34
すっかりノートに耽る私たちは、外が真っ暗になった頃、空腹を思い出した。冷やし中華を作って食べて、眠る前に彼は電気を消して外からの月明かりでノートを見返していた。布団を返そうとしたけど、明日は引越しで大変だからと結局譲ってくれた。開け放した窓から差し込む薄明りの中、立てた膝にノートを乗せて壁に背中を預けて座る彼の姿を布団の中から眺めていた。
「……俺もやりたかったな」
ノートに目を落としたまま、彼が静かに呟いた。
「なにを」
「交換ノート」
「絵なんて描けないじゃん」
くすくす笑うと、彼はこっちを見て困ったように笑った。
「それでも、葵ちゃんは褒めてくれるだろ」
私が笑うのをやめると、部屋はしんと静けさに満たされる。それは気まずい沈黙ではなく、まるでこの布団のように心地よく私たちを包んでくれている。
「うん。どんな絵を描いても、絶対に馬鹿にしたりなんてしないよ」
はるくんが一生懸命描いた絵を、葵ちゃんが貶すはずがない。にこにこ笑って褒めてくれる姿が簡単に想像できる。
「ヨダカも、褒めてほしかった?」
私が問いかけると、彼は黙ったまま私の目を見つめて、伏せた眼差しをノートの上に戻す。ページのめくれる音が囁く。
「褒めてほしかったよ」声音は変わっていないのに、それが苦しそうな言葉に聞こえる。「あそこに残っていれば、俺はきっと晴でいられた。ヨダカになんかならずに済んだ」
俺は、名前負けなんだ。静かに、呼吸にもかき消えそうな静けさで彼は言った。
「名前負けって、はるくんが」
「昔話だよ。前言った通り、母さんに男ができたんだ。俺を攫ってから二年目に。父さんと真逆の人間で、俺はそいつとうまく付き合えなくて、そいつも俺が嫌いだった。段々、手を上げるようになって、怖がって怯える俺を、陰気だとか名前負けだとか言い出したんだ」
悲しげな幼いはるくんが頭に浮かんで、私は唇を噛む。そばにいられなかったのが悔しくて堪らないほど、切なく辛い姿だ。はるくんは陽気でなくとも、いつだって心の優しい晴れやかな子どもだった。
「名前負けなんかじゃないよ。はるくんは、名前通りの子だよ」
「そいつだけの言葉なら、きっと耳を塞げたよ。けど、母さんまで言い出した。そいつと同じことをするようになった。そうなったら、もう信じるしかない」
ヨダカがページをめくる手を止める。ヨダカになってしまったはるくんが、しんとした瞳で私たちの無邪気な日常を見つめている。私たちの知らない内に、彼はひどく傷つけられて、「晴」という名前を失くしてしまった。
「ヨダカって、そういう理由だったんだ」
「まあね。あの時は言えなかったよ、こんなかっこ悪い話」
「そういう問題じゃないでしょ」
大学の食堂でゼリーを食べながら、彼はヨダカという名前が文学的でかっこいいから使っているだけだと言った。けれど、やっぱりそこには深い理由があったのだ。
「……その男の人はどうしたの」
「死んだよ。俺が小六のとき、事故で。あいつは母さんに借金だけ残しやがった。母さんは仕事を増やして、俺もバイトをして、三年かけて何とか返し切ったひと月後に、母さんは倒れて入院した」
「それならもう、はるくんに戻ったらいいのに」
「戻れないよ」
ノートを閉じて、ヨダカは苦笑いした。
「名前負けって呼ぶ母さんの声が、頭にずっとこびりついてるんだ。おまえは陰気な根暗だ、晴なんて呼ぶのはもったいない、名前を付けるのに失敗したって」
「そんな言葉、信じちゃ駄目だよ。いくらお母さんだからって」
私が肘をついてうつ伏せの身体を支えて前のめりになると、彼はひらひらと片手を振った。
「一度でも口した言葉は消えないんだ。それに今の母さんを見てれば、自分が可哀想だなんて言えないしさ。つまるところ、俺は晴としての自信がないんだ」
彼はそう言うけれど、言葉より説得力のあるものを思い返し、私は布団を這い出して本棚の端に差し込まれた雑誌を引っぱり出した。ヨダカの前に膝でにじり寄り、思い切り開いた目当てのページをぐっと突き出す。近すぎて焦点が合わないのか、彼が何度も目をぱちぱちさせる。
「葵ちゃんの代わりに、私が褒めてあげる。ヨダカに自信がついてはるくんに戻るまで、ずーっと写真を褒め続ける。すごい、えらい、上手、天才! プロになれるよ、もっといっぱい写真撮ってよ、撮って自慢してよ!」
つい声が大きくなっていて、彼が自分の唇に人差し指を立てるのに、慌てて口を閉ざした。気まずくなって「ごめん」と囁くと、彼は堪え切れない声で笑いながら「ありがとう」と言った。
ヨダカもはるくんも、誰にも馬鹿にされてはいけない。名前負けなんて、今後一切誰にも言わせない。固く誓いながら、私も抑えきれずにくすくすと笑ってしまった。
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