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 十二歳の時、あいつと母さんと一緒に海辺のファミレスに行ったんだ。三人でファミレスに行くなんて初めてで、俺は馬鹿で単純だったから純粋に喜んだ。もしかすると、これから仲良くなって全てが変わるんじゃないかなんて思った。店のオムライスが美味しかった。

 食べ終わった頃には、それまで降っていた雨は小降りになっていた。会計を済ませる母さんをおいて、そいつに促されて一足先に駐車場に出た。するとあいつが、海を見に行こうって俺に言ったんだ。母さんを待たせるのは悪いって思ったけど、あいつの機嫌を損ねたくなくて……いや、嫌われたくなくて、俺は尻尾を振ってついて行った。

 既に陽は暮れてて、真っ暗な海はしけってた。白い波や泡が街灯の光の中に見えて、コンクリートの足場を激しく叩いていた。もし足を滑らせたら終わりだと、波音を聞いて恐ろしくなった。

 足場から二メートル下はもう海で、そいつが端で言ったんだ。デカい魚がいるぞ、おまえも見てみろって。俺はこわごわ近づいて下を覗き込んだんだ。黒い海の中には何も見えなかった。当然だよ、荒れた夜の海に、魚なんて見えるはずがないんだ。

 あの時、ふと振り向いたのはなんでなのかな。誰かが俺を助けようとしたのか、それとも更に苦しめようとしたのか。

 突き出された両手を、俺は咄嗟に避けた。よろけながら右に踏ん張ると、俺を突き落とそうとしたあいつが、前のめりに倒れかけていた。何もない空中を掴んでいた。

 俺は、左手でそいつの腰を押した。本当に、片手分だけの力で。

 よろめいたあいつの足が宙をかいて、あっという間に海に落ちていった。

 小雨にうねる波の中で、助けろって悲鳴が聞こえたよ。それは助けてに変わって、すぐに声も聞こえなくなった。人間が波にもまれてコンクリートに叩きつけられて沈んでいくのを、俺はただじっと見ていた。

 それから駐車場に走って戻った。恐怖よりも、俺にはこれで母さんを取り戻せたという幸福感があった。これからは自分だけを見てくれるだなんて思った。今思うと、本当に単純で、恐ろしい思考だよ。

 母さんは、傘もささずに車の横で待っていた。足音に気づいて上げた顔は、俺を見た途端引きつった。まるで化け物に出会ったように目を剥いて、あいつの名前を叫んだ。駆け寄る俺の横をすり抜けて、海の方へ走っていった。

 俺は誰にも言わなかったよ。警察にも、母さんにも。ただあいつが足を滑らせて落ちたんだって説明した。罪が怖いのもあった。けど、愛した男が溺れ死んだ上に、邪魔な息子を殺そうとしただなんて知ったら、母さんが壊れると思ったんだ。既に抜け殻になってたけど、本気で首を吊りかねないと思った。

 それから、あいつの残した借金を返すために、母さんは仕事を増やした。中学に入って、俺も新聞配達のバイトを始めた。ちょっとでも母さんを楽にしたかった。

 ある日受け取った郵便物の中に、封筒があったんだ。どこかの広告だと思ったし母さんも留守だったから、なんの気なしに開けてみた。

 なんだと思う? 死亡保険の解約通知だよ。俺に小三の時からかけられてて、死ねば一千万が受け取れるようになっていた。

 その一千万があれば、あいつの借金を返しても充分にお釣りがくる。

 全部理解した。あの時食べたファミレスのオムライスは、母さんたちにとって、俺の最後の晩餐のつもりだったんだ。駐車場に戻ってきた俺を見て、どうして母さんがあんな顔をしたのか、違和感の正体もわかった。死んだはずの人間が現れて、殺した側の人間が戻ってこないんだから、そりゃあ驚くよ。母さんが俺だけを見てくれる未来なんて、はなから存在しなかったんだ。

 ……働いて金を返して倒れた母さんを見て、思うんだ。

 俺はあの時、素直に殺されておくべきだったんじゃないかって。

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