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私の決心が揺らぐ前に彼が言い出したのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。こんなこと、幸いだと思うのが間違いなんだろうけど。
「唯依、このアプリ、スマホに入れといてよ」
お風呂を出て髪を乾かしてリビングに戻ると、ソファーで野球中継を観ていた剛史が自分のスマホの画面を私に向けた。お揃いのスマホゲームだろうと高を括っていた私は、受け取った画面を目にして言葉を失った。
「それだと、俺も仕事中に確認できるし。流石にスマホ手放す場面なんてないだろ」
それは、インストールした機器の場所をGPSで追跡できるアプリだった。早い話が、監視ツールの一つ。彼の言う通り、今の私が外出中にスマホから離れる場面なんてあり得ない。
「唯依がどこかで事故ってないかとかさ、心配なんだよ」
のんびりとした台詞が私の耳を素通りしていく。アプリの説明にある「監視」という文字が私の頭を支配する。これをインストールすれば、私の居場所は剛史に逐一報告される。実家への立ち寄りも、電車での移動も全てが把握される。彼は今後、私が気分転換に寄った喫茶店だとか、立ち読みした本屋さんだとか、全てに理由を求めるようになる。無論、ヨダカに会うこともできなくなる。しょっちゅう立ち寄るファストフード店や、電車で向かう高瀬さんたちの部屋などたちまち怪しむに違いない。
私は剛史に監視されている。だらしなさの管理ではなく、束縛の監視。行き先も使う言葉も思考も全て、彼の望むものに矯正されていく。
「どうした、早くスマホ持ってこいよ」
充電中のスマホを取りに行かない私に、剛史は怪訝な顔を向けた。そばに立ち尽くしたまま、私は手から彼のスマホを滑り落さないようにするので精一杯だった。
嫌だと、私の中で微かに囁く声があった。例え彼氏であっても、GPSで一日中監視されるのは耐えられない。
何より、ヨダカに会えなくなるのが、今の私には辛すぎる。
それなのに、嫌だという言葉を声に出せないことに、私は驚いた。剛史が怖い、彼に嫌われるのが怖い、そんな思いが心を支配している。私は彼に逆らえないという前提が、自分の思考に深く根を張っていたのを知る。愕然として、呆然とする。私は私が思うよりずっと、彼に支配されていた。
「……あのさ」
彼のスマホを返しながら発した声が震える。自分の笑顔が相当に強張っているのが、剛史の訝しげな表情で分かる。私は彼の機嫌を損ねないため、全力で笑顔らしきものを作る。
「それなら、私も同じようにしていい?」
「同じって、何が」
付き合っている恋人同士なら、立場は同等なはず。だから剛史が私の位置を知るなら、私が剛史の居場所を把握していてもおかしくない。片方だけ制限されるなんて、不公平だよ。ジャンク品のスマホを渡してくれた時のヨダカの台詞が頭をよぎる。私の発言は当たり前で、平等で、彼女として間違っていないはずなんだ。
「剛史のスマホの場所、私もGPSで確認してもいいよね」
いいよと言われる未来なんて、想像できなかった。けれど、想定外の未来が訪れることを私は心から願った。仕方ないなと言って、渋々でも彼が納得してくれる輝かしい瞬間が欲しかった。
剛史は一瞬なにを言われたのか理解できない様子で、段々とその顔は露骨にしかめられていった。「は?」と苛立ちが声に変わった一音が、彼の喉から零れ落ちる。私が一番見たくない表情、つまり機嫌を損ねた不快の感情が、たちまち空気に満ちていく。
「なんで?」
空気に接する肌を、常に静電気がピリピリと刺激するような感覚。それに抗う私の声は、まるで風のように細く掠れる。
「私、剛史の彼女だから。だから、同じじゃないと、おかしいと思って……」
「誰の入れ知恵? それ」
「誰とかいうんじゃないよ、私はただ、剛史と同じように」
彼が自分のスマホをソファーに投げつける。音はほとんど聞こえなかったけど、私の肩はびくんと跳ねた。
「何おまえ、調子乗ってんの? なんで俺がおまえに監視されないといけないわけ」
「監視とか、そういうつもりじゃなくて」
「じゃあなんだよ、俺の居場所を常に監視しておきたいってことだろ」
明らかに、剛史にとっての私は平等な相手じゃない。彼は私を監視して当然なのに、その逆は絶対に成り立たないと確信している。彼の発言からそれは明確で、私は寝間着のTシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「それなら、どうして剛史が私を監視するの」
「言ってるだろ、唯依は馬鹿で抜けてるからな、心配なんだよ」
「私、そこまで馬鹿じゃない」
柚梨さんの言葉を何度も何度も考えて、考え続けて、一つの答えを出した。私の頭は良くない、悪い方だと思う、だけど私を「馬鹿」という枠にはめているのは剛史だ。大学を出て立派に働いている社会人の彼から見れば、私はどう足掻いても頭が悪い。だからといって、私は馬鹿ではない。剛史の言葉が私の価値を固定して、それに依存する私が自分は馬鹿だと信じている。こんな関係、対等なはずがない。
「いや、おまえは馬鹿だよ、中卒なんだから」
「それなら教えてよ。馬鹿にしないで、いろんなこと教えてよ。付き合うってそういうことじゃないの。もっと良い関係になるよう、支え合うことじゃないの。私、やれること頑張るから、まともな大人になるから、もうこれ以上……」
馬鹿にしないでという言葉が出なかった。出せなかった。
いつの間にか、私は床に這いつくばっていた。仁王立ちで自分を見下ろす剛史を見て、その大きな手のひらで打たれたのだと気が付いた。嫌な感触がして視線を向けると、フローリングの床に真っ赤な鼻血が滴っていた。
「調子に乗んなよ、俺が養ってやってんだから」
痛みのせいではない、もう終わりだという悲しみにより、視界がじんわりと涙で滲んだ。
「ここ出ても、行くとこなんてないだろ。な、素直でいろって。俺はおまえが好きなんだから」
ぐったりした私を抱き起こして、鼻血がつくのも厭わずに彼は抱きしめた。私の大好きな、大好きなはずの仕草だった。今の私には、彼を抱き返す力さえなかった。鏡の反射のように、好きだという言葉を返すこともできなかった。
空気のピリつきはいつの間にか収まって、落ち着いた和やかささえ感じられた。心底求めていたはずの空気に包まれて、私は何も言わずにただ瞼を閉じた。
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