25

 翌日、六月に入った。まだ梅雨入りはしていないのに雨が降っていて、私は傘をさして出かけた。結局、まだ私のスマホに監視アプリは入っていない。問題が先送りされたおかげで、私は街の本屋に行くことができた。

 本屋のテナントが一階から三階に入っているビルで、私たちは待ち合わせていた。入口でたたんだ傘を専用のビニール袋に収め、店内をきょろきょろ見回す。週刊誌コーナーで、ヨダカは同じくビニールに包んだ傘を手にうろついていた。

 本屋に行こうと提案したのは私だった。小さな出版社の雑誌だから、大きな店舗でも在庫はすぐに切れてしまうかもしれない。発売当日に買うのがベストだと思ったのだ。

 今朝、どん底まで落ち込んでいた私の心は、ヨダカのメッセージで僅かに浮上した。彼はいつの間にかコンテストに写真を送っていて、その入選を知らせるメールが届いたのだという。今日発売の雑誌にも結果が載ることを知って、私はそれを是非買いに行こうと彼に提案した。ネットで検索しても結果はわかるけど、掲載された紙面は記念に手に入れておきたい。

 私が近づくと、彼は本棚から視線を下ろした目をぎょっと見開いた。驚愕の表情で、私の顔を挨拶もなく無遠慮に指さす。

「なにそれ」

 私は自分の左頬を軽く左手で包んで、苦笑いを返した。切れた唇が痛んだ。

「転んだだけ」

 朝に鏡を見ると、腫れはひくどころかひどくなっていた。青黒い内出血の痕が私の頬から唇にかけてを覆い、明らかにただ事の様相ではない。けれど折角の機会を失うのが嫌で、下ろした髪で頬を隠しながらなんとか本屋を訪れたのだ。

「もうそんなに痛くないよ、見た目がえぐいだけ。気にしないで」

 ヨダカは勘の鋭い賢い男の子だ。私の嘘になんてこれっぽちも騙されるはずがない。

 勘が鋭いからこそ、彼は何も言わなかった。彼はもう、私と剛史の関係に口出しすることをやめたのだ。だから深い詮索もせず「気をつけろよ」とだけ言って、二度とその話題は口にしなかった。

「そういうヨダカも、顔色悪いよ」

 私はヨダカの顔を覗き込んだ。せっかく良いことがあったというのに、彼の顔色は優れない。血の気が薄く、どことなく疲れた印象を受ける。

「そんなことないけど。……強いて言えば、ちょっと疲れてんのかな。昨日、高瀬のとこ行って依頼受けてたりしたし」

「ちゃんと寝てる? 偏食なんかしてないよね」

「はいはい、大丈夫でっす」

 首を左右に曲げてぽきぽきと鳴らす彼の表情自体は気怠い。それがいつものことだと思い出して、私も気にしないことにした。

 私たちは早速、目当ての雑誌を探すことにした。コンテストの結果が載るのは聞いたことのない月刊誌で、コーナーに並ぶ雑誌のタイトルを一つずつ確認する必要があった。

「あ、これじゃない?」

 傘を左手に持ち替えて、右手で棚から一冊を抜き取る。それはカメラ雑誌ではなく、地方の暮らしを主体としたローカル雑誌だった。売れる気配のない表紙を開いて、目次に目を落とす。「かわすみフォトコンテスト」の項目を見つけて、ヨダカに雑誌を突き出した。

「自分でめくりなよ」

「いいよ、別に」

「駄目。私より本人が先に見つけないと」

 私が指さして確認するのではあまりに感慨が薄い。彼は笑って傘を持ち変えると、私から雑誌を受け取ってページをめくった。コンテストの結果は、雑誌の最後の方に載っていた。

 彼が指さす箇所を見て、私は痛みも忘れて顔が綻ぶのを感じた。

「すごいすごい! 本当に載ってる!」

 ヨダカの背を軽く叩いて、一緒に紙面を覗き込む。彼の写真は優秀賞ではなく、奨励賞の欄に入っていた。氏名欄はそのままヨダカとなっている。

 川原で数人の子どもたちが遊んでいる。半袖半ズボンの格好で、浅瀬で水をかけ合ったり、追いかけっこをしている。煌めく水の飛沫が彼らの足元で弾け、水面は少し傾いた陽の光を受けて輝いている。子どもたちの歓声が聞こえてきそうな、穏やかな昼下がりの光景だった。

「あれ、この場所……」

 私はその景色に見覚えがあった。正確には、人の姿を除いた川原の風景。ヨダカがスマホで写真を撮る背中を眺めていた記憶がある。

 彼は「あの時のだよ」と言ってにやりと笑う。「高瀬の家から帰ってた時の」

 初めて高瀬さんたちに会った帰り道、私たちは駅まで遠回りをして河川敷を通った。大きな川を見て、この風景を絵に描いてみたいと思ったことを覚えている。けれどそこにいたのは私たちだけで、他に人の影は一つもなかったはずだ。

「……この写真、まさか」

「そう。心霊写真」

 ネタバレをして、彼はいたずらが成功した愉快さに笑った。私は食い入るように雑誌の写真を見つめる。けれど、どうしてもその子どもたちは幽霊なんかには見えない。近所の子どもたちが集まって川遊びをしているとしか思えない。

「心霊写真がコンテストの奨励賞に入るって、史上初じゃない?」

 けらけらと笑う彼に、私は喜んでいた自分が馬鹿みたいに思えて、その背を更に強めに叩いた。まさかコンテストに心霊写真が送られるだなんて、主催側も想定しなかったに違いない。紙面を見るに、奨励賞には一万円の賞金まで与えらえる。

「この一万円、もらったの」

「まだだよ。けど、近々振り込んでくれるって。助かる」

「あのね……」

 私は文句を言いたいのに何と言えばいいのか分からなかった。どこにも心霊写真がNGだとは書いていないし、選んだのは先方だ。モラルの問題というのか、それも少し違う気がする。だから私は、大袈裟にため息を吐くしかなかった。

「まあ、自分で撮った写真が選ばれたってのは、本当だし……」

「そうそう。普通に嬉しい。だって撮れちゃうんだから仕方ない」

 合成でもパクリでもない写真は、実際に彼がその手でシャッターを切ったものだ。彼の作品であることには違いない。なんにせよ、彼は言葉通り嬉しそうな顔をしている。それを見ると私も次第に嬉しさを思い出し、彼の作品が選ばれたことに誇らしささえ覚える。やっぱりヨダカの写真には、認められるきっかけが必要なだけだったんだ。

 彼がその雑誌を買い、私も一冊購入した。彼は不思議そうだったけど、彼の名誉の証拠をこの手に残しておきたかった。

「じゃ、これからもっと写真撮ってね」

 本屋の前で、バイトに行くというヨダカと別れることになり、私は彼に念を押した。

「うん、そうする」

 素直に頷いて、「じゃあ、ありがと」と片手を振って彼は傘をさして歩いていった。その背中を見送って、私も傘を開いて反対方向に足を向ける。地面を跳ねた雨粒が靴下を濡らすけど、その冷たさは気にならなかった。今だけはスキップすらしたい心持ちで、雑誌の入った鞄をぎゅっと胸の前で抱いた。

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