は何も言えずにただ同じ場所を黙って見つめる。思い出したように波の音がよみがえり、頭上からは星の瞬く音が聞こえる。微かな風が吹いて、私の膝に乗せたスケッチブックから色鉛筆が転がった。音もなく砂に落ちた青い鉛筆を拾って、スケッチブックと共に脇に置き、やっと声の出し方を思い出した。
「よかった。ヨダカが殺されなくて」
彼は返事をせず、ゆっくりと上げた視線を暗い海へ向ける。同じように顔を向けた私は、海の中からずぶ濡れの男の人がこちらへ歩いてくる想像をして、思わず両腕を抱えた。五年前にヨダカに海へ突き落とされた人が、水を滴らせながら恨めしげに足を引きずってやってくる妄想。
「きっと、唯依も呪われるよ」
私の頭の中を読み取ったかのように、彼がぽつりと零した。
「俺といたら、あいつに呪われるよ」
「呪いなんてないよ」
「俺はいざとなったら人を殺せる人間なんだ。この手で、他人を海に突き落とせる人間なんだ」
ヨダカは視線を下に移した。膝に置かれた左手の指先が、細かく震えている。
「でも、そうしなかったら、ヨダカが殺されてたんだよね」
その言葉を口にして、背筋がすっと寒くなった。まるでテレビのニュースや漫画で見るような文句を、自分が本気で口にしていることが信じ難かった。ヨダカがその当事者として生きてきた悲しみも、その分強く感じられた。
「本能だとか、正当防衛だとか、何とでも言いようはある。問題は、俺がそれを咄嗟に実行できたってことなんだ。一瞬で相手を殺す選択をして、この手で直接突き落としたってことなんだ」
震える手で、彼は自分の膝を握りしめる。それでも唇の端と声が震えている。それは静かな悲鳴だった。彼がひたすらに一人で隠して抱え続けてきた傷の形だった。
「万が一にも、俺は人の命を奪うことができる。実際に過去が証明している。そんな人間だから、いつか唯依にもひどい傷をつけるかもしれない。そうなれば、俺が自殺したって取り返せない」
彼が項垂れ、黒い髪が横顔にかかった。苦しい、苦しい。全身で叫ぶ彼の姿は、とても孤独で寂しかった。
「人殺しは、一生一人でいるしかないんだ。だから俺は、誰かの隣りにいることなんてできないんだよ。唯依の気持ちは嬉しい、俺と仲良くしてくれる人がいるのもありがたい。けど、ここまでなんだ。もう既に、俺はみんなを裏切っているんだから」
声を震わせて俯く彼を、私は小さな声で呼んだ。
「ヨダカ」動かない彼の名前を、もう少しだけ大きな声で呼んだ。「話してくれて、ありがとう」
手を伸ばして、彼の髪をかき上げる。身体を寄せて、両手でその頬を包む。そっとこちらに向けた彼の頬は濡れていた。濡れた瞳の中にいる私の頬にも、涙が伝っていた。
「誰も、裏切られてるなんて思わないよ」
高瀬さんも美月さんも、彼という人間を知っている人はみんな、彼の過去を裏切りだなんて言わない。
「少なくとも、私は思わない。私はヨダカを信じてる。これから、もしも傷つけ合うことがあっても、私はあなたを信じてる。あなたの優しさを、私は知ってるから」
彼が唇をぎゅっと引き締めると共に、私の手に熱い雫が触れた。ぽろぽろと涙を流す彼の瞳は、星の光が映り込んでとても美しかった。まるで瞳そのものに星空が宿り、流れる涙は流星のようだった。
私も泣きながら彼を抱きしめた。幼い頃に小さなはるくんをふざけて抱きしめた時を思い出す。名前まで失くして必死に涙を隠してきたはるくんがここにいる。ヨダカになって、苦しみながらも生きている。
「生きていてくれて、ありがとう」
心から私はそう思った。心を砕いてすり減らして、ぼろぼろになっても彼は生き続けてくれた。そして今、この腕の中にいる。何物にも代えがたい奇跡のようだった。
ありがとうと囁くと共に、ヨダカが私の背に腕を回す。ごめんと呟く声に首を振って否定して、強く抱き返す。彼の心臓の鼓動を感じる。体温と息遣いがある。どうかこれからも生きていて。ただひたすらに、生きていて。
「ありがとう、唯依」
彼も私をぎゅっと抱きしめる。涙を流しながら私たちは抱き合った。この体温さえあれば、いつまでも何があっても生きていけると思った。
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