29

 今までありがとう。陳腐な言葉をなぞるつもりはなかったけれど、自然とそう口にしていた。大好きでした、元気でね。何も言わない剛史の姿が、閉まっていくドアに阻まれて見えなくなる。完全に閉まってしまう直前、元気でなという彼の声が細くとも確かに聞こえて、私は枯れたはずの涙がまた瞳をじんわり濡らすのを感じた。

 どこに行く予定もなく、ただあの部屋にはもう居られないことだけは確かだった。ネカフェに泊まろうだとか、カラオケで粘ろうだとか、何一つ考えられないまま、私は夜の羽虫のようにふらふらと歩き出した。

 私が擬態した羽虫は、蛾だったんだと思う。本能的に灯りを求めて、さっき牛乳を買ったばかりのコンビニへ向かい、駐車場に足を踏み入れた。黄色い車止めに腰掛けるヨダカの姿は、数秒見つめなければそれが彼であることすら今の私には認識できなかった。

 見覚えのある男の子とぶつかった眼差しを逸らして、私はそばのベンチに腰を落とした。お尻から地面に根が張ったように、もう一歩も動けない。ここで夜明けを待っていたら、やっぱり店員さんに怒られるだろうか。

「どうなった」

 背中を向けたままの彼の声は、さっきまでが嘘のように冷たく尖っていた。

 わかれた。その一言を口にして、私は剛史と別れたんだなあと、自分の言葉に納得した。一度でも世界で一番愛した人だった。彼はその身勝手さで私を支配した。けれど、日々の中で見せてくれる笑顔や、好きだと言ってくれた言葉は決して嘘じゃない。彼の悪い面と良い面が混ぜ合わさって、私の中に膨らんでいる。もう一緒にはいられない。充分理解しているのに、彼がただの悪人でないことも、私は知っていた。

 こんがらがる思考を落ち着けるように細く長く息を吐いて、指で目元を拭う。腫れぼったくて熱を持っているのが分かる。間違いなく、私は目も当てられない顔をしているだろう。

 その目で、私は彼を見上げた。剛史のことでいっぱいな思考の隙間に目前の彼が入る。

「ごめんね……」

 私と剛史の諍いに、彼は関係なかった。むしろ私たちを正常に戻そうと、何度も諭してくれていた。

「こんなことに巻き込んで、怪我までさせて、ごめん」

 細く薄い少年の背中が、まるで立ちはだかるように私の前にある。彼の忠告を私は一度だってまともに受け入れなかった。心配の言葉は鬱陶しく、邪魔にすら思っていた。

「放っといてなんて言ったのに、こんな時だけ呼び出してごめんなさい。私、本当に馬鹿だ。肝心な言葉は聞こうとしないで、都合の良い時だけ他人を利用する。最後にはヨダカまで傷ついた。私のせいだ」

 スカートの膝を握り締めて絞り出す自分の懺悔は、ほとほと情けない。

 ヨダカが車止めから身体を離して、こちら側へ回り込むと再びそれにもたれかかった。百八十度方向転換した形で、私と向かい合う。どこかで剛史に殴られたに違いない、そのこめかみに痣を見つけて、私はまた顔が歪むのを感じる。

「別に、唯依だけが悪いわけじゃない」

 ヨダカは腕を組んで、ため息を吐くように言った。

「俺があのスマホを渡さなければよかった。あの人を納得させる賢いやり方がどこかにあったかもしれない。唯依に不実な真似をさせて、この事態を引き起こしたのは俺だ」

 悪かったと彼が繋げて、私は目をしばたたかせて彼を見上げる。首を横に振ってそんなことないと訴えると、彼は口をへの字に曲げて指先で首元をかいた。

「いわゆる浮気を扇動したのは俺で、周りの忠告に耳を貸さなかったのは唯依だ。そして唯依の依存癖は後天的なもので、周りにも何かしら責任がある。この事態は、誰か一人が悪いってことじゃない」

 彼が現状を分析する様子に戸惑いつつも、私は彼が自分も悪いと反省していることを知った。すんなり納得できることではなかった。

「でも、ヨダカが殴られたのは私のせいだよ。私が呼び出さなかったら、怪我なんてしなかったもん」

「それはそうだよ」彼は困った風にこめかみに指を当てた。「けど、怪我自体は気にしなくていい。こんぐらい、痛くもなんともない」

「痣が……」

「今の唯依の顔見て、痛い痛いなんて言えないって」

 彼が初めて苦笑した。ちょっと待っててと言って、コンビニへ入っていく。五分もおかず戻ってきた彼は、水滴の垂れる五百ミリリットルのペットボトルを手にしていた。

 促されるまま、乾いた喉に水を流して顔に押し当てる。ひんやりした冷たさが心地よく、自分の顔がひどく熱を持っていることに気が付いた。

「俺、帰るから。唯依も来ていいよ」

 ペットボトルの冷たさに目を細めていた私は、その目を開いて彼の顔を見た。彼は憮然とした面持ちで、警戒するように言う。

「勘違いするなよ、泊めるだけだからな。俺は誰かと生活するつもりはないから、すぐ出ていってもらう」

「行っていいの……」

「さっき言ったように、責任は感じてるし。それにさ、流石に知ってる女の子が怪我まみれで野宿するのなんか見たくないって」

 もう誰かに甘えるべきじゃない。そう思うけれど、ヨダカの提案を断れば彼の言う通り野宿をするしかない。現実的に、それは危険な行為だ。眠る場所だけを借りる、それだけだと自分に言い聞かせて、私は彼の後について立ち上がった。すっかり夜は更けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る