3章
30
電車に乗って、三十分ほどかけてアパートに辿り着いた。漫画やドラマで苦学生が住んでいそうな古びた二階建てのアパートで、全体的に錆びついている。一階に四部屋、ぐるりとらせんを描く外階段を上がって更に四部屋が等間隔で並んでいた。二階廊下の蛍光灯は切れかかっていて、パチパチと瞬きしている。廊下から手すりの向こうに視線をやると、街灯の周りを小さな蝙蝠が飛び回っていた。
廊下の一番奥で足を止めたヨダカが、ポケットから取り出した鍵をドアの鍵穴に挿す。開錠してノブを下げて引くと、きいいとドアが軋んだ。
外側とは対照的に、中は整然と片付いていた。キッチンと畳の六畳間を見て、この部屋には随分と物が少ないのだと気が付く。六畳間にはテレビもソファーもなく、家具といえば小ぢんまりした座卓と背の低い本棚が一つずつあるだけ。キッチンのシンクにも余分な食器は出ていない。質素という言葉がしっくりくる。
座るよう促されて座卓の前に座った時、溶けてしまうような疲労感にどっと包まれた。身体がずっしりと重たく、もう一歩も動けない。手渡された濡れタオルで顔を拭う私の目は既に半分閉じていた。
ヨダカは押し入れから引っぱり出した布団を畳の上に敷く。
「限界だろ。一度寝とけよ」
もう何も考えられないほど眠たい。私は自分が返事をしたかどうかもわからないまま、布団に転がった。あっという間に眠りに落ちた。
目を覚ました時にはすっかり陽は上っていて、既に起きていた彼に促されてシャワーを浴びた。彼の予備だというTシャツとズボンを借りて、洗面台の鏡を覗き込む。おととい打たれた時のものに加えて、反対の頬にも青黒い痣ができている。ひどい腫れはないから、骨は折れていないと信じて部屋に戻った。まだうとうとしながら、彼が出してくれたコーンフレークを食べて、再び泥のように眠った。ここ数日、常に緊張の最中にあったおかげで、心身ともにすっかり疲れ果てていた。
再度目が覚めると既に外は暗く、自分がほぼ丸一日眠っていたことに驚いた。随分と頭も体もすっきりして、一日どころか三日ぐらい眠った気分だ。バイト終わりの彼が材料を買って帰宅したから、一緒にカレーライスを作って食べる。眠っているだけで、こんなにお腹が空くことにも驚いた。
「一つ、気になってることがあるんだけど」
やっとまともに向かい合った彼の顔をうかがう。ヨダカは黙々とカレーを食べながら、なに、と言った。
「どうして、あの写真を持ってたの。……あの、自由子の写真」
剛史の写真とは言い辛かった。仮に二人の後ろ姿を盗撮できても、他人が二人の自撮り写真を撮ることは不可能だ。
「自由子と知り合いだったの」
「知り合いっていうか、ただの顔見知りっていうか」
カレーの上でスプーンを止めて、彼は行儀悪く頬杖をつく。
「自由子って名前も知らなかったよ。よく街で夜遊びしてる姿だけ見かけてて、駅で唯依が彼女を避けた時、初めて二人が友だちだって知ったんだ」
駅のホームで偶然に自由子のグループを見かけて、急いで逃げた苦い思い出が頭の中によみがえる。
「俺、知り合いは割といるんだぜ。あちこちふらふらしてる連中ばっかだけど。そんで、あの自由子って子がまたパパ活してるの見かけて、その隣にいたのが唯依の彼氏だったんだ。一回写真見せてもらってたから、わかった」
私は一度だけ彼に剛史の写真をスマホで見せたことを思い出した。素っ気ない態度だった彼は、あの時きちんと剛史の顔を頭に入れていた。その記憶力に私は感心する。
「役立つ時なんか来なきゃいいと思ったけど、万一を想定して、写真を売ってくれるようあの子に交渉したんだ。あと、盗撮させてくれって。パパ活してる子なんて相手に執着ないしさ、金くれるならいいよーって了承してくれた」
彼の視線の先で、私の持つスプーンからカレーが垂れて皿に落下する。今、私は剛史だけでなく、自由子にも驚いている。まともで健全な女子高生のSNSからは、男の絡む夜遊びの気配なんて少しも感じられなかった。
「やっぱショック? 友だちがこうなったのって」
「……ううん」
彼の言葉に返事をして、私はスプーンですくったカレーを頬張る。ごろっとした柔らかな人参が甘くて美味しい。
「私は、何も見えてなかったんだなって」お腹が空いてたまらない。さっさと次の一口に取り掛かる。「自由子、すっごく逞しくなったんだなって」
ヨダカは指先を動かして軽くスプーンを動かしながら、宙にやった視線で考えている。
あのとき駅のホームで、彼が自由子の投稿を本気にしなかった理由が、今はより明確だった。自分の見せたい面だけを切り取って公開する。裏を返せば、必ず非公開の部分があるということ。裏面が犯罪的であるか否かは別として、表と裏があるのは決して特別なことではない。
「逞しいよなあ」
ヨダカは結局それだけ言って、カレーの続きを食べ始めた。
実家に帰れと、洗い物を終えて一息ついた時に彼は言った。もしくは一人で暮らせと。その二者択一は選ぶまでもなかった。
「じゃあ、一人で暮らす」
「ほんとに?」
自分で言ったくせに、ヨダカは壁にもたれて座った姿勢で訝しげに眉を寄せる。
「……家に帰るぐらいなら、一人で暮らす」
「意地張ってる場合じゃないぞ」
「でも、その二択なら、そっちを選ぶ」
「なあなあで、俺んとこになだれ込むなよ」
座卓の前で膝を抱えて、私はむっと口を引き結ぶ。けれど自分の今までを思うと、彼の言葉に怒ることはできない。今も心の最奥の本心は、彼が近くにいれば心強いと言っている。でも彼はその甘えを絶対に許さないし、私もこれが大きなものを決心できる最高の機会だと認識していた。その大きな何かは、私の人生を左右する可能性を秘めている。ヨダカはとても頼りになるけれど、彼の力を前提として生きてはいけない。
「一人で暮らすにしても、明日は家に帰れ」
ええ、と私は否定的な声を出す。
「部屋借りて暮らすんでも、黙ってるわけにはいかないだろ」
「それは、場所が決まってから……」
「決めるには保証人が要るぞ、他に頼れる親戚がいるのか」
咄嗟に遠方に住む祖父母のことを思い出して、駄目だと打ち消した。仮に保証人になってもらえても必ず母の耳に入るだろうし、なぜ実の親を頼らないのかと火に油を注ぐことになる。考えるだけでげんなりする。
「それに不良娘が更生すれば、多少なりとも親から援助してもらえる可能性はある」例えば金とか、と彼は付け足す。
「黙ってるより自立の姿勢を見せつけた方が、結果的にはこっちの得になる」
「すごく打算的……」
「合理的っていうんだよ」
にやにやする彼も、自由子に負けず劣らず逞しい。呆れつつも、彼の言うことには一理あると思えた。
「でも、大反対されると思う。あんたには無理だって絶対言われる」
「そこは自分の人生だって言い張るんだよ。自分で稼いで自分の力で生きる、そのために少しだけ助けてほしいって素直さを見せるんだ。今までがマイナスなんだから、大抵のことはプラスに見えるって」
思わず、なるほどと呻いていた。あの素直で可愛いはるくんが、こんな形で「素直」という言葉を口にするなんて。これだけ変化した人を目にすれば、自分も多少は変われるような気がする。
彼は、明日に備えるためといって布団を譲ってくれた。私は母親を説得できそうな言葉をひたすら考えながら眠りについた。
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