28
三十分経たないうちに、ヨダカから通話がかかってきた。部屋の番号を尋ねるのに返事をする。心臓がばくばくと激しく鳴り、これからのことに恐怖心がつのる。剛史が手を上げたとして、私は彼をうまく庇えるだろうか。そのこぶしの前に臆せず立ちはだかれるだろうか。
深く呼吸をして決心を固めようとする私の耳に、チャイムの音が聞こえる。途端、剛史が足音を踏み鳴らして玄関に向かった。慌ててその背中を追ってシャツを掴もうとした指は、こみ上げる恐怖で上手に動かなかった。
その間にドアを開けた剛史は、相手の首元をがっしり掴んで玄関に引きずり込んだ。
「え、なになに?」
「おまえがヨダカか、さっさと上がれ、浮気野郎!」
わけがわからないというヨダカの声に、剛史の恫喝が被さる。
「いててて」
「話があるんだよ、とっとと靴脱げ!」
剛史の背中に阻まれてよく見えないうちに、やっと靴を脱いだヨダカを剛史が無理やり引っ張った。よろける彼を引きずり、廊下からリビングへ力任せに投げ飛ばす。床に転がった彼の胸ぐらを掴んで立たせ、唾を飛ばす勢いで怒鳴りつけた。
「このガキ、俺の女に手出しやがって!」
「剛史、ちょっと待って、待ってよ」
「うるせえ唯依!」
取りすがる私は、彼の一喝に怯んでしまう。
「おまえ、こいつの味方すんのか。この馬鹿が、どの立場でモノ言ってんだよ!」
「お願い剛史、暴力だけはやめて」
「誰のせいだと思ってんだ!」
私に矛先が向くと、手を離されたヨダカは自分の手で軽く頭を撫でた。いたいなあとまるで気の抜けた声を発している。
「もしかして、唯依の彼氏さん?」
始めましてなんて頭を下げるから、剛史は逆上してその頭を掴んだ。指の間から青い髪がはみ出す。
「それ、むしらないで」
「ふざけた頭しやがって、ナメてんじゃねえぞ!」
「ちょっと待って、僕、浮気とかそんなつもりじゃないんですけど」
剛史が思い切りヨダカを突き飛ばし、彼はよろけて壁にぶつかった。まだ未成年のヨダカと、二十九になる剛史の体格の差は大きく、喧嘩をすればどっちが優勢かは目に見えて明らかだった。なのにヨダカは怯む様子もなく、ただ困惑の表情を浮かべている。
「待ってください。よくわかってないんですけど、彼女とは幼馴染なんです」
「幼馴染なら二人きりで飯に行っていいと思ってんのか」
「彼女と付き合いたいとか、そういうのないです。懐かしいなっていうだけで」
「それを世間では浮気っていうんだよ」
頭一つ分の身長差を見上げ、ヨダカが困った風に首を傾げた。無邪気ささえ滲む仕草だった。
「ただ友だちっていう認識で。僕、恋愛経験少ないからよく分かってなくて」
その無邪気さでヨダカは剛史を落ち着かせようとしている。剛史も幾分鼻息を抑え、床に落ちているスマホを指さした。名前を呼ばれて私が慌てて拾って手渡すと、それをヨダカに突きつける。
「友だちなら、なんでこそこそ会ってんだ。やましいことだって分かってたからだろ」
彼が私との連絡用に使っていたスマホ。剛史の言うことは最もで、ヨダカが私をただの友人だとみなして悪気がなければ、隠れて連絡を取る必要はない。
「え、だって」
彼は気まずそうに眉間に皺を寄せた。
「素直に連絡したら、彼氏さんに怒られると思って」
あまりに素直な発言に、剛史は一瞬だけ呆気にとられた後、舌打ちした。そのスマホの角で、ヨダカの頭をノックするように叩く。
「そのこそこそしたやましいことが、浮気っていうんだよ。おまえも馬鹿なんだな。唯依の仲良しっていうなら、さぞ脳みそ空っぽなんだろ」
さあ、とヨダカは首を傾けて阿呆みたいな仕草をする。
「相手に隠れてこっそり会ってるだけで、浮気っていうんですか」
「当たり前だろ、くそ馬鹿。この歳でここまで頭悪いって、逆にすげえな」
「じゃあ、これも浮気ですね」
ヨダカはジーンズのポケットに手を突っ込んで、自分のスマホを取り出した。指先で操作した画面を、私たちによく見えるように向ける。それは一枚の写真だった。
えっ、と自分が変な声を漏らすのが聞こえた。思わず一歩進んで、剛史の横でその画面を食い入るように見つめた。
画面には複数の人間が写っているけど、メインの被写体は中央の二人だった。斜め後ろから撮られている片方の横顔は、紛れもなくスーツ姿の剛史だ。制服を着た女子高生の後ろ姿が肩を並べて歩いている。
「いや、おまえ、どこで」
剛史の短い言葉が、魚の吐く空気のようにぽこぽこと零れ落ちる。
「なに、これ……」私は隣にいる剛史の横顔に訴えた。「ねえ、なにこれ。写ってるの、剛史でしょ?」
「待て、違うって。知らねえよこんなん」
「でもどう見たって剛史じゃん!」
「ちょっと待てよ、こんな遠くじゃ」
ヨダカが画面をスワイプして、私も剛史も絶句した。次に出てきたのは、どこかのレストランで剛史と女の子が笑顔で並ぶ自撮り。どこからどう見ても、他人の空似なんかではない。
「これ、浮気ですよね」
ヨダカが無邪気に浮かべた笑みに、剛史は何も言わなかった。言えなかったんだろう。彼女のいる男が、女の子と食事をしつつ肩を寄せ合って写真を撮っている。それもたった二人きりで。
「ねえ剛史、これなに、なんでこんな写真があるの!」
私は混乱した頭で剛史にしがみついて訴える。彼の目が宙を泳ぐのは、私を言いくるめる上手い言葉を探している証拠だとは、よく知っている。
「どうして剛史と自由子が一緒に写ってるの!」
彼の隣りで笑っているのは、私の中学時代の仲良し、自由子だった。彼は私が自由子の名前を口にしたことが意外だったのか、「なんで知ってるんだ」なんて反対に質問をしてくる。
代わりにヨダカが、写真の自由子を指さした。
「この子、パパ活常習犯。あちこちで飯奢ってもらったり、ブランド物買ってもらったりしてるって。唯依の友だちだったのは偶然だけど」
あの自由子がパパ活をしていた。その衝撃に私も唖然とする。あんなにキラキラしたまともな女の子が、男に金を貢がせるパパ活をしているなんて。私の頭の中で、ツーエルで目にする彼女の投稿がまるで画面をスワイプするように流れていく。ふと、そのスクロールが一枚の写真で止まった。しれっと写ったブランドもののバッグ。あれもパパの誰かから貢がせた物だったのだ。
「まだ別日のもありますよ。あ、この子は恨まないでね。俺が無理言って買い取ったものなんで」
呆然とする私たちに、ヨダカはそう言った。
ヨダカの手を殴る勢いで剛史が払い、スマホが飛んで床に叩きつけられた。今日、何度目かの鈍い音。丈夫なスマホは画面さえ割れることなく、ヨダカは黙って屈んでそれを拾うと、ポケットにしまい直した。
しんと静まり返った中で、誰かの泣き声だけが響いている。そのすすり泣きは、私のものだった。気付かないまま、私は身体の脇に垂らした両手でカーディガンの裾を握り締め、細い涙を流していた。
私たちはお互いを裏切り合っていた。異常なほどに依存しているくせに、それぞれ秘密を作っていた。なんて愚かで馬鹿げた関係なんだろう。それを必死に守って維持して、好きだ好きだと繰り返していた私たち。世界一の大馬鹿者だ。
ヨダカが部屋を出ていって、ドアの閉まる音を皮切りに、私はすすり泣きをやめて声を上げて泣いた。どうしてこんなにも涙が溢れるのかわからない。ただ悲しい。悲しくてたまらない。辛さや虚しさや寂しさよりも、ひたすら純粋に悲しい。
いつの間に、私たちはこうなってしまったんだろう。
いつから、私たちは壊れてしまっていたんだろう。
私はぐしゃぐしゃになった心から、涙を一滴残らず振り絞るように泣き続けた。
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