31
この吐き気は車酔いではない。バスに揺られながら、私は緊張による嘔吐感に堪える。夜の七時半だから、確実に母はいるはずだ。柊哉には会いたくないけど、実家に住んでいるのだから多少は致し方ない。部活でも長引いててくれないかなと一縷の望みにかける。
雨が降っていたので、傘をさして玄関前に立った。深呼吸をすると、いつの間にか懐かしさを感じるようになった実家のにおいがした。あまり心地よいにおいではなかった。
玄関ドアを開けて、ただいまと呟く。廊下の向こうまでは聞こえていなかったらしい。ただいまともう少しだけお腹に力を入れると、エプロンをつけたままの母が突き当りのキッチンから顔を出した。
「びっくりした。幽霊みたいに入ってきて」
傘立てに傘をしまって、構わず靴を脱いで上がる。気まずさと気恥ずかしさと緊張でとても気分が悪い。
「あんたどうしたのその顔」
「話したいことがあって」
「なによ急に。それより何があったの」
近づく私の顔の痣を見て嫌な予感を募らせたらしい母は、「もしかして男?」と顔をしかめた。
「別れたよ、もう」
「あんた一体何やらかしてるのよ」
キッチンに戻った母は、洗い物も途中にエプロンを外す。座りなさいと指示されて、私はリモコンだけが乗っかる広いダイニングテーブルの前に腰を落ち着けた。
「喧嘩? もしかしてDV?」
「喧嘩して、別れた。その時にちょっとやられただけ」
「馬鹿ねえ、あんたは本当に……」
正面に座った母は、片手で顔を覆うと盛大にため息を吐いた。
「それで、また男を見つけたなんて言わないわよね」
「今は、友だちの家にお世話になってる」
「あんたそんな友だちいたの」
失礼なとは言わず、私は一つ頷いた。ヨダカの名前は出さないと決めていた。相手が男だと知れば母はまた私の悪癖だと思うだろうし、彼がはるくんだと言うのもよくない。私の母親もヨダカのお母さんと同じように、田舎町の生活を嫌っていた。父の仕事の関係で町を出ることになって、ひどく喜んでいたのを覚えている。神隠しにあった男の子なんてまず忘れているだろうし、覚えていたとしても彼の存在を安心材料にするとは限らない。
言及されれば自由子の名前を借りようと身構えていたけれど、母は「それは迷惑でしょ」と違う面の心配をした。
「うん。だから私、部屋借りて暮らそうと思って」
「部屋借りるってどこでよ。まさか一人暮らしするつもり?」
「これから探すけど、安い所ならバイトして借りられると思う」
「そんなの無理よ」予想通り、母は否定して難しい顔をした。「あんただらしないんだから。そのままのらくらフリーターにでもなるつもり? 何も身につけないまま年取っていくつもりなの」
「だから……」
これを言うために家に帰ってきたと言っても過言じゃない。一番伝えたいことを伝えるため、私はお腹に力を入れた。想定よりも少しだけ声が大きくなった。
「私、絵を描く」
テーブルにおいた両手をぎゅっと握りしめる。これまでぼんやり思っていたことだった。幼い頃から、私はこの台詞が言いたかったのだ。
「絵を描くことを仕事にする」
「冗談じゃない。自分が何言ってるのか分かってんの。絵を描いて生活できる人がどれだけ珍しいと思ってるの」
「だから、三年だけ」
絵描きになるという目的を遂げられる確率は、夢と呼べるほど低いことは私も知っている。絵を描くだけで生活を賄うなんて、ほんの一握りの人間にしかできない芸当。自分の絵がその域に達しているだなんて思っていない。
それは揺ぎない事実で、その事実を揺るがす方法はただ一つ、全力でやることだけだ。
「駄目だったら、二十歳になる年に、ちゃんと就職する。アルバイトじゃなくて、会社に入って働く。絵を描くことはやめないけど、フリーターはやめる。これからの三年間で、一生後悔しないようにする」
「そんな、夢みたいなこと……」
母が簡単に首を縦に振るわけがないことはわかっている。母の理想は、私が今すぐ進学、又は就職してレールを元に戻すことだ。三年後の話をされたって容易に納得できるはずがない。
「それに全力だなんていうなら、うちでやればいいじゃない。一人暮らししながらなんて、あんたには無茶じゃないの」
「これは私の我儘だから、生活は自分でなんとかしたいの。家でもバイトぐらいはすることになるでしょ。それなら、自力で思い切りやりたいの」
テーブルに肘をついて、母は手に額を押し当てた。娘が予告もなく帰ってきたと思えば、全く予想だにしない提案を繰り出してきたのだ。呆れ果てても仕方ない。
興奮していたせいで足音に気がつけなかった。
引き戸がスライドして、柊哉がリビングに入ってきた。お風呂に入っていたらしく、頭に被ったタオルで髪を拭きながらこっちを一瞥する。私の顔の青黒さにも驚く無様さは見せない。全く気配がなかったから、てっきりまだ帰っていないか部屋に引きこもっているのだと思っていたのに。
彼は私が帰ったからといって逃げ回る性格じゃない。むしろ何気ない姿をわざと見せつけるいやらしさがある。今も堂々とテーブルからリモコンを取ると、ソファーに身体を収めてテレビの電源を入れた。たちまちバラエティ番組の笑い声が溢れ出して、私はうっかり彼を殴りかけるこぶしを握るだけで我慢する。すました横顔が小憎たらしい。
「柊哉、この子、絵描いて一人暮らししたいって」
「三年だけだってば!」
わざわざ柊哉に話を振らなくていいのに。相談相手を求める母と慌てて付け足す私を見て、彼はタオルでがしがしと頭を拭きながらこっちを見た。
「馬鹿じゃねーの」
「話聞いてよ! 二十歳になったらちゃんと就職するってば。それまでの間」
「ていうか、男はどうしたんだよ」
「別れた」
「そんでDVか」
大人びた風な笑みで、ふっと息を吐くように笑う。馬鹿じゃねーのと、しつこく繰り返して呟くのが鬱陶しい。
「なら勝手にやればいいじゃん。わざわざ帰ってきて、何が目的なんだよ」
「目的って、そんなのないけど」
「嘘つけ。一人暮らしの保証人になってくれとか、どーせそんな魂胆だろ」
どこまでも腹の立つ賢い弟は、私の図星を目打ちのような鋭さでずぶりと刺した。
「そういうわけじゃないし」
そういうことねと、目の前で母が盛大に呆れた顔を見せた。
「今まで好き勝手やってたくせに、どうもおかしいと思ったのよ」
台無しだ。忌々しい弟のおかげで、私が台詞に込めた本当の望みすら打算にかき消えた。悔しくて、頭の中がぐるぐる回る。
「今までごめんなさい。好き勝手やってきて。でもこれだけはお願いします。念書でも何でも書くから、一円もたからないから、三年だけ許してください」
全ての段取りも忘れ去って私は額をテーブルに押し当てた。勢いあまって、ゴンとぶつけてしまう。また痣が増えたかもしれないけど、今更一つや二つ増えたところで構わない。
「都合のいいやつ」
柊哉の声が嘲笑う。けれど彼の台詞はまたも正しいので、私は頭を下げ続けた。思いつく限りの謝罪を口にする私の言葉は、いつの間にか懇願から今までの懺悔に変わっていた。母や柊哉は私の愚かさをずっと説いてくれていたのに、私はひたすら反発し続けていた。今現在、彼らに信頼されないのは、全て自業自得なのだ。
「なら、念書を書いて」
テレビの音声に被って空耳だと思った私が俯いたままでいると、「聞こえてる?」ともう一度母親が言った。
「どんな結果になっても、後悔しませんって」
顔を上げると、母は笑ってはいないけど、怒ってもいなかった。真っ直ぐ目の前にある瞳は、随分久々に見たような気がした。
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