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 バイト先の六等星には、辞める旨を伝えに行った。急で申し訳なかったけど、剛史の生活圏で彼に遭遇する可能性は出来るだけ避けたかった。店長は私の欠勤からただ事ではないと察していて、仕方ないと言ってくれた。

 二日後には、引越し先の部屋が決まった。同時に新たなバイト先を探すため、バイト情報誌をかき集めて吟味した。スーパーのレジ打ちのバイトを見つけて、緊張しながら久々に面接を受けた。翌日には採用の電話をもらって、心の底からほっとした。

 引越し先のアパートは、ヨダカの部屋から歩いて二十分程度とそう遠くない。泥棒が入ったとか、ストーカーに尾けられる等の危険性を考えると、ある程度近い場所に頼れる相手がいるのは安心できる。緊急避難先にはしていいよと彼は言ってくれた。

 明日にはヨダカの部屋を出て引越し先で暮らし始める。荷物は鞄一つだけで距離も二十分だけど、不安やら期待やらで私はどきどきしていた。昼過ぎに彼がバイトから帰ってきた時、私は荷物の整理をしていた。

「そういえば、金はあるの。バイト代が入るまでの生活資金」

 汗をかいたと言ってシャワーを浴びてきた彼は、髪を湿らせたまま畳にあぐらをかいた。

「少しはあるよ、今までのお年玉とか、全部持ってきた。家賃とか払っても、二ヶ月は過ごせると思う」

 手元の通帳にはだいたい三十万円入っている。先月のバイト代が振り込まれたら、もう少し安心できる算段だ。

 剛史と一度だけメッセージで連絡を取った時、私のものは全て処分してもらうように頼んだ。実家や引越し先の住所を教えれば彼と別れた意味がないので、手間だけど捨ててくれるようお願いした。思い返せば、あの部屋に私個人の物は段ボールひと箱分もない。パソコンとスケッチブックは惜しいけど、彼ともう一度顔を合わせてしまえば、私の中で予想しない作用が起きるかもしれない。そのリスクを鑑みれば、犠牲にするのもやむを得なかった。

 驚いたことに、既に剛史が女の子と歩いている姿をヨダカの知り合いが見かけたらしい。彼にはすぐに私から乗り換えられる彼女がいたのだ。気付かなかった自分の馬鹿さ加減を思い知ったし、彼からしつこく連絡がないことにも納得がいった。私たちは本当に、歪な関係だったのだ。

「これは惜しかったな。本屋さん行ったけど、もう置いてなかった」

 彼の斜め後ろにある本棚を指さす。雑誌や文庫本の並ぶ右端には、見覚えのある表紙があった。「これね」彼がそれを取って私に手渡す。彼の写真が掲載された雑誌も、剛史の部屋に置いてきてしまった。

 後ろからぺらぺらとページをめくる。かわすみフォトコンテストの結果発表のページを開くと、一枚の封筒がぱさりと落ちた。

「封筒?」

「あ、そうそう。中身見ていいよ」

 ヨダカに言われて封筒に指を差し入れる。中には一枚の写真と一万円札が入っていた。一万円は、奨励賞入選の賞金だ。

「なんかさ、使うのもったいなくておいてる」

「わかるわかる。使えないよね」

 彼の素直な台詞は理解できる。私も初めて絵の依頼を受けて得た報酬は、ほんの僅かだけど使わずにとってある。それはありふれたお金ではなく、一枚しかない賞状のような存在なのだ。

 お札と一緒に入っていたのは、雑誌に掲載された写真だった。スマホで撮って印刷した写真には、水の輝く川原で遊ぶ子どもたちが写っている。笑い声が聞こえてきそうな、眩しく無邪気な写真だった。彼らが幽霊だなんて、誰も発想すら抱かないに違いない。

「そうだ、私も見せたい写真があるんだった」

 封筒を元通りにして紙面に挟み、雑誌を彼に手渡して自分の荷物を漁る。先日、実家のクローゼットから引っぱり出したノートの一冊を、座卓の上に置いた。

 使い込んだノートは、端が捲れてあちこち汚れている。お茶を零したり、雨に濡らしたりしながら、私たちはこのノートを使い続けていた。

 最後のページに挟んでいた一枚の写真を差し出した。訝しげに受け取った彼は、たちまち目を真ん丸にする。

 それは、一面の向日葵畑をバックに三人の子どもが写っている写真。夏真っ盛りの黄色を背景に、左に男の子、真ん中と右に女の子が二人並んで笑っている。男の子は幼いヨダカで、真ん中が私、そして右端が葵ちゃんだ。仲良く体を寄せ合って、夏の向日葵に負けない笑顔をレンズに向けている。

「葵ちゃん……」

 彼がぽつりと呟いた。私たちは五歳で、葵ちゃんは九歳。当時の私たちにとっては年上のお姉さんでも、写真の中の彼女はあどけなく幼い女の子だ。日に焼けた私と違って、眩しいほど白い肌の彼女は、にこにこと笑っている。髪の長い、物静かな印象の少女。九歳の幼さに見合わない大人びた微笑みは、いつも私たちを優しく見守ってくれていた。

「ね、懐かしいよね」

 彼の横で私も写真を覗き込む。寂れた朝灯町の唯一の自慢が向日葵畑だった。ヨダカのお父さんが遊びに誘ってくれて、その時息子のトイカメラで撮影した、その写真を私にも配ってくれたのだ。

「ヨダカもめっちゃ可愛いじゃん」

 友だちと並んで満面の笑みを浮かべている五歳の男の子は、まるで幸福の象徴だった。綻ぶほっぺたと夏の輝きが、その幸せをいっそう光らせている。

「唯依は別人だな」いつもの調子を取り戻して、彼は写真と私を見比べる。当時の私は男の子より活発で、友だちを引っ張って、ときには引きずって色んな遊びを提案する子どもだった。

「なにそれ、悪意感じる。せっかく褒めてあげたのに」

「悪意じゃないよ、当時の勢いはすごかったなって言っただけ。川に行けば服着たまま中に入っていくしさ、庭でクワガタ見つけたら木に登るし、絵本には落書きするし」

 思い出してけらけらと笑う様子は、意地悪というより、当時を思い出して懐かしんでいる風に見えたので、私もそれ以上ツッコまないことにした。あの頃は、毎日が楽しかった。三人でいれば、不安や心配なんて何一つなかった。陽が暮れるのが心から惜しく、明日は何をして遊ぼうとそればかりを胸に、毎晩眠りについていた。

「……それでね、このノート」座卓の古いノートを手に取って、中を開いて彼に見せる。「私と葵ちゃんの交換ノート。ヨダカになら見せてもいいと思って」

「交換ノートなんてしてたのか」

「神隠し事件の後だよ。葵ちゃんが提案してくれて、二人でやってたの」

「よかった、仲間外れだったのかと思った」

 彼は受け取ったノートのページをめくる。最初は普通の日記が続いているけど、次第にイラストが増えてくる。真ん中を越えるともう日記ではなく絵がメインだ。私は鞄から更に五冊のノートを出して座卓に積んだ。今見ると恥ずかしいオリジナルのキャラクターや、近所の人懐こい猫のスケッチ、秋祭りの風景など、思いつく限りの絵を描いて私たちは交換していた。

「葵ちゃん、いっつも私の絵を褒めてくれた。私が調子に乗って描きまくったら、それも全部褒めてくれて。絵を描くことに、この時すっかりハマっちゃった」

「葵ちゃんは、優しかったからな」

 もういない葵ちゃんと嘗ての私の軌跡をなぞるように、ヨダカは一ページずつゆっくりめくっていく。彼にとっても、葵ちゃんは大好きなお姉ちゃんだった。お別れすら伝えられなかった彼女の存在した証を、記憶に刻みつけているように見える。

 私が十二歳の時、十六歳の彼女の訃報が届いた。三か月前に受け取ったいつもの手紙には、風邪をひいたとだけ記されていた。それから退院できずに亡くなってしまうなんて、思ってもみなかった。

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