26

 早く剛史と別れなければいけない。彼と別れることは、私の中で決定事項となっている。けれど剛史の方にそんな気はなさそうで、ひどい喧嘩が続いているとしか捉えていない風だった。私が感じた恐怖など、彼は理解するどころかその気さえない。

 夕飯を準備している自分が情けなかった。無計画に飛び出しても、剛史の言う通り私には行くあてがない。今更実家は頼れないし、あれほど邪険にした手前、この件でヨダカに泣きつくわけにもいかない。助けを求められる親しい友人もいないから、ネカフェにでも泊まるしかない。例え数日を乗り越えたとして、そこから先は真っ暗だ。

 けれど一刻も早く何とかしなければ、私は再び剛史に懐柔されて、以前と同じ関係に陥るのが目に見えている。今だって、結局この部屋にいる罪悪感から、二人分の夕飯を作っている。眠るまでには、剛史に切り出そう。けれど何て言えばいい。

 昨晩、打たれたばかりの頬は今も痛む。仁王立ちで逆光を背にした剛史の形相は、私にとって恐怖でしかなかった。別れ話を切り出せば、あと何発殴られるんだろう。殴られるだけで済めば御の字なのか。私には剛史がわからない。私から彼への執着心が弱まった今、彼から私への執着の深さが恐ろしい。

 夕食を済ませた頃には、朝から降り続いていた雨はようやく小降りになっていた。私は牛乳を切らしていたことを理由に、小銭入れを持ってコンビニへ買いに行った。コーナーの一角で剛史の好きなカップケーキを見つけ、無意識にそれに手が伸びていたのにはっとする。自然と彼を喜ばせる動作を取る自分に辟易し、手を引っ込めた。「コンビニ行ったんなら、なんで買ってこなかったの」と平気な顔をして彼が言う様子が楽々想像できる。「食べたいなら、そう言ってくれたらよかったのに」今の私はそう思うのに、口に出せない自信がある。頭に浮かぶのは、曖昧に笑ってごめんねと謝る未来の自分。

 コンビニを出て、このまま近くのネカフェに飛び込もうかと本気で考えた。だけど自分の手には五百円も入っていない小銭入れと牛乳パック入りのエコバッグしかないことを思い出すと、あまりに無謀だった。淡い桃色のカーディガンの袖を少しまくって、傘をさして帰路に着いた。

「ただいま……」

 自然と口から出た声に返事はない。今日の私たちは、ほとんど会話らしい会話をしていない。おかえりがなくても、不思議には思わなかった。

 リビングに入り、キッチンで牛乳を冷蔵庫にしまいながら、ソファーに剛史の姿がないことに疑問を覚える。お風呂場で物音はしなかった。リビングと寝室はスライド式のパーテーションで仕切られている。まだ夜の八時だから、眠ってしまうには随分早い。

 ひと一人分だけ隙間の空いたパーテーションの向こうから、ゆらりと剛史が現れた。電気も点けず、寝室で何をしていたんだろう。不思議に思う私の頭は、彼の手にあるものを見て一瞬で真っ白になった。

「唯依、なんだよこれ」

 彼が手にしているのは、私が隠し続けているもう一台のスマホだった。


 剛史の低い声が、やりとりを一つずつ読み上げていく。淡々と、まるで感情移入することなく、意味のない文字の羅列を口にするように。

 私の全身はがたがたと震え出した。何も違わないのに、違うという言葉が転がり出て、剛史の声にかき消された。もしかしたら、ワンピースのポケットにしっかり収まっていなかったのかもしれない。何かのきっかけでクローゼットを開けた剛史が、落っこちたスマホを発見してしまったのだ。

 待ち合わせの約束だとか、写真のコンテストのことだとか、ヨダカとのいろいろなやり取りが、剛史の声で私の頭を貫いていく。耳から侵入し鼓膜を破いて頭蓋骨で反響して、脳みそをぐちゃぐちゃにかき回す。耳を塞ぎたいのに、金縛りにでもあったかのように、身体が思うように動かない。自分で動かせないのに、小刻みに手や足が震えて、呼吸が苦しくなる。脳が言葉で破壊されたから、思い通りに身体を動かす機能が失われたんだ。この呪文を聞いていれば、もうじき頭が潰れて心臓が弱って死んでしまうと本気で思った。

 私が力尽きる前に、剛史の言葉が止んだ。

「で、これなに」

 発光する画面は文字までは見えないけれど、見覚えのあるツーエルのチャット欄が開かれている。

「このヨダカってやつ、女だって言ったよな」

 私の喉からは、あ、とか、え、とか意味のない単音が辛うじて零れ落ちる。剛史は今まで見たことないほど怒っていて、むしろ声色は静かだ。説明しなければと思うのに、まるで何を言ってもこの場を収められない諦めが、私の上手な発声を妨げる。

「男だったんだな」

「あ、その、昔……」

「このスマホも、そいつに買ってもらったのか」

「それは……」

「俺が仕事の間、こそこそ二人で遊んでたんだな」

 激しい音を立てて、床にスマホが叩きつけられた。その床を踵で踏み鳴らして大股に近づく剛史は、こぶしで私の頭を殴った。殴られた私は冷蔵庫にぶつかって床に倒れ込む。髪の毛を掴んで頭を持ち上げられると、剛史と目が合った。その目にはさっきまでの静けさは少しも感じられず、真っ赤な憤怒に燃えている。

「おまえ、いつから浮気してたんだ」

「そんな、関係じゃ」

「いつからだ!」

 冷蔵庫に頭を叩きつけられて、激しい眩暈がした。視界の中の剛史もぐらぐらと揺れる。このままだと殺される。今の剛史には、どんな言葉も通じない。彼にとっての言い訳を繰り返せば、本当に頭を潰されてしまう。

「三月、駅前で会ったときから……」

「三ヶ月も浮気してたのか、おまえ」

「気が、合って。たまに話をしてただけ……」

「そんなん信用できるか、浮気女が! 俺を裏切りやがって!」

 裏切りという言葉が私の胸に突き刺さった。

 そんなつもりじゃなかった。ヨダカは幼馴染で、ただ昔からの気の合う友人。

 私にとってそれだけでも、私は剛史の彼女だった。どんな言い訳を重ねようとも、恋人である以上、黙ってこそこそ男の子と会うのは浮気以外の何物でもない。

 殴られる恐怖と共に、人を裏切った罪悪感が私の深い場所からこみ上げる。これが浮気だと認識されることは分かっていた、だから剛史に黙っていた。ヨダカは彼に打ち明けられる存在ではないから、懸命にひた隠しにして、そのうえ嘘まで重ねていた。

 ごめんなさいという掠れた声と共に、こみ上げる感情が形になって私の瞳から零れ落ちた。彼は私を支配する男だけど、だから私が裏切りを働いて良い理由にはならない。浮気女に成り下がる正当な理由にはなり得ない。

「呼べよ」

 私の涙を見て少し溜飲が下がったのか、剛史は私の髪から手を離した。

「そいつ、呼べよ」

 顎をしゃくった先には、彼が床に叩きつけたスマホが転がっている。

 私は立つ力もなくそこまで這いずり、震えながらスマホを手に取った。

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